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第8章の4:第1次大戦とドイツのインフレ(その1)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

2 第1次大戦とドイツのインフレ

◇第1次世界大戦もマネーの戦いだった
 1914年7月に第1次世界大戦が勃発。戦争は当初の予想を超えて長期化し、大量殺戮兵器の出現によって一般市民もまきこまれ、未曾有の犠牲と被害がもたらされた。
 戦争の勃発とともに、ドイツ、フランス、イギリス、オーストリアなどの参戦国は、金本位制から離脱した。
 1918年11月、ドイツとオーストリア・ハンガリーが敗れ、大戦は終結した。
 この大戦は、日本から離れたヨーロッパ大陸を戦場として行なわれたため、日本人の感覚では、必ずしも歴史上の大事件としては捉えられていない。しかし、ヨーロッパの人々から見れば、ある意味では第2次世界大戦よりも大きな事件だった。なぜなら、この大戦によって、それまでの世界秩序が決定的に破壊されたからだ。ドイツでは、すべての王侯貴族が追放された。オーストリアでは、600年以上にわたって君臨してきたハプスブルク家が追放された。
 4年3カ月にわたった戦争の戦費も巨額だった。富田『国債の歴史』によれば、ドイツは戦前の予算の50年分、イギリスは38年分、フランスは27年分、ロシアは18年分を費やした。ピーク時軍事費のGNPに対する比率は、ドイツが53%、イギリスが38%、アメリカが13%だった。
 では、各国は巨額の戦費をどのようにして賄ったのか?
 戦費を賄う方法は、基本的にはつぎの3つだ。
 第1は増税。ただし、アメリカ以外の国では、この方法はほとんど用いられなかった。アメリカでは、戦費の30%が税収で賄われた。
 第2は外国からの借り入れ。連合国側では、当初はイギリスが、続いてアメリカが、参戦国に資金を貸し付けた。同盟国側ではドイツが貸し付けた。
 第3は国債の国内消化だ。ただし、貯蓄によって消化するにはあまりに巨額だったので、大部分は中央銀行が紙幣を発行することによって引き受けた。各国が金本位制を停止したのは、こうした資金調達を行なうためだ。
 それまでの大戦争と同じように、第1次大戦も経済力の戦いになった。とりわけ、マネーの戦いだった。ナポレオン戦争がイギリスとフランスの戦費調達力の戦いであったのに対して、第1次大戦は主としてアメリカとドイツの戦いであった。この両国は、イギリスに続いて工業化に成功し、勃興しつつあった新興工業国だ。鉄道、鉄鋼業、造船産業、化学産業などにおいて、世界の最先端にあった。また、自動車産業や石油産業も勃興しつつあった。
 第1次大戦における膨大な戦時需要は、これら重化学工業の発展を促進させた。それと同時に、それらの国の産業力が戦争の帰趨を決めることになった。
 イギリスでは多様な公債が発行された。また、政府紙幣も発行された。
 アメリカでは、連邦政府が、設立されたばかりの連邦準備制度(FRB)から借り入れを行ない、FRBが紙幣を発行した。
 どの国においても、戦費の大部分は、前記第3の方法によって賄われた。通貨の発行量が増えれば、物価が上昇する。戦時中は価格統制などによって物価上昇が抑えられ、そのためインフレの影響は部分的にしか表れず、戦後になってから顕在化して、激しいインフレをもたらすことになる場合が多い。
 アメリカには金が流入した。1914年末から1917年末までに、金保有額はほとんど2倍になった。インフレの危険があった。
 ドイツは、戦費のほとんどを債務で賄った。政府短期証券と国債が増発され、紙幣の増発によって賄われた。このため、紙幣発行残高は、戦前の20億マルク前後から、1918年3月末には120億マルクにまで増加した。
 ただし、卸売物価は、1917年に34%、1918年に20%の増加率にとどまった。これは、小売物価が統制されていたためだ。
 ドイツの紙幣増発の過程で重要な役割を果たしたのが、中央銀行であるライヒスバンクの総裁ルドルフ・フォン・ハーフェンシュタインだ。彼は、歴史上最悪のセントラルバンカーと言われる。
 アーウィン『マネーの支配者』によると、1876年に設立されたライヒスバンクは、新興工業国ドイツが世界の舞台で頭角を現すために欠かせない道具だった。20世紀の初め頃までには、金属貨幣を徐々に減らして紙幣に移行し、近代的通貨システムを構築していた。
 ハーフェンシュタインは官僚として頂点を極めた人物だった。弁護士から判事となり、プロイセンの財務省でキャリアを築いた。1908年にライヒスバンクの総裁に就任。ドイツとイギリス、フランスとの武力衝突が避けられない状況になってくると、彼は、「ドイツの戦費調達にはライヒスバンクの力が不可欠」と考えるようになった。「ドイツが必要とするものはすべて紙幣で賄う」というハーフェンシュタインの経済哲学は、戦後のドイツ経済を破綻の淵まで追いつめることになる。

◇ドイツが必要とするものは、紙幣を印刷して賄う
 アーウィン『マネーの支配者』によると、第1次世界大戦直前の1914年6月、ライヒスバンクの総裁ハーフェンシュタインは、ドイツの大手銀行の経営者を招集して、「今後3年間で流動性を2倍にする必要がある。銀行は通貨を銀行内に止めずに、必ず流通させるように」と言った。この目的は戦費調達の手段を確保することであった。
 ハーフェンシュタインは次のように考えていた。「イギリスは、ドイツの経済発展と軍事力に嫉妬し、悪意を抱いている。それが世界大戦の根本原因である」
 彼は1914年9月にこう書いた。「経済活動を継続する前提は、伝統的な信用供給機関の積極的な活用、つまりライヒスバンクの活用である」
 ドイツ国民は、金貨や宝石をライヒスバンクが発行する紙幣と交換するよう奨励された。これによって、政府は戦費調達の強力な手段をえた。ライヒスバンクのプロパガンダ用のポスターは、つぎのように言っていた。
「我が祖国に金貨を! 私は防衛のために金貨を差し出し、その名誉ある代償として鉄を受け取った。国家の金準備を増やせ! あなたの金と宝石を、金事務局に持ち寄ろう」
 ハーフェンシュタインは、ドイツが必要とするなら、どんな目的であっても、紙幣を印刷してそれを賄うことが、自分の使命だと考えていた。そして、それを実行したのである。
 アーウィンは、「この戦略は、ドイツが戦争に勝つことが大前提だった。仮に勝っても、平時の経済への移行は難しかったろう」と言っている。
 だが、終戦直後の状態は、破滅的と言うほどではなかった。
 終戦時の物価を戦前と比べると、ドイツは2・45倍に上昇していた。これは、アメリカの2・03倍やイギリスの2・29倍に比べれば高めだった。しかし、フランスの3・25倍やイタリアの4・37倍などと比べると、低かった。
 しかも、インフレは、ドイツ経済にプラスに働いたとされる。マルク安が進み、ドイツの輸出競争力が高まったからだ。失業率は低く、株価は上昇した。
 戦争が起きた時点での為替レートは、1ドル4・2マルクだった。停戦条約が結ばれたときには、1ドル7・4マルクになっていた。これは、年率13%の下落だ。ただし、「その程度なら、1980年代初頭のアメリカのインフレ率とさほど変わらない」とアーウィンは言っている。
 1919年になって、戦時公債の償還や軍人の復員費などのために、財政支出が増大した。これを賄うために、政府は戦時利得者や富裕層に対する増税を計画したのだが、実現できなかった。
 そこで、政府は、増加した支出を国債の増発によって賄い、これをライヒスバンクに引き受けさせた。つまり、紙幣の増発によって財政赤字を賄うこととしたのである。このため、次第にインフレが進行していった。しかし、ハーフェンシュタインは、「インフレの原因は、買いだめであり、紙幣増発ではない」と言っていた。
 1921年3月から行なわれたロンドン会議において、1320億金マルク(純金4万7256トン相当)という賠償金が決められた。
『マネーの支配者』によると、これは、ドイツの歳入の3年分にも及ぶ巨額のものだ。この過酷な賠償金が、事態を悪化させた。
 イギリスの経済学者ケインズは、1919年の『平和の経済的帰結』の中で、「こうした巨額の賠償金は、実行不可能であり、ドイツにインフレをもたらし、いずれヨーロッパ経済を破綻させる」と警告している(ちなみに、ドイツがこの賠償金を完済したのは、92年後の2010年10月のことである)。
 ドイツの返済が滞ると、フランスは、ドイツの工業地帯であるルール地方接収のために軍を進駐させた。
 1922年になって、ライヒスバンクが、紙幣の異常な増刷を始めた。超高額紙幣は、「パピエルマルク」(紙のマルク)と呼ばれた。
 こうして、異常なインフレが始まった。
 マルクは、1921年10月の1ポンド=712マルクから、1922年末の3万5000マルクにまで暴落した。
 1923年1月から、フランスは、ベルギーとともにルール地方の占領を開始した。これに対してドイツ政府は、ルール地方でストライキに入ったドイツ人労働者の人件費を国費で賄うことにした。
 1923年の春には、インフレの進行はまだそれほどではなかった。しかし、初夏頃から、インフレが一気に進行した。

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