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第3章の4 結局破綻したローのシステム

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されます(2019年5月20日予定)。
第3章を4回にわけて全文公開します。

4 結局破綻したローのシステム
◇マネーの復讐がついに始まった
 万事順調に見えたローのシステムに、1720年初頭から翳りが見えてきた。きっかけは、ミシシッピ会社の新株購入を断られて腹を立てたある公爵が、株式を換金したことだ。金貨を運ぶために、3台もの馬車が必要だった。
 こんなことが広がっては困るので、ローはオルレアン公に訴えて、これを止めさせた。
 この件は何とか処理できたのだが、その後、同じことをする人が増えてきた。株式仲買人たちは、株価が永遠に上がり続けるはずはないと考えるようになった。そこで、株式を金貨に替えて外国に送金する。また、運べるだけの食器類や宝飾類を購入して、イングランドやオランダにひそかに送った。
 紙幣を金貨に替えて、それを外国に持ち出す人も増えてきた。このため、金貨が不足し、不満の声が上がった。
 すでに述べたように、ローの銀行が発行する紙幣は、法貨としての地位を与えられている。それにもかかわらず、人びとが紙幣を持たなくなった、という点が重要だ。マネーは、法律で強制するから流通するのではなく、人びとが信用するから流通するのだ。それが、この事例からよくわかる。
 この事態に対して必要だったのは、紙幣の発行量を減らして、その信用を回復することだった。つまり、市場メカニズムを重視して、マネーの需要と供給のバランスを図ることだったのである。しかし、ローもオルレアン公もそうはせず、むしろ、紙幣を増発した。
 彼らが頼ったのは、市場メカニズムではなく、権力による統制策だ。換金額を厳しく制限し、一度に金貨100リーブルと銀貨10リーブルまでしか換金できないこととした。
 しかし、紙幣の信用は取り戻せない。硬貨の不足のため、商業活動にも支障が出てきた。
 ローは、マネーのマジックを駆使して、フランスという国家を思うままに操った。しかし、ついにマネーの復讐が始まったのだ。
 1720年2月、ローは強硬策に打って出た。
 500リーブル以上の硬貨保有を一切禁止するという勅令を発したのである。違反者には重い罰金が科せられた。宝飾食器類を買い占めることも禁じられた。通報者には没収額の2分の1を与えるとして、密告が奨励された。
 500リーブルは20ポンドに相当する。前に述べた換算率を用いれば、現在の日本円で56万円。かなり厳しい制約だ。
 使用人が主人を裏切ったり、市民が隣人をひそかに見張ったりする。逮捕や押収が跡をたたず、裁判所は案件をさばききれない。国中が前例のない暴政に悲鳴をあげた。それでも紙幣を持とうとする人はいない。
 フランス経済は取り返しがつかぬほどの壊滅的な打撃を受けてしまったのだが、不思議なことに暴動騒ぎは起こらなかった。
 ミシシッピ会社についても疑惑が広がり、株価が急落した。ルイジアナにあるという巨万の富も怪しくなってきた。そこでローは一計を案じた。
 徴兵令を発して、パリ中から6000人の貧民を集め、つるはしやスコップをもたせてパリの街を行進させたのである。そして、ニューオーリンズ行きの船に乗せた。ルイジアナの金採掘がいよいよ始まると、人々に信じ込ませるためだ。
 もちろん、彼らは新大陸に行ったわけではなく、数日後にはパリに戻ってしまった。しかし、この作戦は功を奏し、ミシシッピ会社の株価は一時的に持ち直した。笑ってしまうような奇策だが、天才的名案とも言えるだろう。

◇ローは国外逃亡、フランスは病院に
 ローが作ったシステムに対する信頼は、急速に崩壊した。紙幣の価値は下落し、ミシシッピ会社の株も暴落した。すでに紙幣が大量に発行されていたので、インフレが起きた。
 オルレアン公は責任をローに押しつけた。爆発した民衆の怒りは、ローに向けられた。彼が馬車で帰宅して家に入ろうとすると、群衆が馬車に石を投げながら襲いかかってきた。
 ここで、かつての大法官アンリ・フランソワ・ダゲッソーが呼び戻された。大法官というのは、革命前のフランスでは、国王側近の重臣。大元帥に次ぐ高位の官職だ。彼は、当時のフランスで最も有能で誠実な公人であったと言われる。
 ダゲッソーは、1718年に、ローの計画に強く反対したため、オルレアン公によって突然職を解かれており、パリ南郊の屋敷に引きこもって、哲学の研究に打ち込んでいた。友人たちは、復帰に応じるべきでないと反対したが、彼は申し出を快く受諾してパリに戻った。
 彼は、正貨保有を厳しく制限する1720年2月の勅令を廃止し、正貨の保有を認めることとした。
 人々は、紙幣を正貨に替えようと、銀行に押し寄せた。おびただしい数の人々が押し寄せたので、毎日のように圧死者が出た。銀行の窓が投石で割られた。
 1720年5月、ローの銀行は閉鎖され、ローは解任された。彼は、宮廷から放逐され、国外に逃亡した。
 こうして、ローの魔術は破綻した。フランスの財政危機は解決されず、インフレだけが残った。これは、フランス革命の遠因の一つになったとされる。
 ローの物語の教訓として、つぎの3つをあげることができよう。
 第1は、巨額の国債を消滅させる簡単な方法などないことだ。
 第2は、金融緩和は、一時的には熱狂を起こせても、経済の実態は変えられないことだ。ローが振りまいたのは、「期待」だけだった。それだけでなく、長期的に見れば、金融緩和は改革を遅らせる。ローの失敗によって、フランス経済が長期的に損失を受けたと、ファーガソンは『マネーの進化史』で指摘する。金融システムは大きな痛手を受け、紙幣や株式市場の発展が何世紀も遅れた。フランス人がいまに至るまで金\_rきん\/に執着して紙幣を信用しないのは、この時の記憶が残っているからだと言われる。
 第3は、中央銀行の役割だ。すでに述べたように、ミシシッピ会社とほぼ時期を同じくして、イギリスでも南海会社の株価が暴騰し、そして暴落した。ただし、イギリスではインフレにはならなかった。その理由は、イギリスにはすでにイングランド銀行という中央銀行があったので、フランスの場合のように、紙幣の大量発行という事態にはならなかったことだ。
 ミシシッピ会社や南海会社の顛末は、単なる歴史上の椿事ではなく、マネーや金融政策、あるいはバブルに関する基本的な問題を提起する。だから、現代においても、詳しく論じる価値がある。実際、いまに至るまで、ローと同じような方法で財政赤字に対処できるという提案が繰り返しなされている。また、金融緩和を求める声は強い。こうした問題については、後で再び論じることにしよう。
 ところで、フランスから逃亡したローは、1729年、ヴェネツィアで貧困のうちに死んだ。
 その墓碑銘には、つぎのように書かれていた。

 高名なるスコットランド人、ここに眠る。
 計算高さでは天下一品、
 訳の分からぬ法則で、
 フランスを病院へ送った。

◇ジョン・ローは「量的緩和政策の父」
 ローが行なったのも、南海会社が行なったのも、国債という形の債務を別の形の債務に変えようということである。
 南海会社は、国債で南海会社の株を買えることとした。これは、返却の必要がある「国債」という形の債務を、返却の必要がない「株式」という形の債務に転換するものである。現在でも、「デット・エクイティ・スワップ」と呼ばれ、企業再生などのための手法として用いられている。
 しかし、国債残高は巨額である場合が多いので、一つの会社の株式に全額を変えてしまうことは難しい。しかも、南海会社は実体のないペーパーカンパニーなので、その株価を高く維持し続けるのも難しい。宣伝で株価を煽れば一時的なバブルは起きるが、それを長続きさせるのは困難だ。
 ローのシステムでは、国債をミシシッピ会社の株に変えた。ただし、会社の配当は紙幣で支払われたので、株式の価値を支えていたのは、ローの銀行が発行する紙幣である。つまり、国債という形の国の債務を、ミシシッピ会社の株式を経由して、紙幣という形の債務に置き換えようとしたものだ、と考えることができる。
 こちらの方が手が込んでおり、また、南海会社のように「いつか必ず破綻する」というわけでもない。人々が紙幣をマネーと信じてくれれば、成功するかもしれない。また、南海会社の方法には限度があるが、紙幣であれば、かなりの額を発行することができる。
 したがって、うまくやれば、成功するかもしれない。実際、『狂気とバブル』の著者マッケイも、「オルレアン公が図に乗って貨幣を増発したために、失敗した」というニュアンスで書いている。
 もし過剰に発行しなければ、人々はローの紙幣を信用して使用し続けたかもしれない。その場合には、国債の減額は成功していただろう。すると、ローの失敗は、仕組みそのものではなくて、紙幣を過剰に発行したことにあったかもしれないのである。
 ローのシステムは、一般には、歴史におけるバブル事件の一つとして片付けられてしまっている。しかし、もっと重要な意味を持っているのだ。それは、「マネーはなぜマネーとして機能し得るのか?」という問題である。そこが南海事件との本質的な違いだ。この事件は詳細に検討する価値がある。
「国債を貨幣に変える」というローの方法は、「国債の貨幣化」、または「財政ファイナンス」と呼ばれる。この方法は、現代にいたるまで生き延びている。というより、国が過剰債務を解消するために用いる基本的手法となっているのである。
 このため、ローは、「量的緩和政策の父」と呼ばれる。フィリップ・コガンは、『紙の約束─マネー、債務、新世界秩序』(日本経済新聞出版社)の中で、「21世紀の量的緩和策は、ローと同じ理論のハイテク版だ」と言っている。
 ここで重要なのは、「紙幣は、何の価値の裏付けがなくても、人々がそれをマネーとして信用する限りにおいて、マネーとして通用する」ということである。
 例えば日銀券には何の価値の裏付けもない。しかし、人々はそれを利用している(「租税の支払いに使える」という意味で価値の裏付けがあるが、ローの紙幣の場合も同じだった)。
 つまり国とは特別な存在であって、借金を返さなくても済んでしまうのだ。おかしなことと思われるかもしれないが、うまくやればそうなるのである。
 現在日本銀行が行なっている異次元金融緩和措置も、基本的には財政ファイナンスである。これについて、次項で説明しよう。

◇巨額の国債が返済不要になっ
 南海会社やローのシステムは、国債を別の形の債務に変えて、実質的な債務から逃れようとした。これと同じことが、現在の日本でも行なわれている。
 2013年4月からの異次元金融緩和で、日本銀行は年50兆~80兆円のペースで民間銀行から国債を購入した。その結果、日銀の国債保有残高が増えた。資金循環統計によると、2018年9月末の日銀の国債・財投債保有残高は455兆円。残高全体に占める割合は45・7%となった。異次元緩和前の2013年3月末では94兆円、11・6%だったので、大幅な増加だ。これはどのような意味を持つか?
 日銀が民間銀行から国債を買い取れば、国債は国と日銀との貸し借りになってしまう。ところで、日銀は国の機関ではないが、財政的には国と一体と考えてよい。なぜなら、日銀が得た利益は、準備金に充当されるものなどを除き、国庫に納付されるからだ。だから、日銀保有国債について、国が償還した金額や国が支払った国債の利子は、結局は国庫に戻る。つまり形式的に国債の利払いや償還はなされるが、それは国にとって負担にならないのだ。
 このように、異次元金融緩和によって、巨額の国債が財政通貨当局の負担にならない形に変わっている。これこそが、異次元緩和の最も重要な効果だ。国の負担を軽減するという点では、大きな意味があったのだ。
 もちろん、財政通貨当局(国+日銀)の債務が消滅したわけではない。民間銀行が国債を売却した代金の大部分は、日銀当座預金として積まれている。つまり、財政通貨当局の債務の形態は、国債という形から、日銀当座預金という形に変わったのだ。
 当座預金は要求払い預金だから、払い戻し要求がある。しかし、そうなっても、財政通貨当局にとって負担にならない。なぜなら、日銀券を発行すれば返却できるからだ。日銀券は、日銀の負債ではあるが、返却する必要がないし、利払いもない。
 つまり、財政通貨当局の負債は、民間銀行保有の国債という形から日銀当座預金という形にすでに変わっているのだが、さらに日銀券という形に変わりうる。こうなれば、債務は残っているが、返却する必要はない。つまり、「国債の貨幣化」が行なわれたことになる。
 日銀引き受けで国債を発行すれば、国債は直ちに貨幣化される。しかし、この方法は、財政法によって禁止されている。右に見た方法は、実質的にこれと同じものだ。
 貨幣の増加は物価を上げる。つまり、貨幣の価値を下げる。だから、国債の貨幣化は、債権者である国民にとって望ましくない。日銀引き受けによる国債発行が財政法によって禁止されているのは、このためだ。
 日本でも、終戦直後に国債の貨幣化と実質的に同じことが行なわれ、インフレが生じた。
 いまでも、日銀当座預金が日銀券に変われば、マネーストックが増加して、インフレが起きる。2019年2月末で、当座預金残高が385兆円で、日銀券が102兆円だ。一方、マネーストック(M1)は774兆円である。だから、当座預金がすべて日銀券になれば、日銀券は約5倍に増え、M1が5割程度増加する。
 もし物価がマネーストックに比例して上昇すれば、物価は50%上昇する。こうなれば、民間に残っている国債残高についても、負債の実質的な負担が減少する。さらに、連鎖反応が起きる。資本逃避が起き、円安が進んで物価がさらに上昇するだろう。

◇ローの失敗の原因は紙幣の行きすぎた増発
 すでに述べたように、ローはスコットランドの金匠の息子だった。
 15世紀頃のイタリアで、銀行が金の預かり証を発行していた。この業務は、17世紀頃、イングランドやスコットランドにも広がった。金を預かり、保管し、細工する業者は金匠(ゴールドスミス)と呼ばれ、彼らが発行する預かり証は、「ゴールドスミス・ノート」と呼ばれた。ローの父親はこの事業で成功していたのだ。
 預かり証は、最初は実際に存在する金貨の見返りに、その範囲内で発行されていたのだろう。しかし、銀行や金匠は、そのうちに、金が実際に存在していなくとも、預かり証を発行してよいことに気が付いたに違いない。現代の言葉で言えば、不換紙幣が可能だということである。
 もちろん、「いくらでも発行してよい」ということではない。発行しすぎれば、人々は預かり証の価値を信じなくなる。
 だから、発行量をコントロールすることが重要だ。これからも述べるように、「どこまでが許されるか」が、現在に至るまで、マネー政策の最重要の課題になるのだ。
 ローは父親の下で働くうちに、銀行業務の真髄を会得するまでになったと述べた。真髄というのは、このことだったに違いない。
 つまり、物理的な金が存在しない預かり証を発行してもよいが、その発行量は細心の注意をもって管理されなければならないということだ。
 金匠の事業範囲は、ローカルなものにとどまっていただろう。ところが、ローは、ルイ王朝の権力の下で、それを国家規模に拡大したのだ。
 ローがオルレアン公に吹き込んだのは、次のことであった。
 第1に、国家規模で不換紙幣の発行ができること。
 第2に、国債を何らかの方法で不換紙幣に置き換えてしまえば、国は国債の負担から逃れられること。
 これは、現代の用語でいう国債の貨幣化である。「ローは量的緩和政策の父である」という言葉を紹介したが、正確に言えば、「ローは国債貨幣化政策の父である」(もっとも、「量的緩和政策は、伝統的な金融緩和政策とは違って、かならず国債貨幣化を行なっている」ということであれば、どちらの表現も同じことだ)。
 第3に、以上を実行するために、不換紙幣を発行できる銀行と、ミシシッピ会社を設立すること。
 いまから考えると、ミシシッピ会社はローのシステムでは不可欠の要素ではなかったように思われる。しかし、国債を直接に紙幣に交換するのでなく、間に同社の株式を介在させることによって、システムを複雑にして、分かりにくくする働きをした。
 この類のシステム(つまり、人々をだますための仕組み)は、複雑なほうがよいのだ。実際、いまにいたるまで、ローのシステムの本質がどこにあったかは、必ずしも正確に理解されていない。
 ミシシッピ会社の株がバブルを起こしたことだと一般には捉えられているのだが、そのことよりも、人々が国債を売ってミシシッピ会社の株(究極的には、ローの銀行の紙幣)に換えたことが重要である。
 このシステムの最も肝心なところは、人々の信頼をつなぎ留めておくために、紙幣の発行額を適切にコントロールすることだ。
 ローのシステムの失敗は、システムそのものが持っていた欠陥ではなく、その運用を誤り、図に乗って紙幣発行量を増やしすぎたことにあったと考えられるのである。

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