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第8章の8:第2次大戦はどう賄われたか?(その2)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

占領地での戦費は軍票で調達された
 第2次世界大戦が進行するにつれて、占領地域において使用される戦費の割合は増大していった。これを賄うため、旧日本軍はアジアの占領地域で軍票を用いて戦費調達を行なった。
 軍票は、軍隊が現地における物資調達やその他の支払いのために発行する擬似紙幣である。正式には軍用手票と言われる。
 占領地で自国通貨を使用すると通貨供給量が増加し、インフレーションがもたらされる恐れがある。これを防ぐため、占領地の経済を本国経済から切り離す目的で軍票が用いられる。
 これについて『昭和財政史』(第4巻)は、つぎのように説明している。
「太平洋戦争への突入後、昭和十七年から臨時軍事費の予算は急角度で膨張をはじめ、しかもその支払額のうち占領地域において使用される戦費の割合は、増大していった。このような占領地における戦費支払の増大は、国債の発行をいよいよ増加させ国内のインフレをいっそう促進させるおそれがあったので、国債の新規発行額を抑制する必要から、国債の発行に代って(軍票が用いられた)」

 発行の仕組みはやや複雑だ。『昭和財政史』の説明を要約すれば、つぎのとおりだ。
 まず、占領地における現地金融機関が紙幣を発行する。現地金融機関とは、朝鮮銀行、横浜正金銀行、南方開発金庫等である。また間接的には中国聯合準備銀行、中央儲備銀行、満州中央銀行、さらに印度支那銀行、タイ国銀行等も含まれる。
 その紙幣を、外資金庫、横浜正金銀行、日本銀行が借り入れ、さらに、それを臨時軍事費特別会計が借り入れて支出する(外資金庫については後述)。
 結局のところ、臨時軍事費特別会計が借入証書を発行して現地で資材や労務を調達したのと同じことになる。借用証ではなく紙幣の形をとっており、転々流通するところが違う。
 南方開発金庫は、政府出資で1942年3月に設立された金融機関で、日本占領下の東南アジアにおいて、事実上の中央銀行として活動した(1945年解散)。発券機能を持ち、「南発券」を発行した。地域別に軍票を出すと不都合が生じるため、統一した貨幣が必要だったからだ。しかし、実質は従来の軍票と変わらないものだった。中国や香港では「円軍票」が使われたが、東南アジアでは現地通貨の表示とされた。
 軍票は裏付けのない通貨なので、アジアの占領地域では、日本国内をはるかに上回るインフレが発生した。
『昭和財政史』は、これは実質的には軍票的紙幣の発行制度であったとして、つぎのように述べている。
「現地通貨による借入金はいずれも、実質的に軍票と変らない現地円系通貨のための借入金であり、現地における日本金融機関の発券機能を通じての軍需要の充足であって、実質的には、陸軍で言っていたように『外国資源の獲得使用』にほかならない」

 この制度による借入額は、合計で約427億円だ。
 軍票は戦争が終われば、本来の通貨と交換すべきものだ。
実際、日清戦争からシベリア出兵までの期間で日本軍が発行した軍票は、ほぼ全額が回収された。
 しかし、第2次世界大戦の軍票に対する日本政府の支払い義務については、敗戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサーの覚書に基づいて、大蔵省が、一切の軍票及び占領地通貨は無効とする旨の声明を出した。
 さらに、連合国がサンフランシスコ講和条約で請求権を放棄した。このため、回収されずに終わった。
 これだけでも奇奇怪怪だが、『昭和財政史』にはもっと奇怪なことが書いてある。
「借入金はいずれも軍票ないし軍票類似の現地円系通貨を発行するための借入金であるが、しかしそれら軍票ないし軍票類似の現地円系通貨の発行がすベて現地通貨借入金として処理されたわけではない。とくに聯銀券、儲備券、南発券についての借入金が二十年度に計上されなくなったことからもそれは知られるであろう。二十年三月以後はすべて外資金庫への払込金として処理され、 臨時軍事費特別会計からは姿を消してしまったのである」
「姿を消してしまった」とは、一体いかなることか? これについては、次項で述べる。

◇特殊金融機関「外資金庫」の秘密
 軍票の乱発により、占領地域で激しいインフレが発生した。
 1936(昭和11)年の年平均を基準にした卸売物価指数を見ると、北京では1943年3月に10倍以上になり、1944年末には50倍に近づいた。上海では、1941年秋に10倍を超え、1943年末には100倍を超えた。そして、1944年末には1000倍に近づいた。シンガポールでは1944年末に1941年末の100倍を超した。
 これに対処する方法として本来取られるべきは、公定為替レートの切り下げである。しかし、日本政府は、そうしなかった。なぜか? 『昭和財政史』第4巻の説明は、つぎのとおりだ。
「『大東亜共栄圏』を表看板にしていた当時の日本帝国政府としては、そのような方法をとることは政治的配慮からして実行しにくいものであった。というのは、そうした形で現地経済を露骨に搾取することは、『同甘共苦』を建前とする『八紘一宇』の精神には、あまりにもふさわしくないと考えられたからであり、またそれが従来の経済政策の完全な破綻を公認する結果になることをおそれたからであった」

 では、それより適切な方法が取られたのか? 具体的な方法は以下に述べる通りだが、実態は何も変えずに、数字を見えないようにした。
 これは、ごまかしに過ぎない。分かりにくくしただけのことである。『昭和財政史』も、「それは結局、金額の整理方法を変えただけであって、実質的には現地経済の露骨な搾取とほとんど変りのないものであったといわなければならない」としている。
 こうして、日本円と占領地円系通貨との間の公定交換率は固守された。このため、書類上では、占領地の軍事費は、占領地でのインフレに合わせて膨れ上がることになった。
 そこで、これを見かけ上抑制するため、特殊金融機関である「外資金庫」を新設し、これに占領地での一切の戦費の調達をおこなわせることとした。外資金庫は、1944年12月の閣議で決定され、1945年3月1日から業務を開始した。
 外資金庫の業務は、第1には、横浜正金銀行、朝鮮銀行、南方開発金庫の借り入れを肩代わりしたことである。
 第2の業務は「調整」であって、これが基本的な業務だ。
 これは、占領地における物件費の支払いについて、支払額の一部だけを臨時軍事費から支出し、残りの大部分を外資金庫調整金として支給する(その金額を日本銀行代理店に払い込んで戦費にあてる)という方法である。
 それまでは、臨時軍事費特別会計が現地金融機関等から借り入れて、戦費を支出していた。新しい方式では、戦費の大部分は、臨時軍事費特別会計を経由せず、直接に現地の軍に支給される。
 要するに、戦費の大部分が予算外の支出になったのだ。つまり、見えなくしたのである。前項の最後に「(戦費が)臨時軍事費特別会計からは姿を消してしまった」と述べたのは、このことだ。

 国家が行なっている戦争の支出が予算外の支出になるなど、まったくのルール違反だ。しかし、内地が毎日のように激しい爆撃にさらされている1945年に、誰もそのことを問題とする余裕などなかった。しかも、外資金庫の活動は極秘とされ、決算等の業務は戦後に行なうこととされたので、外部の者が操作の実態を知ることはできなかった(なお、臨時軍事費特別会計も、戦争の始期から終期までを1会計年度とみなして処理していた)。
 これによって、臨時軍事費特別会計の支出として経理されている軍事費は、実際の軍事費のうちのごく一部になってしまった。
 その比率はどの程度であったか? 外資金庫の発足当初は、臨時軍事費特別会計の支出として経理されている軍事費は、実際の軍事費の5%とされた。残りの95%は外資金庫が負担した。
 しかし、中国における物価の騰貴は、その後ますます激しくなったので、臨時軍事費特別会計の負担率は、1945年5月以降は2%に切り下げられた。
 さらに、7月以降については、この比率は1%に切り下げられた。
 終戦直後に閉鎖機関整理委員会で作成された損益試算表によれば、以上の「調整」によって国庫に納入された金額は、合計で5228億円であった。

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