図書館ー2

クラシックの押し売りに参上しました(その3):生産者の論理は消費者の論理と違う

◇「クラシックス」(古典)
 音楽においても文学においても、時代を超越した作品があり、それらは、いつの時代になっても決して古くなることはありません。
 それを「クラシックス」(古典)と呼びました。

 そして、古典は、現在生産されているものに比べて質が高い。だから、限られた時間を使って読んだり聞いたりするのであれば、現在生産されている音楽や文学でなく、古典を読んだり聞いたりするほうが効率的だ。
 クラシックの押し売りに参上しました(その2)で、このように述べました。

◇誰でも望めば古典に接することができる
 いま、われわれは、望みばそれらの作品を読んだり聞いたりすることが、簡単にできます。これは、考えてみればら素晴らしいことです。

 ここで改めて思い出していただきたいのですが、人類の歴史において、多くの人が古典に接することができるようになったのは、それほど昔からのことではありません。
 まず、誰もが文字を読めたわけではありません
 その上、印刷物のコストは高く、誰もが印刷物を手に入れられるわけではありませんでした。
 音楽についてもそうです。その鑑賞のためには、実際の演奏を聴きに行く必要がありますが、これはかなり高価なことです。ロシア革命以前のロシアで、バレエを見ることができるのは、貴族階級の特権でした。

◇ 生産者の論理とは
 ところで、新たに生産されている音楽や文学の質は古典に比べれば低いわけですから、古典だけが供給されていて、新しい作品は供給されなかったとしても、不思議はありません。
 しかし、実際には、その逆のことが起こっています。つまり、新しいものだけがどんどん供給されているのです。

 出版研究所のデータによると、2018年の書籍の販売額は、ピークだった1996年に比べて、36%減りました。それにも拘わらずず、新刊定数は13%増加しています。つまり、「刊行数を増やして売り上げ減を補う」という負のスパイラルに陥っています。
 これはいったいなぜでしょうか?

◇生産者の論理と消費者の論理は違う
 それは、生産者の論理と消費者の論理は違うものであり、最初に述べたのは、消費者(鑑賞者)の論理だからです。
  「生産者の論理」とは、ビジネスの論理です。その活動からいかにして利益を生み出すかが目的です。
 音楽や文学の生産過程に、「生産者の論理」が影響することは、避けられません。

 生産者の論理から見ると、古典のビジネスは成り立ちにくいのです。そして、新しいものを供給するというバイアスが働きます。その理由は次の通りです。
 古典のビジネスは、すでに存在する作品の再生産です。そこでは、付加価値を付け加える余地は、あまりありません。したがって、ビジネスの収益性という観点から見れば、あまり魅力的なものではないのです。

 他方で 新しい作品を宣伝して売り出す過程は、リスクはあるものの、成功すれば、付加価値が高いものとなり得ます。
 したがって、生産者の論理からいば、新しいものを大量に供給して成功を狙うということになります。

◇情報洪水時代で、供給される情報の平均的価値が下がった
 大量に生産されるため、情報の価値は、平均すれば低くなっています。
 このことはとくに、文章に関して明らかです。
 紙に印刷することが必要であった時代には、ある程度以上の価値のものしか生産されることはありませんでした。
 しかし、インターネット配信の場合には、生産と配送のコストはほぼゼロになってしまったために、極めて価値が低いもの配送されるようになってしまったのです。
 そして、供給が量的に爆発的に増えています。

 現在生産されているものの中から古典となって残るものはあり得るでしょう。しかし、生産されるものの総数に対する比率は、極めて低くなっています。
 今日で大量に生産されるものの中のごく少数の者だけが古典となって残るのです。言い換えれば、新しく生産されるものの中で本当に価値のあるものの比率は、極めて低いということになります。






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