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『マネーの魔術史』、第3章の1、マネーに取り憑かれたニュートン

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されました(2019年5月20日)。
第3章を4回にわけて全文公開します。

第3章 魔術師たちの誤算
1 マネーに取り憑かれたニュートン
◇辣腕の造幣局長官ニュート
 アイザック・ニュートンは、1687年、『プリンキピア』を刊行した。ここで打ち立てられた彼の理論によって、人類は宇宙を秩序だてて理解することができるようになった。
 教え子のモンタギューが若くして財務大臣になり、ニュートンに王立造幣局監事のポストを紹介した。
 モンタギューとしては、忙しくはなくて報酬の高い地位を用意し、大著を完成させた恩師をねぎらうつもりだったのだろう。実際、造幣局監事の基本年収は500ポンド程度だった。当時、普通の人々の年収は20から40ポンド程度だったので、かなりの厚遇だ。
 ところが、ニュートンは、モンタギューの期待に反して、職務に邁進してしまった。就任早々から、当時横行していた贋金づくりの摘発に乗り出したのだ。そして、1699年には造幣局長官になった。
 部下の捜査員に変装用の服を与えるなどして、片っ端から贋金づくりを摘発していった。そして、逮捕された容疑者を、長官みずからが尋問して処罰した。
 ニュートンはもともと猜疑心が強い人で、しかも執念深かった。だから、贋金摘発は彼にぴったりの仕事だったのだろう。
 贋金づくり団の親玉ウィリアム・シャローナーを捕らえて裁判にかけ、彼の手下をスパイに使って罪状を暴いた。シャローナーは、裁判では頑強に容疑を否認したが、絞首刑になるとき、それまで所有を否定していた偽札製造用の銅版をニュートンに贈ったという。
 こうして、ニュートンの在職中は、贋金づくりが激減した。彼は造幣局の仕事を愛しており、札のデザインも自ら手がけ、偽造ができないよう複雑なデザインを考えたりした(彼は純粋な理論家ではなく、エンジニアの才能もあったのだ。1672年に王立協会の会員に選出されたのは、「ニュートン式反射望遠鏡」を発明したからだ。この望遠鏡は、いまでも使われている。また、ケンブリッジ大学には、釘を一本も使わずに作った「ニュートンの橋」が残されている)。
 イギリス政府は、年金を用意して引退をすすめたが、ニュートンは拒否し、死ぬまでその職を続けた(1703年に王立協会の会長という、学界最高の地位を得たのに)。
 ところで、古代から、金は同じ重さの銀の10倍程度の価値だった。ところが、第2章で述べたように、南米のスペイン植民地でポトシ銀山やメキシコの銀山などが発見されて、17世紀頃からヨーロッパへ大量の銀が流入したため、銀の価値が低下し、金との比率は15倍程度になった。
 ニュートンは、1ポンド=金4分の1オンス(7・78グラム)、1シリング=銀6・02グラムと定めた。1ポンド=20シリングなので、金:銀=1:15になる(正確には、1:15・48)。
 しかし、インドでの金銀交換比率は、1:10と銀高だった。このため、銀10をインドで金1に交換し、それをヨーロッパで銀に交換すれば、15の銀になり、銀5の利益が得られる。金と銀を移動させるだけで儲かるのだ。こうして、ヨーロッパから銀が流出し、金が流入した。
 1717年にニュートンが決定して以来、1931年にイギリスが金本位制から離脱するまで、ニュートンの平価が守られた。戦争などで金本位制から離脱したことがあるが、いつもこの平価に戻った。
 ニュートンが作り上げた物理学の体系は、20世紀の初めに登場したアインシュタインの相対性理論によって修正された。しかし、ニュートンが定めた平価は、彼の物理学よりも後の時期まで生き延びたのだ。

新発見文書が明かすニュートンと錬金術
 2016年の2月16日、カリフォルニア州パサディナで行なわれたオークションで、ニュートンが書いたとされる写本が競売にかけられ、ある科学技術団体が落札した。そこには、ニュートンと錬金術の関係を示す驚くべき事実が書かれていた。
 彼が錬金術に深くかかわっていたことは、以前から知られていた。1936年、「ポーツマス文書」と呼ばれる329点のニュートンの未発表草稿が競売にかけられたが、その約3分の1は錬金術に関連するものだった。ニュートンは自ら錬金術の実験を手がけていたと推測されるのである。
 これらの資料は「公表されるべきでない」と判断されて、ニュートンの文書を引き継いだポーツマス家に死蔵されていた。ケンブリッジ大学も、錬金術関連の文書の保管を拒否していた。近代科学の創始者が怪しげな錬金術に手を出していたとあっては、都合が悪いからだ。
 ポーツマス文書の多くは、ケンブリッジ大学の経済学者ジョン・メイナード・ケインズによって落札された。それを読んだケインズは、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だ」と言った。
 もっとも、これだけではニュートンが実際に錬金術の実験を行なっていた証拠にはならない。彼の遺髪から大量の鉛が検出されたとか、怒りっぽかったのは鉛の影響で精神に異常をきたしていたからだと言われることもあるが、定かではない。錬金術の実験に使ったとされる、トリニティ・カレッジの礼拝堂の庭にあった小屋は、焼失してしまったので、証拠はない。
 そこに、写本が登場した。タイトルはなんと、『月と火星のアンチモンを使った「賢者の石」作成のための「賢者の水銀」の調合』! もとの文書を書いたのは、ハーバード大学の化学者ジョージ・スターキーだとされている。
 これについて、『ナショナルジオグラフィックマガジン』が2016年4月号で伝えている。この資料は、1936年に競売にかけられたときにコレクターに落札され、私蔵されていたのだ。
 賢者の石とは、鉛を金に変える力があると考えられている物質だ。『ハリー・ポッター』に登場するので、多くの人が知っているだろう。それを作る重要な材料が「賢者の水銀」で、その調合法が、発見された文書に書かれていたのである。賢者の石とか、それを作ったニコラス・フラメルなどと言うと、他愛のない作りごとだと思っていたのだが、こうなると、俄然興味が湧いて来る。
 ニュートンは、写本の裏に自分の実験のメモを記している。ニュートンは写本によく書き込みをしていたそうで、この文書には、鉛を使った実験がメモされていた。ニュートンが実際に「賢者の水銀」を作成しようとしたのかどうかはまだ明らかにされていないが、実験を行なった可能性は高いという。
 ところで、ニュートンの時代、錬金術の実験は禁止されていた。詐欺に使われるのを防ぐためだが、もし本当に賢者の石が発見されたら、金の価値が暴落するという懸念もあった。そのため罰則は厳しく、絞首刑にされることもあった。ニュートンが関連文書を公表しなかったのは当然だ。
 彼が錬金術を手がけたのは科学的探求心によるのだろうが、マネーの魔力に取り憑かれていた可能性も否定できない(そう考えられる理由を次項で述べる)。
 一方では贋金づくりを摘発して犯人を死刑台に送り、他方では、小屋でひそかに金を作ろうとしていた。その光景を想像してみると、ジキル博士とハイド氏のようで、ぞっとする。

17・6億円稼いで5・6億円すった
 ニュートンが錬金術を手掛けたのは科学的探究心によるのだろうが、マネーの魔力に取り憑かれていた可能性も否定できないと、前項で述べた。そう考えるのは、ちょうどその頃起ったバブルに彼が投資し、大損失を被ったからだ。
 1711年、イギリス政府は政府債務を肩代わりさせるため「南海会社」を設立し、その見返りに、独占貿易権を同社に与えた。
 この会社の株価が1720年に大暴騰したのである。なぜそうなったかは後で述べるが、同年初めに120ポンド程度だった株価が、半年後には1050ポンドになった。しかし、もともと実体のない会社なので、株価は7月に下落し始め、その後急落した。そして、年末には120ポンド台へと逆戻り。社会に大混乱をもたらし、破産して自殺する者が相次いだ。
 ところで、ニュートンは同社の株を持っていた。1713年頃の彼の財産のなかには、同社の株式がかなり含まれていた。その一部は1720年4月に売って利益を得た。ここまでなら問題ない。政府の役職にあったので、国策会社の株式を持っており、株価が上がったので売ったということだろう。問題は、その後だ。
 同社の株価がその後も上昇を続けたため、ニュートンは再び株を購入したが、これは株価が最高値を記録した時だった。さらに1カ月後、株価が下落し始めた時にも買い足した。
 そして、結局のところ、2万ポンドにおよぶ損失を被ったのである。造幣局監事の基本給に換算すると、およそ40年分の額だった。
 この顛末を記録したのは、美人で評判の姪、キャサリン・バートンだ。ニュートンは生涯独身だったので、身の回りの世話のため彼女をロンドンに呼び寄せていたのだ。モンタギューと愛人関係にあり(これは事実らしい)、そのつてでニュートンが造幣局の職を得たという噂が流れ、ニュートンが激怒したことがある。
 ところで、ニュートンは南海事件で全財産を失ったわけではない。トマス・レヴェンソン『ニュートンと贋金づくり』(白揚社)によると、彼は東インド会社の大株主で、1・1万ポンドの株を持っていた。また、所有不動産の評価額は3・2万ポンドを超えていた。
 つまり、南海会社の損失がなかったとしたら、彼は、6・3万ポンド超の資産を持つ大富豪だったのである。イングランド銀行のサイトにあるインフレ換算表によると、1750年の1ポンドは、現在約200ポンドだ。日本円では約2万8000円である。このレートで計算すると、6・3万ポンドは17・6億円になる(ついでに計算すると、造幣局監事の基本年収500ポンドは1400万円、当時の人々の平均年収20~40ポンドは56万円から112万円だ。また、前掲書によると、ケンブリッジ大学の教授職の年俸は100ポンドだが、これは280万円になる)。
 ニュートンの生家は、裕福ではあるものの、農家だ。だから、彼は17・6億円を自ら稼いだことになる。では、どうやって稼いだのか?
 これも前掲書によると、彼が財産を築いたのは、造幣局長官時代だ。長官は、基本給の他、造幣局が製造する硬貨の一定率を報酬として得られた。ニュートンも長官になった最初の年に3500ポンドを得た。そして、長官職にあった27年間の平均年収が1650ポンドだった。つまり、合計で4万4550ポンド。途方もない額だ。彼が造幣局の仕事をこよなく愛したのも当然だ。
 しかし、まだ6・3万ポンドには及ばない。研究一筋の科学者というイメージとのあまりの落差に、戸惑いを禁じ得ない。

科学史最高の巨人の複雑な人物像
 南海バブル事件で分かるのは、マネーの魔力に抗しえなかったという点で、ニュートンは他の人と何も変わらなかったということだ。南海会社がねずみ講であることは見抜けたはずなのに、そして多分見抜いていたのに、そしてすでに巨額の資産を持っていたのに、金儲けをたくらんで愚かな投資をした。
 ただし、この話は、昔から知られていたものではない。20世紀初頭まで、ニュートンは、自然科学の英雄、全時代を通じて最高の科学者だった。だから、美談だけが伝えられ、科学者としての名声を傷つける話は、全て切り捨てられたのだ。ポーツマス文書で錬金術師という意外な側面を知ったケインズは、それを公表するのをためらったという。
 私が抱いていたニュートン像も、心優しい人格者だった。これは、小学生の時に読んだ本による。その本は、いま思えばナサニエル・ホーソンの『伝記物語』(1842年)。挿絵があったので、やさしく書き直した本だったのかも知れない。
 それによると、ニュートンの20年にわたる研究成果を記録した原稿が、愛犬が倒したろうそくで燃えてしまった。部屋の戸を開けた時、これを仕出かした犬ダイアモンドがいた。彼は、悲しみで胸がはち切れそうだったのに、いつもの優しさで犬の頭をなでてやった。今でもこの場面をよく覚えているのだから、よほど感動したに違いない。
 ニュートンが犬や猫に優しかったのは事実のようだ。しかしそれは、人間に対する態度の裏返しだった。彼は人間に対しては大変厳しかった。
 1660年代にライプニッツとの間で、微分積分法の優先権を巡って激しい争いが生じたことは有名だ。
 ニュートンによって甚大な被害を受けた1人目は、ロバート・フック。1672年に光の理論に関して論争になった。マーガレット・エスピーナス『ロバート・フック』(国文社)によると、引力の逆二乗法則は、ニュートンとフックがほぼ同時に着想した。しかし、ニュートンだけが体系化できた。『プリンキピア』で当然言及されるはずのフックは、無視された。彼はニュートンによって科学史から葬られたのであり、業績が認められたのは2世紀以上たってからだ。
 2人目は王立天文台長ジョン・フラムスティード。1680年に彗星を巡って論争になった。ニュートンは誤りを認めたものの、感情的に根に持ち、王立協会の会長についた時、その地位を利用して彼を蹴落とそうとした。
 生涯で笑ったのは一度だけ。それは論敵がボロを出した時の嘲りの笑いだった。1688年には、大学から選出されて下院議員になったが、議員としての唯一の発言は「議長、窓を閉めて下さい」だった。
 しかし、そうした中で、ニュートンの頭脳は、少しも衰えることがなかった。1697年、ヨハン・ベルヌーイは、「重力下で質点が最も速く降りることができる曲線は何か」という問題を出した(答えはサイクロイド曲線)。このときニュートンは、造幣局の仕事で多忙を極める55歳。夕方4時に帰宅して問題を見て、翌朝4時には解いていたと、キャサリン・バートンが証言している。匿名で解答を送ったが、それを見たヨハンは、解答者がニュートンだとすぐに見抜いた。そして、「爪を見ればライオンだと分かる」と言った。
 ニュートンが心を許したごく少ない友人の1人、ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエは、墓碑銘としてつぎの言葉を贈った。
 このような人物がいたことを疑うのか。では、このモニュメントが証人である。

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