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PHOTODECO2020 感想(別名怪文書)一覧

にね

搬入している時からきれいな写真だなと思っていました。
近くで見て初めて360度撮れるカメラで撮影された写真だと気付きました。
いくつかこのカメラで撮られた写真を見たことがありますが、こんな風にきれいに撮られたものを私は知りません。
それと被写体が縮小されている部分に写っているものを見るのも楽しかったです。
もしこのシリーズのブックがあれば、ずっと見ていられそうな気がします。


aki

kubiaki.artphoto
https://www.instagram.com/p/CHnaUXXgWel/?utm_source=ig_web_copy_link



akiさんの作品を見たときに頭によぎった言葉は「nerve(神経)」でした。細胞のひとつである神経細胞の活動のように感じたのだと思います。
ここで面白いと思ったのは、細胞という極小の存在が植物(間違っていたらごめんなさい)で表現されていることでした。
植物自体は細胞の集まりであり、まさに表と裏の逆転が起きており、とても面白いと思いました。
また私がakiさんの写真から感じた神経細胞は、動物特有のものであり植物には存在しないという矛盾も起きました。
表であることが本当は裏であり、更に目の前に見えている事実は事実ではない…最終的にそんなことを示唆している写真に感じました。
とても美しいながら深い作品だと思います。


hirose eiko

TABI+PHOTO
https://hirotabiphoto.tumblr.com/



Hiroseさんの写真をひと目見た時から、頭の中で「あこがれ」や「憧憬」といった感情が強くずっと残りました。きっと撮られた写真が異国のよう、もしくは異国だからなのだろうと思っていましたが、それだけではないと心のどこかで感じていました。
いざ感想をお送りさせて頂こうと考えた時に、ようやくその心のひっかかりに気付きました。
それは「川(水)」と「空」でした。
私の抱いた憧れの気持ちは、展示された写真1枚ずつを切り取って別々に見ればさほど強くないのかもしれません。
ただ写真に写った川(水)で移ろうように写真同士が繋がり、1枚1枚の写真がより強く見る人の心に訴えてきます。
同様に空も異国と私の居る場所を繋ぎ、遠くの異国でありながら私も行きたいという気持ちをもたらしてくれる役割を果たしていると思いました。
よく考えられた写真のチョイスで、心に訴えかけてくる作品でした。


ajari

ajari
https://www.instagram.com/p/BQrrpY0BO9I/?utm_source=ig_web_copy_link


「相変わらず憎たらしいほどに写真が上手い…。」
それが最初に思ったことです。(笑)

はじめにブックの話からさせてもらいたいと思います。
たしかフォトデコ2020の紹介で使われていた写真はこのブックの華だったと思うのだけど、私はあの写真を見た時に心を鷲掴みにされました。
写真に限らず芸術品は往々にして、労力を惜しまず手間をかけると美しいものが出来上がると私は信じていて、ajariの作品もきっとそうなのだろうと思っていました。
展示で話を聞かせてもらって、その考えは確信へと変わりました。
ただひとつ残念なのは、このブックの展示を見られなかったことです。

次に今回の展示について。
大層前の写真なんだけど、ajariが撮った写真でとても印象に残っているものがあります。
それは長靴をはいて海岸線を歩く小さな子供の写真。
たしか夕暮れ時に撮られた写真で、とても強い光が格別に美しかったと覚えています。
それを見て以来、私の中で「ajariは写真が上手い人」になりました。

なぜ突然そんな話をしたかというと、今回の写真がそれに通ずる光の美しさを感じたからです。
光そのものが写っているのは、「片島魚雷発射試験場跡」の写真だけで、その他は光そのものを捉えた写真ではないと思います。
でも、どの写真も光が差して建物や人の居た気配のアウトラインだけを巧妙に写し出して「うつろい」というテーマを堪能できる作りになっていると感じました。

実は写真が上手い人への感想って、作品があまりにもよく出来ているから付け入る隙がなくてとても難しいです。
それくらい良い作品だと私は感じました。


アオヤマハルト(アオハル)

harutoaoyama
https://www.instagram.com/p/CHozbVvAv1S/?utm_source=ig_web_copy_link

HARULILIA  ーprologueー
https://note.com/haruto_aoyama/n/ndb0afcabc087


最近の研究で、人間は脳の全体を使っていると言われている。
もし障害者が脳の一部使用しない状態、もしくは過剰に使っている状態だったら、健常者とは違いが出る。
では両者とも脳全体を使っていたとして、何故違いが出るのか?
もしかしたら、使い方は違うのではないだろうか。
どちらにせよ脳に違いがあれば、健常者にとって未知な何かが見えてくるのではないか。

表現において未知は惹きつけられる。
表現において、必ずしもではないが往々にして作品と鑑賞者は1対1になり、作者と直接的に接することは少ない。
そのため人々は未知なる表現を作者から間接的に受け取ることが出来、比較的落ち着いた状態で未知を得ることが可能である。
そのため障害者と言われる人々の未知は健常者にも受け入れられやすいのではないかと考える。
それ故、文化においては一般的に障害者と呼ばれる人々の作品は広く世界に流布されているのだと結論づけたい。

一方生活となれば、障害者本人と直接的に関わっていくこととなる。
障害者は多くの健常者にとって未知なる者だと思う。
未知は魅力的でもあるが、恐怖でもある。
健常者はきっと障害者の未知なる部分が怖くてたまらないのだ。
だから健常者はその未知に名前をつけ区別する。
ただ、それはもしかすると健常者なりの不器用な歩み寄りなのかもしれない。
もちろん名前をつけ遠ざける人もいるだろう。
だが、名前をつけ特性を理解し、その障害者と呼ばれている人と快適に付き合おうとしている人がいるのもまた事実だ。
そういった理解者の手助けによって障害者の未知が、遠ざけていた健常者にも表現として届くのではないだろうか。

「ECHOLILIA」においては、父は理解者だと思う。
もちろんシャッターを切っているのは父だが、ここでは障害者の未知を届ける手助けをする理解者と私は考える。
そして、息子は未知を持つ障害者。
この本を鑑賞する私は障害者を遠ざけている健常者だろう。
ほとんどの場合、この関係が成り立つ。

だが、アオハルさんの場合は違ったのではないだろうか。
未知を享受するだけでなく、何かを深く感じた。
それが何だったかは私には具体的には分からないが、恐らく自分との接点。
アオハルさんはたしか「自分がこの症状(自閉症)なのではないかと悩んだ時期があった」と言っていたと思う。
そこから推測するに、わずかながらの確証を得ない自分との繋がりがあったのではないだろうか。
その繋がりをより明確なものへとしたいと望んで始まったのが、この作品をトレースした実験的セルフポートレイトなのではないかと私は想像する。

キャプションでも「彼と父と写真集を観る我々3つの視点が存在して」とあったが、この3者がアオハルさんの作品を読み解くために非常に重要なキーになると考えた。
全てが私の解釈で話が進むことをどうか許して欲しい。

アオハルさんの作中では3者は全てアオハルさんだ。
鑑賞者については、第三者も入ると思うが、ここもアオハルさんが行っている。
ひとつずつの立場を読み解いていきたいと思う。

被写体である息子さんをトレースしたアオハルさんは、未知を表現しなくてはならない。
それがトレースだったとしてもElijahになる必要があった。
もちろん撮影中のみではない。
写真の選別や作品としてまとめることも、未知を表現することになると思う。
これについては以前渡した「improvement photo(※下部参照)」が多くを明らかにしてくれていると思う。
Improvement photoの3つの段階(※下部参照)を経ることでElijahが持つ未知のいくつかは明らかになり、また自分とどういった接点があったのかも幾分かわかったのではないかと考える。

この作品が最高に面白いところは、一側面で終わらないところだ。
次は父の立場について考えたい。
アオハルさんはきっと父の立場にも共感したのではないだろうか。
世間で言われる障害者が持つ未知に同調し、その未知を持つであろうアオハルさん。(こちらが息子のElijahの立場)
そして、そのアオハルさんをよく理解しようとするアオハルさん。
それはまるでこの「ECHOLILIA」の息子を理解しようとする父のようである。
アオハルさんは未知なる何かを持つ者でありながら、それを世界へ送り出す手助けをする理解者でもあるのだ。
つまりトレースはElijahだけでなく、父Timothyのトレースもなされている。
ここでもimprovement photoの3つの段階(※下部参照)をしているが、それが息子と父の2重作業となる。
論文を書いた者として非常に興味深いことである。

更に忘れてはならないのが、鑑賞者の立場である。
障害者を遠ざけるアオハルさんも存在しており、この立場があるからこそ作品また主題への葛藤が起こる。
この作品において鑑賞者は作品を作ることはない。
よって、improvement photoの3段階は踏まない。(実際は少し検討が必要かもしれない)
しかし、一般的な健常者としての目でこの「HARULILIA」を見た時、アオハルさんに新たな気付きがあったはずである。

ここまで3者の立場を交えながら、作品を分析してきた。
ここからは私の感じたことを述べていこうと思う。

美しい。
特に展示されていた網をかぶっている写真。
やはり自分と向かい合っている重苦しさがあるので、美しさに救われるところはある。

幼児性の消失。
Elijahは子供であり、そうであるから自然に見える場面が多いと思う。
しかしアオハルさんは成人していて、それはすなわち幼児性の消失だと思う。
ここではそれについては言及のみにとどめておくが、その消失が写真にいびつさを与えている。
だが、それもこの写真の見どころである。
なぜならば、いびつさには恐怖が付きまとい、その恐怖は未知から由来するものであり今作の核心へと迫るからだ。

親の愛と自己追究。
「ECHOLILIA」は親の愛(他利的行動)が子に向いている。
だが「HARULILIA」はそのベクトルが、アオハルさんからアオハルさんに向いているので、人によってはナルシズム的に見えるかもしれない。
しかしこれは自分への陶酔ではなく、自己への追究。
アオハルさんの作品の多くはナルシズムだと誤解を招きやすいと感じるが、そのどれもが本質は自己追究であると思う。
ところが、本作は表面上ただナルシズムに見えることも、実際の奥深さを考えれば私は面白く感じる。

そろそろまとめに入りたいと思う。
「HARULILIA」は私にとって未知だった。
ここまで多くを語ってきたのに、大真面目に馬鹿をやっているような結論になってしまって申し訳ない。
ただ最後に私の未知への見解を示しておきたいと思う。
未知で解明されていないことこそが美しさの根源であると私は考える。
今作は未知であり明らかにされることはなく、そこに解明されない何かがあるからこそ人の心に残り美しいと私は感じる。


※improvement photoについて
私が大学院時代に書いた副論文です。
およそ10年前に書いたものなので、今思えば再考が必要な点などありますが、基本的なimprovement photoの考え方は変わりません。
もしご興味がある方がいらしたらお読みください。
一応要約も載せておきます。

以下、副論文の要約。

Improvement photoは、フォトセラピーから発想を得たものだが、治療要素を排した写真作品制作のこと。
セルフポートレイトにおけるImprovement photoには、3つの段階が存在します。
①分離(今まで認識していなかった自分を抽出)
②内化(外側にある分離した新たな自分を内側へと導き理解する)
③多面化(内化させた新たな自分を今まで認識していた自分とはっきり区別した上で多面化する)
つまり、自己表現された写真を作品としてまとめ上げていく際の自己洞察から精神に改善や進歩が起こる写真制作であるというのがimprovement photoである。



石井香織(かおりん)

kaori ishii
https://kaoriiishii.tumblr.com/


かおりんって気付いてるかな?
自分が写真に写ってる時の写真の破壊力について。
かおりんが写ってると、写真が相当な力を持っているように私は見えるんだよね。
昔撮ってたトマトの写真(たしか自分が写ってたよね?)も、今回の共同制作も、ブックも私には一瞬で目を引くだけの力があると思う。
もしかしたら自分という存在の捉え方が、人とは大きく違うのかもしれないね。
私はかおりんがとてもユニークな存在だと思ってて、その特別さをどうやって写真で表現するかが重要だと思うんだよね。

今回の展示についてなんだけど、今の話と真逆に感じたよ。
かおりんの写真なんだけど、大勢の人の記憶に感じる。
2020年って誰にも経験したことのない日常だった。
家やその近辺くらいしか出歩けず、いつもと全く違う。
でもそのおかげで、普段見落としがちなちょっと特別な日常の風景に多くの人が遭遇したと思うんだ。
かおりんの今回展示した写真は、そういうふとした綺麗な日常の一片に感じた。
だから、展示されたどの写真も2020年を経験した人なら誰しもが心に持ってる風景のように思う。

一方でかおりんの視点から写真を見ると、少し違って見える気がする。
タイトルが「さがしもの」なんだよね。
かおりんは何かを探している。
それは何なのか?
あくまで私の推測なんだけど、かおりんはこの日常の風景から遠くを見てる。
そして、その遠くにあるのは2020年より前では気軽に行けた所や触れられた物。
それは日常にはないのかもしれない。
だけど、この写真を撮っていた時にはそばに寄れないし近付けない。
だから、日常の風景からそれらを探している。
今は遠くにいる素敵な存在、それがきっと「さがしもの」なんだろうと私は思ったよ。

この作品は、第三者的に見ると誰の心にもある風景の写真。
とても近い視点の写真。
でも作者の立ち位置から見れば、作者の自分だけが知ってる遠くにある素敵なものを近場で探している写真。
こちらは写っている物は近くだけど、内容としては遠い視点。
近くて遠い。
きっとこれがこの作品の本質。

この展示について話し出す時に、かおりんが写ってなくて共同制作とは真逆だと言ったけど、あれは違ったかもしれない。
結局矢印は作者の方を向いていて、かおりんは写ってなくても主体はどこまで行ってもかおりん本人。
かおりんの写真を見る時はそれに注意しながら見ると、より楽しめそうな気がする。

この前話をして、かおりんの中にはやりたい事がたくさんあるのがよく分かった。
今回の展示はやりたいことの一端で、これからもそれを吐き出していくんだろうなと思う。
やっていくうちに、それらがまとまって繋がって何か面白いものが出来上がるんじゃないかと今からワクワクしているよ。


ayami

ayami.photo_
https://www.instagram.com/ayami.photo_/
今回展示された写真ではないのですが、一貫して私の言う感性が表れていると思うのでリンク致しました。


写真には、たまにきちんと実物と対峙して初めて良さが伝わる写真があると思います。
ayamiさんの写真は、まさにそれでした。

私がayamiさんの写真の前へ行き、展示されたプリントを見つめ、そして、その写真と向き合う。
すると写った場面の空気で私の周りが満たされ、辺りの空気を変えてしまいました。

プリントされた写真は大きくないのに、こんなにも写った場所の空気を味わうことができるなんて…と不思議な気持ちになりました。

私は比較的感じたことを言葉に置き換えて写真を読み解くのですが、それをするのが無粋なくらい写真に力があり写真と対峙するのが心地よかったです。

キャプションも写真の心地良さを増幅させており、とてもいい役割をしていたと思います。

ayamiさんの感性はとても特別で貴重だと私は思いました。
どうかその感性を大事になさって下さい。


naki

naki_musi
https://www.instagram.com/naki_musi/
展示作品もマットや額のチョイスが素晴らしくとても良かったのですが、インスタも彼女の良さが出ているのでぜひ。



一見子供の成長記録に見えるんだけど、そう片付けてしまうには何か違和感があって、その謎を解くのに時間がかかって会期が終わってからの感想送信になってしまいました。

最初にnakiの展示写真を見た時に感じたのは、温かさ。
その時は、写る子供たちの純粋さや可愛らしさから来る温かさだと思った。
もちろん写っている被写体の温かさはあるんだけど、それを捉えた写真なのかは確証が持てなかった。

それでずっと考えてたんだけど、ふと私なりの答えにたどり着いたんだ。

それは「nakiの愛情」。
今回の写真は、nakiが子供を想う気持ちが主たるものなんだと私は思ったよ。
nakiはどこにも写ってないんだけど、nakiの気持ちそのものが被写体なんだって感じた。
子供たちや家族仲良くいる光景、その全てがnakiが大切にしたいもので愛情を注いでいるもの。
それがこの展示写真なんだなって気づいたら、すごく納得できた。


おひゃ

ohya_photo
https://www.instagram.com/p/CH44O4CjMk1/?utm_source=ig_web_copy_link


おひゃさんの写真は、四季を通じて恐らく同じ場所かその近くで撮られたものだと思うのですが、私は写真から温度を感じました。
そして温度に伴う感情もそこにはありました。

春の桜が満開になる季節には、花を愛でられる嬉しさと暖かさがもたらす安心感がありつつも夕暮れ時には肌寒く冬をまだ感じる。

紫陽花が美しく咲く季節には、雨の合間の晴れを拝める嬉しさから空を見上げるが湿度があってあの日本特有の夏が近づいていることを感じる。

彼岸花が咲き誇る季節には、まだまだ暑いのにどこか寂しい気持ちになって秋や冬の到来を感じる。

草木が枯れる季節には、どこもかしこも寒くなるけど冬晴れは心穏やかにさせてくれて春を感じる。

書いてみて分かったのですが、おひゃさんの写真にはその季節だけでなく、前や後に繋がる季節もきちんと描写されていると感じました。
きっと日々そういったことを感じながら、それらを大事にしてらっしゃるから撮れるのだろうなと思いました。


aohoshi

惑星探査
https://no23photograph.tumblr.com/
今回展示されていた以外の写真も含まれていますが、これを見て少しでも私の言いたい事が伝われば幸いです。


写真はもちろん、タイトルもとても素敵です。
タイトルの「このほしにおりて」が平仮名のみなのも、まだこの星に降りて間もなくてたどたどしい感じが出ていて好き。
それは写真にも上手く表現されていると思います。

それから、タイトルには続きがあるのではないかなと。

このほしにおりて 新しいことを見つけた
このほしにおりて 年月が経ったことを感じる
このほしにおりて 前の星を懐かしく思う
このほしにおりて 愛おしさでいっぱい

そんな色々な気持ちが続いているんだろうなと、写真を見てるうちに思いました。

いつもaohoshiさんの写真はよく考えられている上に、美しい。
前の星で得た写真表現、それこそ底まで潜って何かをとってくるようなやり方、それがあってこそ。
でもその写真表現は1度全部取っ払って、写真表現自体を1から見直して新たにしているように思えます。
変わらざるを得なかった自分を惜しむ気持ちはあったと思うんだけど、その変化を正面から受け止めて写真表現に昇華させてしまう…そんな凄さを私は感じました。


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他にもお送りした方々がいるのですが、メモに残ってない人もいて全員分ではないです。

最後に怪文書になってしまった人もいて本当に申し訳ないなと。
でも、これが私なので笑って許して下さい。