面白いを考える

 面白いについて考えてみました。暇だから。

 自分がどういう文脈で「面白い」を使うか。
 まず二種類に分けられるんじゃないかしらん。

・能動的な「面白い」
 何かの活動をしていて面白いと感じる場合

・受動的な「面白い」
 何かを見聞きして面白いと感じる場合

 まず面白い(能)の実施は自己完結と言えるかと思います。仮に僕が何か「自分が面白いと思う」活動をしても、他の人の面白い(受)と等しくないことは想像に難くありません。

 例を挙げます。以下のような日記があるとします。

 「今日は友だちと渋谷でお買い物ー。楽しかったー。またいこーねー。(笑顔で手を振っている顔文字とかいろいろ入る)」

 この日記の著者は「面白い(能)」を実施し、公開しました。しかしこの面白さは第三者である僕には伝わりません。
 
 この日記を「面白い(受)」と感じる人は、この著者の友だち、あるいは著者に対して「好きな人の日常が知りたい」的な興味を持っている場合ではないでしょうか。
 言い方を変えると、このような「面白い(能)」の公開は、より近しい関係性を持った相手に対して行われる、一種のサービスと言えるでしょう。
 例えば有名人のブログなどはこの「面白い(能)」の公開で機能するのではないかと想像します。ここから

・面白いは「好奇心を満足させる」
 
 とします。

 では友人やファンはなぜその配信者を好きになったのか、と考えた時に、配信者は受け手に対して何がしかの「面白い(受)」を与えた、と考えるのが妥当です。有名人も最初から有名ではなかったわけですから。
 ファーブルは虫ばかり見ていたし、メンデルはえんどう豆ばかり見ていたし、アインシュタインは光の速度で動くことばかり考えていました。
 彼らは皆「面白さ(能)」の時点では共感を得られなかった人たちです。が、結果として昆虫記、遺伝学、相対性理論という「面白い」コンテンツを生み出しました。
 「面白い(受)」を与えたことで「何を着るか迷う時間が惜しいから同じ革ジャンを着ていた」という話も、好奇心を満足させる「面白い」に昇格したわけです。僕がやったら不潔だね、って話です。
 もちろんパーソナリティが先、というケースもありますが、それは先天的な要素を多分に含むのでここでは扱いません。

 では「面白い(受)」について考えることにします。
 
 一番わかり易い「面白い」は多分「笑える」でしょう。
 しかしまた、一度も笑えないコンテンツに対しても「面白い」は使えます。文章でもマンガでも映像でもそうです。巧みなトリックや手の込んだ伏線などです。
 ですのでまず

・面白いは「笑える」を含む
・面白いは「意外性」を含む

 とします。(※「笑える」はさらにさまざまな要素を含みますが、ここでは解析の必要はないでしょう)
 これをゾーン1とします。
 ゾーン1は「見識が深まると面白く感じなくなる」特性があると考えられます。
 笑いを極めた師匠、ありとあらゆるトリックを読みつくしたミステリーファンにとっての「面白い作品」が僕のそれより少なくなるのは当然と言えます。つまり意外性が失われていくわけです。
 
 他方で繰り返し鑑賞しても面白いコンテンツや、定番と言われるジャンルにも面白いコンテンツが存在します。これらの「面白さ」はどのように解釈したらいいでしょうか。
 人間は、結果が分かっていてもその時々の情動に負ける、と言われています。主人公が勝つこと、恋愛が成就することが分かっていても、その時々のピンチにはらはらするという体験はどなたもなさっているでしょう。
 また悪役が強いほど面白い、という意見も良く知られています。結果が想像できるようなコンテンツの場合は、瞬間的なインパクトで結末を忘れさせることで、面白さをキープできるように思えます。それらの仕掛けによって溜まったフラストレーションが、期待していた結果「正義は勝つ」をより効果的に引き立てる。
 ヒーローもの、スポーツものはこの振れ幅の大きさがそのまま面白さになると言えそうです。ここから

・面白いは「不安感」を含む

 とします。
 結末が幸せでない物語は、少なくとも日本ではあまり人気がないように感じます。いわゆる「後味が悪い」と形容される作品です。しかしながらこれらが面白くないか、というとそうとは言い切れません。人気の有無と面白さは、ここでは切り離して考えることにします。

 写真(絵画を含む)はどうでしょう。
 僕は好きな写真に対して「美しい」とか「いい」とは言いますが「面白い写真だ」と言ったことがありません。どういう時なら言うか、と考えると「面白い光景を捉えた写真」を見たときでしょう。ここでは被写体が意外だったり笑えたりするはずです。つまり写真それ自体が面白いわけではない。
 文章や映像と写真の違いはストーリ性の有無です。例えば証明写真を使って四コマ写真を作ったら「面白い写真だ」と言えるかもしれません。
 僕はストーリー性のないコンテンツに「面白い」を使わないことが分かりました。では「面白い写真」は日本語としておかしいか、というとそんなことはありません。どんな文脈なら「面白い写真」は成立するでしょうか。
 
 有名な写真家が、新進気鋭の若手写真家の作品を見て「この写真、面白いね」

 こんなイメージでしょうか。
 ある分野の権威とか、ものすごく見識のある人とか、そういう立場の人じゃないと使えない感じを受けます。
 この文脈で発せられた「面白い」は恐らく独創的とか先鋭的とか、そういう性質をもった作品なんじゃないかと思えます。ここから

・面白いは「独創的」を含む
・面白いは「先鋭的」を含む

 とします。
 これをゾーン2とします。ゾーン1とは逆に、ある程度の見識や知識がないと、これらの「面白い」は判別がつきにくい、と考えられます。当然、面白いという意見そのものも少なくなるでしょう。

 最後に、今までにない画期的な発明はどうでしょう。
 多くの人が予想しなかった、ニーズの上をゆくコンテンツ。
 これは柔軟な発想と技術の進化の組み合わせで可能になるように思います。近年ですとSONYが特許を取ったウェアラブルかつら。僕はこれを面白いと思いました。
 この「面白い」は比較的多くの人が発するでしょうが、対象となるコンテンツは極めて少なくなります。また劣化コピーを含む多くの亜種が生まれます。これをゾーン3とします。ここから
 
・面白いは「画期的」を含む
・面白いは「革命的」を含む
・面白いは「拡張性」を含む

 とします。

 まとめますと、僕の考える「面白い」は以下のように分類できそうです。

ゾーン1
・笑える
・意外性がある
・不安感がある
※対象は多い
※対象は動的
※対象は減少傾向
※共感者は多い

ゾーン2
・独創的である
・先鋭的である
※対象は少ない
※対象は静的
※対象は増加傾向
※共感者は少ない(多様)

ゾーン3
・画期的である
・革命的である
・拡張性がある
※対象は極小
※対象は有用
※共感者は極大

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 さて、結論です。

 今noteで「スキ」が少ないとか、コメントがないとかで悩んでいる人がもしいたら、あなたの作品はゾーン2にある、とそう考えましょう。
 すっごく人気のあるコンテンツとはゾーンが違うんだ、と。
 さらに僕の分析によればあなたを「スキ」になる人は増加する一方です。

 想像してください。こんな煽り文句があったとしましょう。

いまネットで〇〇の動画が面白いと大評判のようです

 コンテンツも人のものなら評判も伝聞。この人は一体何をしたんでしょう? それで人気があったとして、それはあなたの人気ですか?(いや、広告収入では儲かると思いますが)

 そして願わくばnoteがクリエイターの皆さんの手でゾーン3に入ることを。

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 二回しかやってないので忘れてましたが、有料ボーダーってマウスカーソルに反応するんですね。挿入画像の移動も、この働きと関係あるんでしょうか?

「意外性のあるオチだ」と思った方、投げ銭お願いします(笑)。

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