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ライトでリズミカルで、自虐的ユーモアのある文章。

じぶんの文章はどう見えているのだろう?

えっちらおっちらとをひねり出して、こうして世に放っているとふつふつ湧いてくる疑問。文章を書いてお金をもらっているわけでもないし、熱狂的に好きな分野がありそれについてならいくらでも書ける、というタイプでもない。

きょうだって、長男の夜驚症について書こうか、絵本のような文章を書こうかと風呂で長女の身体を洗いながら考えていたくらいで、実にまとまりのないテーマで足の踏み場もない。しかしまあ、どのテーマも「自分」の中から掘り当てたもので、どれも見事にじぶんなんだろうなあとも思う。

それでも、スキをしてくれる方やコメントをつけてくれる方、twitterで感想をつぶやいてくださる方がいて、とてもとてもうれしい。ほんとうにうれしい。うれしい。うれしいと言いすぎて、嘘っぽくなるやつだけどうれしい。

だからこそ、ではないけれど
じぶんの文章がどう見えているか?
も、同時に気になってくる。

先日、この疑問をぶつけた。高虎の記事を上げていないころなので、1か月くらい前。学生時代に通っていた宣伝会議のコピーライター養成講座でであい、今でも家族ぐるみのつきあいをさせていただいている人だ。講座に通ったあと、希望通りコピーライターになり、今では数冊小説を出版されている小説家でもある。まぎれもないプロだ。
その人にnote書いてるんです、と見てもらったのだ。今治にうつってから、言葉や文章から遠ざかっていたことはわかっていたのだろう、書くことに興味と時間が戻ってきたことによろこんでくれた。

そして、読んで言ってもらったのがタイトルの

ライトでリズミカルで、自虐的ユーモアのある文章。

という言葉だ。
その時はそう見えているのか、と感じた程度だったがここ数日つづけて書いて公開すると、たしかにその通りなのかもなあという思いが強くなってきた。

文体なんて大それたもでは決してないけれど、特徴というかじぶんというもののありようを示しているような気がする。

「文章」を「人間」に置き換えても成立するというか、そうだったらうれしいというか。

エッセイや日記といった特定の目的のない文章には好むと好まざるにかかわらず書き手の人間性がにじみ出てくるものなんだろう。だからこそおもしろいといえるし、こわいともいえる。
だから、誰かの文章を読みにいくというは、ちょっと家の軒先で雑談をするくらいの感覚があるのかもしれない。「何を」書いているかはあるにせよ。


これを読んでくれたあなたに、わたしの文章はどのようにうつっていますか?おおきな声でもこっそりでも教えてくれたらうれしいです。そして、あなたも今日がどんなだったか、はなしてくれても書いてくれてもうれしいです。わたしも調子はどうだい?なんてライトに訪問しますので。

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