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何かを始めたいならまず捨てることを覚えた方がいい

今日もいい天気だ。ありがたいことにこんな私のnoteを「スキ」してくれる人や、フォローしてくれる人がいる。こんな嬉しいことはないなぁ、とほのぼの思ったのが今日の私のひなたぼっこの始まりだった。

みなさま本当にありがとう。


始めたいことは多く、捨てられるものは少ない

前にもこんなことを書いたかもしれないが、私たちは日々やりたいことが増えていく。「汁なし担々麺食べてみたい!」「台湾行ってみたい!」「温泉にゆっくりつかりたい〜」「痩せてスッキリしたい!着たい服着たい!」

ところがだいたいできないことの方が多い。何かやろうと思うとそれ相応の対価が必要になるのだが、おおかた私たちはすでに別のものに対価を消費してしまっているのだ。

ここでいう対価とは時間であることもあるし、お金であることもあるし、体力や精神力、あるいは人との繋がりや自分の価値観であったりすることもある。それを私たちは毎日毎日『使い切っている』のである。

だから新たにやりたいことが浮かんでもすぐには実現しない。今持っているものを簡単には捨てられないからだ。なぜなら私たちは自分の持ち物にすでに少なからず対価を渡してしまっているからである。

自分が時間をかけたもの、お金を使ったもの、人と共有したもの、労をかけたものを簡単に捨てられないように私たちの心はできている。


ただ在るだけで対価を奪われる

私が過去に出会った人々の中には、自分の持ち物や習慣、取り組んでいることなどに“まみれている”人がいた。部屋中がモノに溢れている人であったり、習い事のスケジュールがとにかくいっぱいで、しかし続かない人であったり。

モノには人を引き止める力があると思う。ただ部屋にそのモノがあるだけで、持ち主の意識を奪い、思考空間を占領する。そして人は忘れるのだ「私何がしたかったんだっけ?」と。

したがって、自分のやりたいことを忘れず(邪魔されないように)するにはモノを減らすのが有効なのである。特に半年手も触れていないようなモノや物陰に隠れてその存在自体を忘れているようなモノである。続いていない習い事の道具なんかも対象になる。最近で言えばデスクトップのショートカットやアイコンなんかも該当すると思う。

そうしてモノを減らすと、今やりたいことに渡せる対価が確保されるのだ。特に意識や思考、時間を持って行かれないのは大きい。


すでに渡してしまった対価

これは日本人特有なのかもしれないが、やはりどうしてもモノを手放せないという話を聞くのである。

「大切な思い出がある。」「高かったんだ。」「手に入れるのにすごく時間がかかった。」などなどそれを手に入れるのに渡した対価は様々だ。

ただなんとなく全ての理由の根元にあるのは「もったいない」なのである。

日本人は目に見えるものを大事にする精神が発達していると思う。というかそういう文化が息づいているからそうなっているのだと思うのだが。一方で、目に見えない時間や意識などについては非常に鈍感だと思わざるを得ない。

荷物を整理しようとして、捨てきれずに手にとっているモノでさえ、それを手に入れた時に渡した対価なんかよりもよほど大きな対価を持ち主から奪い続けていることに、どうしてか気づけないのである。


捨てることは失うことではない

何かを捨てることに躊躇することは理解できるのだが、捨てることは=失うことではないのだと思う。部屋からモノがなくなれば、もちろん何かが消えたように見える。しかし代わりに部屋のスペースと、そのモノに奪われていた意識や思考、それについて考えていた時間などが全て解放されるのだ。取り戻す、返ってくるという表現でもいいかもしれない。

そして何よりも自分が身軽になったことを実感することになる。自分が今までどれだけモノに奪われていたのかをはっきり感じ取ることができる。

私の場合は離婚をきっかけに多くのモノを手放した。途中までは受動的にであったが、途中からは能動的にモノを手放した。そして今私の持ち物は非常に少ない。

そこからさらに使わないモノは日々手放していっている。そうすると自然とふと思い浮かんだやりたいことをやれてしまうのである。

常に新しい自分がいる。それが何より嬉しいのだ。

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