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フラットな自己表現のススメ

過去のnoteがどうしても気合が入ってしまっていたので、もう少し気楽に書いて発信を続けてみようと思う。ただし、マガジンの名前の通りで晴れの日にはなるべくというぐらいの気持ちで。。


自己表現が下手な日本人

自分を表現しようとする時、大抵よく見せようとしてしまう人は多いのではないだろうか。私も少なからずその癖がある。いわゆる「盛る」というやつだ。しかしこの盛った表現は、相手に盛っていることが伝わっていない限り、決していいことには繋がらない 。たとえその場はよかったとしてもだ。

その最たる例は就職活動の時の面接だと思う。応募者は採用されたいから、当然少しでもよく見せようと自己評価を工夫する。工夫で終わればいいが、中には自己評価を盛る者が出てくる。もちろん盛り方に多少の差はあれどだ。

どうして盛ってしまうのか。いや、どうしてよく見せようとしてしまうのか?と考えた時に私の頭からは次の結論が転がって出てきた。


同じ基準で評価される文化

生まれてからずっと「評価」にさらされてきた私たちには、この盛るという行為は避けようのないものになっているのではないかと思うのだ。

この悪しき習慣は小学校には皆等しくスタートしている。テストの成績や評価がそれである。もちろん必要なことではあるとは思うのだが、私たちはあまりにこの習慣の一側面に毒されているのではないかと思うのだ。ある特定の基準で評価されるということを通して、なぜか私たちは”全てにおいて”良い評価をもらいたくなっているのである。どんなことでも、悪い評価をもらって心底喜ぶやつは少なくとも私の周りにはいない。

だから良い評価をもらおうとして、それが回り回って自分で自分を評価してしまうという手段に発展し、そして自分で良い評価をつけて、酷い場合は盛って、自分を表現してしまうのではないかと思うのだ。

企業側の採用する人間でさえ同じような環境で育っている訳だから、当然のように同じ軸を少なからず持っていて、この手段が通じてしまうのである。

応募者の自己PRが自分で自分をどう評価しているか?といった内容になったとしよう。

冷静に考えてみて欲しいのだが、応募者が自分で自分をどう評価しているかを採用担当者が評価して果たして何になるのだろうかと思う。自己評価能力が高いかどうかなんて入社して実際の仕事ぶりと照らし合わせて見なければわからない。そしてそもそも自己評価能力の高さは企業にとってさして必要なものではない。

しかし、応募者にも採用担当者にも非はないと思う。全ての不幸はこの評価される文化から生まれていると思うからである。


評価と表現の違い

評価は本来自分ですべきものではないと私は思うのだ。自分で自分がどれくらい優れていると『思う』かなんて他人にはどうでもいいことなのである。

私「私は私がすごいと思うんだ!」

あなた「へぇ…(知らんがな)」

である。

したがって自己表現はフラットであればある程よいと私は思うのだ。ここでいうフラットとは客観視に近い。極力自己評価を排除し、思考パターンや行動とその結果を淡々と並べる方がよほど良いと思う。抽象的だが少し例をあげてみる。


● 自己評価を駆使した表現例

私はこれができる。これが得意だ。こういう仕事が向いている。こういう立場で力を発揮する。

これらに共通するのは、全て言い切っているのだが語尾に「と思う」が隠れている点である。

これを聞いた採用担当者は「ほんとかな」「そうなのかな」「まぁそうなんだろうなぁ」と思うくらいでなんの説得力もないし、なんの記憶にも残らない。


● 自己評価を排除したフラットな表現例

私はこうなりたいと考えた。そのためにこれとこれをやった。何ヶ月かかった。これとこれができ上がった。次はこうなりたいと考えている。だからこれをやろうと計画している。

こうなると発言者の考えややってきたことが淡々と並べられていて、それ自体の評価は丸々聞き手に投げられていることに気がつく。それでいいのである。

これで初めて採用担当者の応募者に対する評価は成立するのだ。そして、評価がいい悪いは別として真っ当な評価で選ばれる/落とされるという幸運があると思う。

最近のミスマッチ云々はこの幸運にたどり着けていないことが原因だと思う。


何も就活だけの話ではない

人間関係や人付き合いの中でも全く同じ話が通じると思う。特に異性との関係では深刻な事態に繋がる可能性があるので十分注意したい。

恥ずかしながら、自分の中での理想の自分を今の自分だと表現してしまいそうになる/してしまう時がある。告白しないだけで多分そういう人は少なくないと思う。仮にこれを常習的に表現してしまっている人がいればかなりやばい。こと異性との関係においては就活なんかよりもよほど面接官の感度がシビアで、この辺りの盛りはあっさりバレる。

ただ私が言いたい問題はそこではないのだ。

仮に理想の自分とのギャップが小さいか、相手にとって許容範囲だった、あるいは気づかれなかったとしよう。自然、自分をよく見せようとし続けることになるのだが、その期間が長ければ長いほどその人は「くたびれていく」のである。


自分で評価しない

ここで注意しておきたいのは、よく見せようとすることと、よくなろうとすることは別であるという点である。

前者は虚栄心で、後者は向上心だ。

もっと平たく言えば前者はフリで、後者はトレーニングである。

自分はこうなりたいのだとハッキリ声に出してしまって、それに向けて何かしら取り組んだり努力している方がよほどその人の輪郭はハッキリ見えると思うのである。

自分の輪郭は太らせてもいけないし削ってもいけない。そのままの自分を認めてもらって、さらに自分を磨いていく人生があればこんな幸せなことはないと思う。

自分のシルエットは嘘をつかない。陽に照らされてしっかりと等身大の影ができるような生き方をしたいと私は思うのだ。

ぼーっと太陽を眺めていて、ふと自分に影はあるかと振り返った時に思ったこと、という話。

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