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天から斜に降り注ぐ

 先週、iPhoneに保存していた大切なメモが2つ消えた。

 ひとつは、これから聴く予定の音楽のリスト。高校時代から買い溜めているアルバムを書き連ねたもので、これだけは消さないように心がけてもう何年も更新を続けていた。消えたと気付いたときに感じた指針を失ったようなぐらつきが、このリストの自分にとっての重要性を物語っている。

 もうひとつは読書の記録。好きな映画はもう一度観ることがあっても、小説はいくら良くてもなかなか読み直さない。だから印象的な部分は書き抜いていつでも振り返れるようにしている。さすがにiPhoneで長い文章を打つのは難しいのでページだけをメモにとり、時間のあるときにパソコンで書き抜きをする。そのページを記録したメモが消えた。音楽のリストに比べてこちらは気付くのが遅れた。残したいと思う文章に出くわし、メモを開いたら消えていた。え、これもか、と焦るうちに気分が沈んだ。

 バックアップをとっていないので復元もできない。訳あって長年アップデートをしていないから「最近削除した項目」もない。大事なものなのに扱いが雑、というより脇が甘い。消えたら終わりの状況を放置していたのだから消えて仕方がない。

 消えた原因はなんとなく分かっていて、おそらく会社のベランダにいるときに無意識で消してしまったのだ。苛立ちをまぎらすためにひとりでスマホを眺めていたところに人がやってきて会話をすることになった、そのときに手持ち無沙汰でスワイプを繰り返していた記憶がある。メモの画面で左にスワイプすると「削除」の選択肢が開くように表示される。それを開いては閉じ、開いては閉じというふうにただスワイプをしていたつもりでも、いつの間にか「削除」を押していたのだろう。普段ならありえない失敗だが、よほど気が滅入っていたのか(だいたい手持ち無沙汰でスワイプを繰り返す意味が分からない)。

 最近は逃げるようにベランダに行くことが多い。社内にいるうちに息が詰まってどうしてもひとりになりたくなる。本当は近くの公園にでも行きたいが、「サボってたろ」と言われても面倒だから、ベランダで外の空気を吸い、遠くを眺めたり下を見たりしてしばし殻に閉じこもる。人が煙草やゴミ捨てのために来るので完全に落ち着けるわけではないけれど、それでも暗い気持ちから立ち直るための場にはなる。大学二年の頃に自分の暗さは底を打ったと思ったが、まだまだ底があって驚く。本当は『もうやめだ、やめ』というタイトルで今週分のnoteを書くつもりだった。内容は、ゆとり世代というイメージを逆利用する生き方について。でも怒りに任せた文章を書いているようでは駄目だから。

 消えて仕方がないとはいっても納得ができるわけではなくて、だからここ数日地道な修復作業をしている。音楽のリストはiTunesで再生回数0のものをメモすればいいが、読書の記録の方はそうはいかない。一冊ずつ、記憶を頼りに自分に必要な言葉や重要な場面を探し出す。流し読みとはいえ、見落としができないのでかなり時間がかかる。残りは文庫本・単行本6冊と全集1巻。先は長い。

 メモが消えたこと。それは大げさに言えば、音楽もダメで、文学もダメで、となにやら象徴的じゃないか? 「悪いことの後には良いことがある」は慰めの言葉でしかなく、現実ではつらいときには立て続けに悪いことが起こるものだ。

 滅多打ちの気分が続く。

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 この前、渡辺京二の『無名の人生』を読んだ。タイトルというよりかは下記のamazonの紹介文に惹かれて。

近代以前の日本人は、厳しい生活のなかでも、いかに苦難を軽くそらして、気持ちは楽しくいられるかという術を知っていた。楽しく幸せに生きるのが上手だった。世の中が悪い、制度が悪い、と言っていても幸せになれない。病気で死ぬかもしれない。戦死するかもしれない。不慮の事故で死ぬかもしれない。しかし自分の一生が自分にとって良いものであったかどうかは、国家や政治や社会情勢とは関係ない。どんな状況のなかでも自分で自分の一生の主人でありうるからだ。不幸も、幸福もあるのが人間の一生。それを総括してどう考えるか。嫌な無駄な一生だった、つまらない人生だった、と思うのか。醜い自分もあるがままに受け止めて、自分の一生を肯定するのか。幸せになれるかどうかはそこにかかっている。

 心に響くのは、この「嫌な無駄な一生だった、つまらない人生だった、と思うのか。」という部分。日々の苦しみに比べて、与えられる喜びがまるでないと感じている今の状況が続くなら、最期の瞬間に胸に浮かべるのはまさにこのような感想だろう。

 そんな僕が抱く救済のイメージ。それはほかでもない、地獄に堕ちたカンダタに降りてきた蜘蛛の糸。あの蜘蛛の糸は今でも誰かのもとに毎日一本ずつ降りてきているのだ。まぎれもなく精神が苦境にあると感じている僕の前にその蜘蛛の糸はいつ垂れるのか。しかし、努力を怠るだけ怠って、ただ「助けてくれ」と他力本願に叫びちらしている僕のもとに蜘蛛の糸が降りてくるのは正式な順番でいえば何億番も先になるんじゃないか? もはや順番待ちをしている余裕がない今の僕が救われるとすれば、まるで千手観音の指先から一気に放たれたように蜘蛛の糸が空を覆い尽くす光景を期待するほかない。そうであれば間違いなく僕のもとにも救いの手は回ってくるだろうけれど、天から無数の蜘蛛の糸が降り注ぐその光景は、“救世”というよりも“終末”のイメージに近いんじゃないか?

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