寺中有希
寺中有希の夫、寺中祥吾です。 このnoteに書き溜めた絵と文章は、2022年2月に「自分の隣に座ってみたら〜私の幸せチャレンジ 明るいほうへ楽しいほうへ」という本になりました。 ここには載せていなかった水彩の絵を使った展示を行います。 本の出版を直前控え、残念ながら病気のためこの世去った妻ですが、この日は共にいてくれるはず。 集ってくれたみなさんと、ゆっくりお話できることを楽しみにしています。 -------------- 「筆追い、駆ける」 寺中有希・荻上由紀子 ふたり
見えないけれど、強い磁場や重力を感じたら、そこにはきっと私が流れていくべき何かがあるのだと思う。 私の、こうしたい、ここにいたい、あの先を見つめたいという思いが、ぎゅっと体に圧をかける。きっとそこには何かがある。 そういうときには、いろいろな計算や準備をしなくても、物事がぐっと動きだす。来るべくして来た、なるべくしてなったという感覚。 そんなものに身を委ねながら、場に導かれていきたい。動き出した先には、きっと何かが流れているはずだから。
悪いことは手放して、いいことは自分の中に持っていようと思っていたけれど、日々生きているのだから、どんどん動いていって当たり前。いいことも悪いことも抱え込まずに、いっそ流してしまおう。 いいことにも鮮度があるいいことも、悪いことも、日々起きる。日々起きたことを溜め込まないことで、体の中が軽くなり、流れが生まれてきそう。 悪いことが起きたらすぐ流す、いいことが起きたら、ふわっと抱きしめて、感謝を込めながら流す。その繰り返しが循環を生み、私は何にも囚われないで、ふわふわと漂って
ゆっくりしよう、ゆっくりしよう。体の中の澱を外に流しながら、ゆっくりしよう。 詰まりを解消物理的な時間があるだけでは、ゆっくりは手に入らないかもしれない。それは気持ちの中にいろいろなものが詰まったままだから。だからこそ、いま、詰まっているものを手放すときが来ているかもしれない。 ●「何かを得なければ」という気持ち ●「このままでいいのか」という不安 ●「いつか使うかもしれない」という溜めこみ 先ではなく「いま」のために「詰まり」は、先のことを考えてできるものが多い。先の
はっきり見えるもの、見えないもの。見えないものを見ようとしたら何が見えるのかな。見えないんだから、見えないまま、そっとしておいてもいいのかな。 余白やあそび世の中に、誰のものでもないような余白があったらいいなと思う。制度や価値観、何らかのラインから外れたとしても、その余白の曖昧さを受け入れる空気があれば、案外なんとかなったり、うまくいくことがありそう。 余白やあそびがあれば、もっといろいろなことが柔らかくなる。それはシステムのようなものもそうだし、人と人との関わりも。
毎日毎日、細胞がうごめいている。体もゆらいで、心もゆらいで、そうやってゆらぎながら、調整しながら、変化しながら、私は毎日を生きているんだな。 生き物は常にゆらぎ変化しつづけることで自ら生き生きします。病気も健康に生きることの一部です。医学的に見れば病気が進行していても、充分に生きている身体には、静かな希望=次への動きがある。希望=健康です。 「Q健康って?」(よしもとばなな)の中で片山洋次郎さんが書いていた言葉を新しく出会った人が教えてくれた。 健康への願い「健康になり
ついつい、テキパキしちゃう。はっと我に帰ると、あれ、息をしていたかなと思うことがある。息を詰めていることに気づいたら、まずひと呼吸。ちからが入っていたことに気づく。 胸の前がふわりついつい、あれやって、これやって、その合間にあれもやって…となっちゃうから、一つひとつの行動の前に、ひと呼吸することにした。ごはんを作る前にもひと呼吸、メールを打つときもひと呼吸、水やりの前にもひと呼吸。 呼吸をすると、自分の胸の前にふわっと空間ができた。その空間をみて、この空間くらいは、「これ
たくさんの人に支えられてきているけれど、最後はきちんと自分で自分を支えること。そこにしっかり体重を乗せたいな。 周りの支えがあってこそ、自分のことを支えられる誰かに支えられている。そう実感できることはとてもありがたいことだし、私も誰かの支えとなっていたい。周りの支えがあってこそ、自分のことを支えるちからが蓄えられてきたと思う。 でもときに自分で自分を支えるのがしんどくなることもある。自分で決めるのが怖い、何かに委ねてしまいたい…、そんな思いがあるときは自分の芯のカルシムが
ある人とある人が似ているなと思って考えてみたら、2人共、自分が感じた違和感を放っておかずに、自分のそばに置いている人だった。だからものごとにも人にも真摯だし、ときにはそれがしんどそうに見えたりする。 違和感は気のせいではない「あれ?なんか違うな」「何かがざらっとするな」と思ったとき、「そんなことない!」と自分が感じたことを振り切ることがある。気のせいにしたり、見なかったことにしたり、諦めたり。 違和感を自分のそばに置くと、面倒くさい。相手に面倒くさいことを言ってしまったり
日々はなんだか忙しい。あれもこれもやらないといけないし、あんなこともこんなこともやりたい…。 ゆっくりに憧れるやりたいことがたくさんあるクセに、ゆっくりに憧れる。なんにもなくて自分だけの時間。体液もゆっくりと流れているような時間。 それなのに、やりたいことや間に合っていない山積みの方にばかりに目が行って、気が急いてしまう。ゆっくりしようとすると、頭の端で「あれやってないよ!」「時間があるならこれもやったら?!」と声がする。私よ、私に声かけるの、やめてー!!! まずは忘れて
お誕生日で関係性を再構築?!ハブチアキヒロさんは、「関係性を再構築する」というミッションで組織改革の会社を経営されています。鎌倉の「まちの大学」でたまたま同じグループになったのがご縁でいまでもSNSでつながっています。 ハブチさんは、365日誕生メッセージを送っている人(それだけではなく他にもいろいろなことやっていますよ!)。なんか面白いことやっているな〜と横目で見ていたら…。 お誕生日note、なんじゃそりゃ?!124年振りに立春となった今年の私の誕生日(いつもは節分)
編集者・竹村俊助さんのnoteが好きです。一見当たり前のようなことの中にある大事なことが言葉になっていて、スルッと体に入って染みます。竹村さんのこの記事を読んで、自分のやっていることを一度、書いてみよう!と思いました。 「きいてみたい」の入り口私がインタビューを始めたきっかけは、2017年、にしさん(西村佳哲さん)の「きく」という5泊のワークショップに参加したこと。 ワークショップ後、猛烈に誰かの話をきいてみたくなり、所属する会社でインタビューサイト「Being-あり方を
白か黒か。好きか嫌いか。ついついはっきりさせようとしてしまうのだけど、本当はどこかで曖昧なまま抱えることにちょっと憧れている。 ハッキリスッキリあるとき、若い女性がはっきりきっぱり何かを言い、周りの年上のヒトたちが「おお、鋭いねー」などと柔らかく受け止めていた。彼女はとても満足そう。はっきり、きつめに言うことで自信を持ったり、エッジの効いている(と自分が思っている)ことを言うことで、なんかかっこいいと思っている感じ。自分の過去を見ているようで見ていられない…。(もう少しした
感じたことは変えられないけれど、それを手放したり、違う形で感じ直すことはできそう。できそうだけど、なかなか手強い…。 気持ちや感情気持ちや感情がある。毎日何かを感じている。楽しいことも悲しいことも怒りも、自分の中でいろいろと起きている。 まるで自分のものではないかのようなものが自分から生まれてきたり、何かと反応して不思議な形で生まれてくることもある。それらが自分に優しく染み渡ることも、弾かれたように爆発することもある。 強い感情を手放す得体の知れない気持ちや強い感情には
いまでもインスタ、facebookに時々投稿している「#幸せチャレンジ」のきっかけは幸福学の前野隆司さん・マドカさん。 お二方にインタビューするために著書を読んだりしているとき、それまであまり考えることがなかった「幸せ」について改めて考える機会になりました。「幸せ」について考えることを通して「幸せ」に向かう心持ちを体に入れられた気がします。 #幸せチャレンジ 発動そして、ふと毎日、幸せをイメージしてイラストを描こうというチャレンジを思いつき描き始めたのがちょうど1年前の今日
自分のことをもっと知りたい、もっと奥にはどんな自分があるのか、と思っていた(まだ思っている)けれど、全部を見ることができたら、それはそれで困ってしまうかもしれない。 自分を深掘ったその先自分って何だろう、何がしたいんだろう、もっとできることはないかと自分に問いかけすぎてしまいがち。自分の中にそんなにすごいものが埋まっているとは思っていなくても、なんだか自分自身が気になる。 占いを見てみたり、いろいろ考えてみたり、人に話して大丈夫だと言ってもらって安心しようとしたり。深くま