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雑草をあえて抜かないやさしさ

わたしが雑草抜きをするとき、抜かない草を決める「雑草隠し」を行っていた。

雑草抜きは、人間の身勝手さをよく表している行為だと思う。そもそも勝手に地面から生えてくる植物を「雑草」と人間が勝手に読んでいるだけで、この世に不要な草は存在しない。高級バラもつくしも、植物視点で見れば同じ草でしかない。その植物を、人間側の見た目や都合でどんどん抜いてしまうのは、植物刈りの場から逃げられない草が不憫だと思ったのだ。

真面目に雑草抜きをしながら、1つ「生かしておきたい」と思う草を選ぶ。選ぶ基準は特にない。ざっと雑草抜き会場を見渡して、何となく愛着を持ったものにしている。そして雑草抜きをする間、わたしはその選ばれし草を頑張って守り続ける。一緒に雑草抜きをする家族に見つからぬよう、その草の周りを離れないようにしたり、日陰など人目につかない場所に動かしたりした。たった1本でも、雑草抜きの犠牲を少なくしたい。雑草として強くたくましく生き続けてほしい。そんな思いで、わたしの「雑草隠し」は毎回のように行われた。

当時、自分の行為は雑草思いのやさしい行動だと思っていた。わたしがいなければ抜かれてしまっていた草が、自分の努力のおかげで生き延びた。もし草がお金を持っていたら、菓子折りを私宛に送ってもいいくらいだと思っていた。だけど、必ずしもやさしい対応とは限らないかもしれない。わたしが一生懸命守っている草も、その場に残り続けたらいずれ死んでいたかもしれない。いっそ雑草として抜かれてしまい、地中に残った根から再生した方が生き延びたかもしれない。それに、もし選んだ草が生き延びたとしても、それ以外の草を抜いてしまっていい理由にはならない。抜かれた草からすれば、「え、なんで俺抜かれるのに、アイツを残しておくの??不公平だろ!!」と考えてしまうはずだ。

結局1番大切なやさしさって?

やさしさは、自己満足でしかないと思う。万人に通用する「正義のやさしさ」はこの世に存在しない。誰かにとっては優しいと思える行為でも、他の人から見れば不公平で憎まれる行為の可能性がある。さっきの雑草を例に出せば、生き残った草と枯れた草では、「やさしさ」への感覚が異なる。だからもう割り切って、自分のやさしさは自己満足でしかないと考えていた方が楽かもしれない。

ただやさしさ=自己満足 と考えすぎてしまえば、今度はやさしさが他人を一切配慮しない暴走車になる可能性もある。いくら「わたしが好きでやってるだけだから、気にしないで♡」といわれても、勝手にお弁当を作ってこられては困る。勝手にSNSで拡散されて逮捕されるかもしれない。

結局、やさしさは正義と自己満足の中間くらいがちょうどいいらしい。そんなやさしさが、一番見つけるのが難しいけれど、、、

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