好かれる清潔感、嫌われる清潔感。

「清潔」は、ときに人を切ない気持ちにさせる。

平日13時過ぎ、会社周辺の韓国料理屋に遅めのランチを食べに来ていた。ランチのピークを過ぎ、店内には客はわたししかいなかった。

14時前に石焼ビビンバを食べ終わり、お会計のために席を立った。するとさっきまで座っていた方向から「ガチャガチャッ」と音の後に、「シュッシュッ」ときこえてきた。視線を向けると、わたしが席を立った瞬間、待ってました!とばかりに素早く食器を片付けていた。そしてわたしが触れていたテーブル全面に、除菌スプレーをかけて手際よくふいていたのだ。

どのお店でもよく見かける光景だ。食事を追えたなら当然食器を片付ける必要があるし、次の客のためにテーブルを清潔にする必要がある。それでも、店員たちの手際のよすぎる立ち振る舞いにちょっと切なくなってしまった。

彼らは、自分が席を立った瞬間、すかさずわたしが使用した場所をアルコール消毒で除菌をした。最後の客だったので、さっさとお店を閉めたいだろう。飲食店側なら当然の対応だ。でも間髪入れず、自分のいた場所に除菌スプレーを使われると、汚いもののように扱われている気がしてしまう。誰にでもやっている対応でも、「なんかすみません」とちょっと悲しい気持ちになるのだ。

そういえばインフルエンザで家にこもっていた時、ドアノブや電気のスイッチ、洗面所など、わたしが触った箇所をすべて母親がアルコール除菌していた時があった。これ以上感染者を増やさないために正しい対策だ。ただ徹底的に自分の痕跡を消し去られているようで、仕方ないとわかっていても切なさを感じていた。

好かれる「清潔感」は過程も大事

「清潔感」は絶対王者だ。異性からモテるうえでも、営業に行くとき、就職活動をするときなど、あらゆる面で絶対に必要なものとされている。「清潔感」で検索すると、どうすれば清潔感を身につけられるのかが書かれた記事が大量に見つかる。それくらい、清潔感は世間から重要だと考えられているのだ。

ただ、すべての清潔感が好かれるわけではない。周囲や相手など、自分自身以外に清潔感を求めたとき、ある一定のラインを越えてしまうと相手に負の感情を与え出す。「清潔感」が相手の存在を除菌対象にし、人間の痕跡を消し始めていく。仕方ないと考えても、やっぱりちょっとやるせない気持ちになる。

「清潔感」は、方向性がちょっとズレてしまうと誰かを不潔扱いしてしまう。汚れを一生懸命掃こうとしていたら、いつの間にか人が立っている場所で掃除をしているようなものだろう。「清潔感」は単に清潔でいればいいわけではない。清潔だけど、周りの人を受け入れる余白がある「清潔感」が人に好かれるのかもしれない。清潔感って難しい……。

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