毎日は不安に満ちていて、世界は今にも壊れそうだ…


過去何度かインタビューなどでも語ってきてるのですが…

自分では周囲に言われるほどには自分ではD≒SIREが自分のワンマンバンドだったとは思っていないのです…笑(まあ異論はあるでしょう…笑)
自分なりの理由はいくつかあるのですが、
まずひとつはバンドが生まれた経緯、D≒SIREがまだD≒SIREという名さえ付けられていない存在だった頃に
このバンドの原型を作ったのが俺ではなくオリジナルメンバーでもあるギタリストの聖詩(Kiyoshi)だということ。
これはひとつ、俺の中で大きな理由でもあります。
俺が聖詩と出会い、彼が当時すでに彼の中で構想中だった新バンドのボーカルとして誘われた時点では
すでにボーカリスト以外のパートの候補メンバーは揃っていましたから、ある意味では俺が最後に加入したとも言えるわけです。

結果的にはそこからライブ活動を開始するまでには1年以上の時間がかかり、曲作りとスタジオでのリハーサルだけを繰り返す期間の中で
何度かのメンバーチェンジがあり、正式なファーストライブを開催する頃には
最初に俺が聖詩と出会った頃の候補メンバーとはかなり変わってしまってたので…
ファンのみなさんや関係者から見たイメージとはまた違うのかもしれませんが、
俺の中ではD≒SIREというバンドをゼロから1へ生み出したのは聖詩と言えるのではないかなという気持ちが今でもあるのです。

正式活動開始までに我々は10曲のデモテープを自主制作、完全なセルフプロデュースで自主制作レコーディングしました。
当時から聖詩はよく「プロになってからも通用するような…ボツにならないような曲がアルバムの曲数分くらいは出来てないと…」
と言っていたのが印象的でよく覚えています。

俺もそれまでの音楽活動でもオリジナル曲の制作はしていましたが
まあ良く言えば芸術的な感性爆発という感じで…エキセントリックでカッコいいとは思うのですが、とてもじゃないけど
メジャーで売れるとか売れないとかそういう話じゃねえだろう…というようなマニアックな曲ばかり作っていたので(笑)
(珍しく「DREAMS BURN DOWN」だけはその頃から生き残ってる曲です…)
聖詩と出会い一緒にバンドを演ることになって初めて、明確なプロ意識を持った人間とチームを組んだと言えると思うのです。

当時は制作した候補曲の中でもどの曲をD≒SIREで演奏する曲として採用するかは主に俺と聖詩でジャッジしていましたので、
結果的にライブ活動本格開始の頃までに作った10曲…

「C.U.R.S.E」「人工楽園」「SHADES」「静夢」「Voices…」(以上は聖詩作曲)
「DREAMS BURN DOWN」「LEAVE ME…」「TEAR」「xxxBLUE」「KILL ME KISS ME」(以上は幸也作曲)

(※たぶん完成した順…に曲名を書いてみました…微妙に間違ってたらごめん)

いずれもあれから30年近く経過した現在でもファンの皆さんに愛されている楽曲と言えると思いますので
当時の聖詩のプロ意識はやはり確かなモノだったのだな…と思うわけです。

その後、D≒SIREは1995年8月にファースト・アルバム「終末の情景」を完成させるものの、
残念ながらメンバーは分裂状態となり、ライブ活動開始後のメンバー(ファンの皆さんがいわゆる「第1期」と思っている)でバンドに残るのは
最終的にYUKIYAただ一人となりますので
どうしてもD≒SIREイコールYUKIYAというイメージがあるのかなとも思いますが、自分自身ではそんなふうに考えていたんです。

コアなファンの皆さんは知ってくださっているかと思いますが、その後はD≒SIREは一時活動休止状態となり、
YUKIYAも生活&活動の拠点を一度大阪に戻します。
約1年半ほどでしょうか… YUKIYAは大阪で1996年の11月からクライス(Kreis)という自主制作レーベルを設立し活動を再開、
1997年からはYUKIYA、SHIGE、HIRO、AKITO、TETSU、HIDEYOSHIというメンバーで東芝EMIというレコード会社と契約し、
その契約金で1997年の1月末に東京都新宿区にメンバー全員で引っ越しをして…現在に至ります。
そのメンバーでの東京でのお披露目ライブは1997年7月の新宿パワーステーションでした。東京での初のクライスレーベル主催のライブでもありましたね。
これがファンの皆さんがいわゆる「第2期」と思っているメンバーでのD≒SIREかと思います。

第2期のD≒SIREはメンバーが決定すると同時にメジャーのレコード会社と専属契約を交わしましたので(デモを聴かせるだけで契約してくれた…笑)
少し普通のバンドとは色々と違っていましたね… まだバンドとしての一体感とか方向性とかが完全に定まる前に、
個々のメンバーの才能や力量、タレント性みたいな部分を大人が気に入ってお金を出してくれましたので…(もちろん第1期D≒SIREでの実績も大きかった)

メンバーは一緒に上京し一緒に暮らしながら、いま振り返っても人生であんなにリハーサルしたことないわというくらい毎日(本当に毎日…学校みたいでした…笑)
大きなスタジオで良い環境でリハーサルさせてもらいましたので、
割と早い段階でメンバー同士の中では、「これから完成していくこの我々のバンドは果たして「D≒SIRE」なのかな…?」という気持ちはありました。
D≒SIREの半分以上の曲を作曲していたメインソングライターかつオリジナルメンバーで発起人でもある聖詩はもうバンドに居ないわけですし、
新メンバーから次々と出来てくる新曲も当然ですがD≒SIREとはまた少し趣が違う方向性のモノでした。

そんなことからも1997年の夏頃からはもう、レコード会社の方や、その後マネジメントを担当することになった吉本興業の方も含めて
D≒SIREはインディーズ時代のみで終結させて、メジャーデビュー時にはバンド名とコンセプトを一新してデビューしようと言うことになり、
契約書は全員で交わしましたし全員契約上の条件も同じなのですが、HIRO、SHIGE、TETSUの3人はインディーズの間はサポートメンバー的な見せ方をし、
新バンドになると同時にデビューし、全員が正式メンバーとしてクレジットされるというシナリオが出来ました。
2007年にフールメイト紙などに掲載された俺とSHIGEのインタビューで「Kαinというバンド名やロゴは10年前から決まっていた。」という発言があるのは
そういう理由です。

第2期のメンバーになって最初をD≒SIRE名義で活動させたかったのは会社としてはD≒SIREというバンド名のネームバリューにビジネス的な魅力が当時あったからだと思います。
新メンバーがメジャーでのレコーディングに慣れるという目的と、D≒SIRE時代の代表曲の新規制作した原盤権利を保持したいというメーカーの意向もあって、
再録アルバムである「想刻」そして新曲も加えた「断章」が制作されました。
現在になって思えばそのあたりの大人の事情的な部分は、結成時からメジャーのレコード会社がスポンサーとして関わっている「第2期D≒SIRE」ならではの問題なのかなとも思います。
もちろん、最初からあれだけのスポンサード体制がなければ6人全員で引っ越すとかも出来なかったでしょうし、俺達全員の人生が少しずつ、
現在とは変わっていたかもしれません。一緒に上京してきて一緒に生活していたというのが大きいのか「第2期」のメンバーは現在でも私生活では一番交流がある
元メンバーだと言えると思いますし、あの頃の環境にはすごく良い面も(悪い面も)たくさんあったと思います。
でもこのような事情もあって、この「第2期D≒SIRE」もYUKIYAの中ではもちろん誇りには思っていますが「自分のバンドだ!」という意識は実はそこまで強くはないのです。
(正直「会社のバンド」的な側面があったことは否定できません…)
ファンのみなさんにとっては「第1期D≒SIRE」も「第2期D≒SIRE」も
YUKIYA自身が自分で感じているイメージとファンの皆さんが感じているイメージとでは違うのかもしれませんね。

すべてが順調にいくかと思われた「第2期D≒SIRE」でしたが、意外にもすぐに運命的な事件が起こります。
それはD≒SIREのプロジェクトを総括していたチーフ的なディレクターが、東芝EMIからライバル会社であるSONYに引き抜かれ、移籍することになったからです。
YUKIYAは個人的には1997年の秋にはもうそのことを極秘裏に相談され、D≒SIREのプロジェクトごと他社へ移籍したい、金銭的にはすごくいい条件だと言われていました。
YUKIYAがその話に同意できなかった理由は大きく2つありまして、
ひとつはその方がきっかけで契約した東芝EMIではありましたが、社内では他の方にも本当に大変良くしていただき会社にもう愛着が湧いていたこと、
自分の中では当時は自分自身がもしメジャーデビューするなら、この会社からしたいという気持ちが強かったですね…
それから、東芝EMIとの契約の内容はD≒SIREとしての契約だけではなく、クライスとしての契約もあり、自分は別途プロデューサーとしての契約も交わしていたのですが
移籍するのであれば連れていけるのはD≒SIREのメンバーのみだということ、つまりクライスの他のバンドや後輩たちの面倒は見れない、と言われたことが大きかったです。
もちろん、何の実績もないメンバーなのに良い条件で契約してくれてここまで来たのに、メジャーデビュー直前になってライバル会社に移籍するというのも仁義的な部分で
大変ひっかかりましたし、仮に当時言われていたように法的な部分は専門家がクリアしてくれるのだとしても自分の中では最後までその決断ができなかったです。

この1997年の秋から冬にかけては短い期間の間に信じられないくらい次々と新しく大人たちが現れては色々な話をメンバーとして… 
今でもよくメンバーと飲みながら話すのですが、自分たちでもどうしてああいう結末になったのかよくわからないくらいの感じなのです…

最終的にYUKIYAとHIDEYOSHIは東芝EMI&吉本興業体制に残ることになり、SHIGEとTETSUはSONYへ。そして詳細はよく知らないのですがHIROさんと阿希人は
エイベックスの人が面倒を見ることになった気がします。(その後エイベックスのアーティストのバックとかもやってましたね…そういえば。)
メンバー同士の仲が悪くなったわけでも、音楽性とかで揉めたとかでもなく、(一部のメンバーの破天荒過ぎる生活が問題にはなっていましたが…笑)
気づけばいつの間にか2対2対2で3社に分かれることになっていて、自分でもなんだこれは…なんでこうなったんだろう…?と思っていたことを覚えています。
メンバー同士でも阿希人なんかは最後まで「ボクたち、なんか解散する流れみたいになってるなあ…」みたいな感じでした。
1997年は最後の最後まで大人たち同士でもメンバーとの間でも話が綺麗にまとまらず本当に大変だったのですが、
最終的にはレコード会社の方や大人たちが公式に結論を出す前に自分自身で言いたくて、1997年11月11日のライブ(クライスのイベントでした)の
ステージ上で突発的に解散を宣言しました。
事前に相談などは誰にもせず、YUKIYAが決断し当日ステージに上る直前にメンバーやレーベルの仲間にだけ「今日言うから。」とだけ言いました。
その頃は何本かのライブに出演しながらメンバー同士でも「俺たちはいつまで一緒に演奏できるんだろう…」などと話しているような空気感でしたので、
始まりも終わりも大人にコントロールされるよりも、おそらくクライスの仲間たちが集まる最後のチャンスだろうというタイミングでもありましたので
自分の口で直接ファンの皆さんに言うなら今日しかない。と考えたこと、そしてステージに上るギリギリまでSAKIくんが止めていたことを覚えています。

自分の意志で自分で決断し、このメンバーで無くなるのであればもうこのバンドは解散する。と宣言はしたものの、
そのメンバーで解散ツアーや解散ライブをすることは許されませんでした。

新しいバンドに生まれ変わる予定だった構想も白紙となり、D≒SIREとしての(第2期メンバーでの)ラストツアーやライブもやらせてもらえないことになり、
当時はYUKIYAはかなり荒れていました。笑
東芝EM Iとの契約がまだ残っていたことと、吉本興業が資金を提供してくれることになり、ツアーをするためのメンバーを集められるなら
YUKIYAが気が済むようにラストツアーをやらせてもらえるかもということに後日の話し合いでなり、いまでもこの2社と
ブルーをメジャーデビューさせてくれ、D≒SIREの解散ツアーにも協力してくれ、後にはRayのCDもリリースしてくれたvapレコードには感謝しています。
当時解散に関連するD≒SIREの作品のいくつかがvapから発売されたのはその御礼として同社からも何かリリースしたかったからなんです。
解散の直前にはもう東芝EMIよりも吉本興業のほうがD≒SIREに関する出資比率も増え、発言権や決定権も強かったのだろうと思うので実現できたのだと思います。

たくさんの方の協力で準備や体制を整えるのに1年かかってしまったのですが、
解散宣言のぴったり1年後の1998年11月11日から、D≒SIREの解散全国ツアーが開催できることになりました。

とはいえ「第2期D≒SIRE」のメンバーはもう他社と契約してしまい、当時はそれぞれのマネジメントとも正直良好的と言える関係ではなかったですから、
解散ツアーは実現できることになったものの、当時の(第2期)メンバーはゲスト参加さえも認めてもらえない状況で…
SONYに至ってはD≒SIREラストライブへのゲスト参加をお願いしたらその後で12月24日当日にENDLESSのライブを横浜で決めてましたね…苦笑
後に当日メンバーと電話してTETSUに「顔さえ出せないなんて…本当にすみません。」と謝られたのを覚えています。
どちらのメンバーもただとても悲しいという大人ってなんやねん…的な状況でした。

そんな状況だったので、やっと念願のラストツアーが出来る体制は作れたのですが、そのためには
言葉で表すと大変難しいニュアンスになるのですが「解散するためのメンバー」を集めなくてはならない状況になりました。

その頃には自分の中でも、さすがにもう意義とか意味合いとかを健全に見出すのは大変厳しい精神状態になっていて…
最終的には自分の中でのモチベーションとしては、お世話になった方や応援していただいた全国のみなさんに一度だけでもいいから直接お礼を伝えること、
そして「D≒SIRE」という名前を綺麗に完結させてあげること…言葉は難しいですが「葬る」という感じのコンセプトが自分の中にあり、
ラストツアーもそのコンセプトに合わせて全13公演という設定にしたりしました。

そしてD≒SIREという物語を完結するにあたって、自分が誰かに協力を要請するとしたら、
やはりこのバンドの元々の原型を作った発起人である聖詩しか居ないかなと思い、当時久しぶりに聖詩に連絡を取りました。
KENはかつてTOKIさんの紹介でD≒SIREにベーシストとしてオーディションに参加した経験があり、このラストツアーの時はギタリストとして参加してもらいました。
そしてD≒SIREに残留してくれた秀誉を加えた4名が、ファンの皆さんの思う「第3期のD≒SIRE」なのかなと思います。
ボーカル、ギタリスト2名、ドラムの4名編成でしたので、ライブの時のベーシストは… 最初は実は個人的に頼もうかなというやつが居たんですが…
そいつからの推薦もあって最初は当時まだ10代だった現wyseの拓磨が、その後の全国ツアーではKill=slaydのJUN≒NAくんが弾いてくれました。
この「第3期のD≒SIRE」は最初からラストツアーが決まってる状態で「最期を一緒に迎えてくれないか?」というオファーから始まってるバンドでしたので
参加してくれたメンバーも当時は精神的に大変だったろうなと思います。

この「第3期のD≒SIRE」単独の作品は実はシングルの「STAY」のみなんですが、意外と制作現場はクリエイティブにやれた記憶があって、
まだギリギリレコード会社も予算を使ってくれる時代でしたので良い環境のスタジオでレコーディングさせてもらえましたし楽しかった思い出があります。
レコーディングではKENがベースも弾いてくれることが多かったですね。シングルの「STAY」以外にも
東芝EMIから解散ツアーに合わせて発売されたベスト盤である「異窓からの風景」(「想刻と「断章」を合体させたもの)のボーナストラックとして追加収録された
楽曲はこの「第3期のD≒SIRE」でレコーディングしています。「0 -LOVE-」ではHIROさんが個人として来てくれてゲスト参加してくれたのもよく覚えています。
ラストシングルの最後に「静夢」を聖詩と再レコーディングできたことも、いま思い出しても良かったなと思います。
結果論ではあるんですけど、聖詩と始めた「D≒SIREという物語」を紆余曲折ありつつも最後に聖詩と閉じることが出来たという気がしたんですよね。

人生で一番最初に聖詩と会ったのが大阪の新今宮の駅なんですけど(まあ俺が住んでたからなんですけど…笑)今でもその時のことを思い出すと言うか…
俺だけかもですけど。笑

本日、You Tubeでリリックムービーを公開した「Days…」という曲は、時期的に言うとちょうど「第2期D≒SIRE」が終わり、「第3期のD≒SIRE」として
ラストツアーに向けて動き出す…というタイミングで開催されたクライスのレーベルイベント(ブルーのメジャーデビュー記念イベントでもありました。)に
合わせてvapレコードから発売されたクライスレーベルのオムニバスアルバムに収録された曲です。
そんなわけで原盤の権利はvapレコード、著作権や出版関係の権利はその親会社である日本テレビが保持していますので、
解散時のベストアルバム(東芝EMI発売)には収録されていないという楽曲です。

メンバーとしても久しぶりに聖詩&秀誉とレコーディングした楽曲なんですが
YUKIYA個人としても「第2期D≒SIRE」が崩壊し、大人たちに対する不安や猜疑心といった感じの感情が最高潮に達している精神状態で書いた楽曲ですから
「Days…」の制作やレコーディングはいま思い返しても印象深いです。事情があって北関東というかめちゃくちゃ遠くの方まで行きましたしね…笑
やっぱり「第2期D≒SIRE」は演奏スキルやアレンジ能力に長けたメンバーが集まっていましたので「第3期のD≒SIRE」が始動するにあたり、
自分自身過去の自分と戦わないとというのもありましたし、聖詩も一緒にレコーディングするのは「終末の情景」以来でしたから、
俺の知ってる中では当時の時点で過去のどのレコーディングよりも聖詩がアレンジもギターもすごく頑張っていたな…という印象があります。

今回の映像を作るにあたり、実は当時のマスタリング(「オレンジ」の小泉先生が担当しています)マスターデータから直接書き出した、
24bit/48Khzのマスター音源(DATで保管していた)を使ってるんです。
なのでYou Tubeでどこまでわかるか…とは思うのですが、簡単に言っちゃうと当時発売されたCDよりも音質が良いという…笑
そのあたりももし可能なら楽しんでいただけたら幸いです。

いま思えば、自分が被害妄想だった部分もあるのかなとも思うのですが、当時は本当に良くない精神状況でしたので
この曲を書いて実はきっと誰よりも自分自身が救われたかったんだろうな…と思うんです。
「第2期D≒SIRE」が崩壊したという現実はその後かなり長い間、数年間に渡って自分の心の中で昇華出来ない問題としてずっと残りましたし、
一方で当時はブルーのメジャーデビューに関しても色々と大変で…苦笑
これもまあ過去に何度か語ってるので正直に書きますがいまだにブルーのメジャーデビュー時のマネジメント事務所の●●さんには
今まで生きてきて2020年に振り返ってみても人生でまあ、あそこまで他人に見下された態度取られたことないですね…というくらい屈辱的な
仕打ちを受けましたので、それに対する気持ちもかなり込められている楽曲でもあります。笑(これはもう昇華できてるつもりです!笑)
あ、フォローするわけじゃないですがもちろんその事務所には他には仲の良い人も尊敬できる人もいましたけどね。
しかもその問題の人はその後もう音楽業界に居られなくなるような問題を起こして完全に業界からは消えましたしね…

当時の俺があまりに悲惨に見えたんじゃないですかね?(笑)このオムニバスはvapレコードの担当者の方がくれたチャンスだったと当時は感じていました。
だからなんとかここで良い楽曲を書いて… 
念願のD≒SIREのラストツアーを実現させるために状況を一変出来るようなパワーのある楽曲が欲しかったんですが…
自画自賛みたいですが書けたんじゃないかな…笑

この楽曲が生まれたおかげでD≒SIREは何とかラストツアーに向けて最後まで走れたんじゃないかなと現在でも思っています。
「第2期D≒SIRE」が崩壊し、もう一度ゼロから…という気持ちで俺が曲を作り、聖詩と秀誉が素晴らしいアレンジをしてくれて完成させることが出来たのも良かったと思います。
あ、今回改めて当時の資料を調べたらこの曲のレコーディングからもうサポートでKENがベースを弾いてくれてましたね。結構長年謎だったんですよ。笑

さっきも言いましたけどいろいろな事情があって解散ライブのビデオは東芝EMIではなく、日本テレビの映像班が撮影して(なんかちょっとテレビ番組にも出たり…笑)
その子会社でもあるvapレコードから発売されましたので、ビデオの最後にこの「Days…」をエンドロール的に収録したり…

そんなわけで実は色々とかなり思い入れがある曲なんですよね…

いま、2020年の4月なんですが、世の中が大変な状況になっていて… 自分も長年やってきた5月2日の赤坂BLITZでのワンマン公演の開催を断念しましたし
ファンの皆さんもみんな、それぞれの生活の中でいま様々な問題や不安、苦悩を抱えて頑張ってると思うんですよね。
いつ解決するのか、先が見えない状況の中で何か出来ることはないかなと思って俺自身も試行錯誤していて、
もちろん新たな曲も書いてみましたし、ライブが出来ないならと作品の通販とかの準備とかもしてみたりとか… 
でもいま新曲をメンバーとレコーディングするのもな…じゃあソロで楽曲を完成させるのがいいのかな?…それも少し違うかもな気がするな…とか
通販とかももちろん今後やるつもりではあるんですけど、流通の業界もいま大変だみたいな話を聞くとCDとかより優先して運ばないと駄目なものもたくさんある中で
どんな状況なのかな…CDとか販売していいのかな? どんな影響があるのかもう少し調べたいな…とか考えてしまって…
過去の曲を発掘して映像を付けて無料でYou Tubeで公開するのなら誰にも迷惑かけないかな…とかね。笑
まあなんかもうこの騒ぎが起きて以降、だんだんネットも繋がりにくくなってる…みたいな都市伝説的な噂もあったりして考えだしたらキリはないんですけど…

色々あらためて聴いた中でも
この曲は現在の自分の心情にちょうどフィットすると言うか…
この曲を書いた頃とはもう年齢はもちろん、状況も心情もぜんぜん違うはずなんですけど、
でもこの曲を聴いて歌詩を読んだときに不思議としっくり来る感覚があって…

2020年の現在、そう思える楽曲を残せてきたということも嬉しいですし、
ファンのみなさんはどう思うだろう?あらためてどう感じるだろう?
願わくば何か響くものがあればいいな…と思いまして
この曲のリリックムービーを公開してみようと思ったんです。


ぜひ、見ていただけたら幸いです。

https://youtu.be/eKCMMRZRQDs


ファンのみなさんに公開する前に実は何名かの元D≒SIREのメンバーに連絡を取り、この映像を見せました。
全員が言ってくれたのは「楽曲に古臭さをまったく感じない。」という言葉でした。

D≒SIREで何よりも個人的に大事に想っていたのは「普遍性のある詩とメロディ」です。

もしそれが出来ていたのだとすると、表現者としてこれより嬉しいことはありません。


実は今日、もう一度聖詩と連絡を取り合い、約束をしました。


●もう一度会う日まで、お互いに気をつけて無事で元気で居ること。

●お互いの家族や大事な人や仲間を全力で守ること。

●そしてこの困難を乗り越えて安心して音楽ができる日が来たら、もう一度一緒に音楽をやろうということ…

●俺たちが大事にしてきた、ファンの皆さんがこんなに時間が経っても愛してくれている曲たちを、もう一度だけでもいいからライブで演奏しようということ。


もしそれが実現できる日が来て…
俺と、聖詩と、そして仲間たちのことを… (可能性だけは無限にあると思っています)

「それ」をみなさんが「D≒SIRE」と呼ぶのかどうか…


いまはまだ俺にはわからないのですけど…

でも… 「明日の約束を交わそう。このまま、続くだけの日々でも。」


といまは思っているのです。

2020年4月19日

藤田幸也


追記:
2016年にSOUNDOCLOUDか何かで音源を公開したときにも書きましたけど
何かと権利関係が複雑な時期の楽曲なんで、万が一、どこかからクレームがきたら
すぐに公開を終了するかも知れません。笑
その場合はどうか御容赦ください。(たぶんもう大丈夫かと…)
じゃあ、楽しんで聴いてくださいね。

追記2:
余談なんですけど、この曲の制作時期はプロデュース仕事ともモロに被っていて
当時の(1998年〜1999年)俺のスケジュールは本当に殺人的でした…

1998年05月10日 DIR EN GREY「JEALOUS」発売
1998年05月29日 Kreis オムニバス・アルバム発売
1998年08月12日 DIR EN GREY「-I'll-」発売
1998年08月21日 Ize「Ark」発売
1998年11月11日 D≒SIRE解散全国ツアー開始&ベストアルバム発売
1998年12月16日 D≒SIREラストシングル「STAY」発売
1998年12月21日 D≒SIREクリスマス企画アルバム「転生前夜」発売
1998年12月24日 D≒SIRE公式ラストライブ@新宿リキッドルーム
1998年12月25日 D≒SIRE無料シークレット(ほぼ)全曲ライブ@新宿LOFT
1999年02月10日 Da'vidノ使徒:aL「Da'vidノ使徒:aLと云うモノ」発売
1999年03月〜Pleur全国ツアー「SHOCK WAVE CIRCUIT'99」
1999年05月19日 Pleur「La premiere porte」シングル発売
1999年05月05日 Pleurワンマン@渋谷ONAIR WEST
1999年05月26日 Ray「EVER SEEN」発売
1999年05月29日 Kreis/Tokyo 1999"約束の日”@川崎クラブチッタ
1999年08月08日 Pleur「La premiere porte」アルバム発売
1999年11月11日 JILS結成。デモテープ「白」「黒」発売
1999年12月21日 Kreis オムニバス・アルバム「Kreis 1999」発売
1999年12月24日 JILSファースト・ライブ「赤い花」@新宿LOFT

※間違いや抜けがあったら教えてね…


藤田幸也の公式HPはこちら。

http://yukiya.tokyo


公式Twitter

https://twitter.com/YUKIYA1999

公式Instagram

https://www.instagram.com/tokyo_monochrome/

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