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ネパールの片田舎の先生から教わった「世界を変える」ということ

「世界を変えたい」という言葉をよく聞く。

歴史を振り返れば、一代で「世界を変えた」人はたくさんいる。

徳川家康や坂本龍馬、現代ではAppleのスティーブ・ジョブスやFacebookのマック・ザッカーバーグなど、いつの時代にも世界を変える人材はいた。

昨日、「世界を変える」ということについて考えていた。

まず、「世界」とはなんだろうか。私は世界とは「個の集合体」であると考える。人間であれ、動物であれ、植物であれ、それら一つ一つが世界の構成員である。

人間を例に挙げると、エンジニアがいないと我々は快適なネット生活を享受できない。清掃員がいないとオフィスはゴミだらけになる。漁師がいないと食卓に魚が並べられることはない。

世界を構成する個の変化なしに世界の変化はあり得ない。

様々な個が集合した結果世界が生まれる。世界はあくまで人間が作り出した仮の姿でしかない。隣の町の名前を言えるのも、飛行機の予約の仕方を知っているのも人間のみだ。動物や植物にはそれができない。かといって世界というものが実体を伴っているかと言われたらそうともいえない。

世界は常に不安定だ。

だからある時代を生きた人が人生をかけて世界をよくしようと尽力したとしても、次の時代には戦争やテロ、人種差別などの問題が浮かび上がる。

僕は、「世界を変える」ためには個人の変化が必要だと思っている。

先ほど述べたように個の集合体が世界であり、個人の変化なしには世界の変化はない。個人の変化は小集団の変化をもたらす。友達、家族、コミュニティー、そんな小さい集団の変化をもたらす。小集団の変化はやがて輪を広げ、村レベル、県レベル、そして国レベルへと変化を続ける。

個人の変化が大事だ、と述べたが一番最初の変化を生み出すことはすごく力がいる。

国際協力や教育支援といった分野では、2000人の子供たちに〜を届けた、や1万人の人たちに衣服を届けたという宣伝文句をよくみる。

素直にすごいなと思う。

一方、「一人の村の先生が変わった」というのはなんともインパクトに欠ける。客観的に見たら「そんな長い年月をかけて一人にしか変化を生み出せなかったのか」と見えるだろう。

でも僕はこう思う。最初の一人が肝心だと。そして最初の一人を変えるのが一番大変だと。毎週7時間かけてバス移動し、先生と授業案を練り実践する。最初は僕のいう通り授業をこなすだけだった。しかし今では自分で授業案や教材を作り、年上の先生の前で堂々と意見を言える。

自己満かもしれないけれど、僕はこの一人の先生の変化はいずれネパールの教育を変える重要なキーになると信じている。

ネパールの首都カトマンズの公立トップ校の先生が「ぜひあの村の学校を訪れてみたい」とおっしゃっていた。

90%が自給自足で生活する、ネパールの片田舎の学校だ。そこに国の公立トップ校の先生が行きたいといっている。これは奇跡でしかない。

僕がやっていることは本当にネパールの教育をよくすることにつながるのだろうかとなんども考えた。

でも昨日やっとわかった。やっと1mm前に進むことができたと。

でも確かに世界が動いたのを感じた。

あとは前に進むだけだ。

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