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言葉は「救い」になる

前回の記事で、催眠療法(ヒプノセラピー)によって、幼少期の記憶や認識を書き換えられるという話をしましたが、催眠状態に入っていなくても、人に言われた言葉によって救われた経験をした方は多いのではないでしょうか。


何年か前に大学の集まりに参加した際、後輩と話していて何の話の流れだったか、「Yukiさんのことを嫌いになる人なんて居ませんよ」と言われたことがありました。

本当に軽い会話だったし、それを言った本人は深い意味もなくサラッと言った言葉だったと思います。でも、その時の私にはその言葉が深く胸に響き、嬉しいというよりは救われた気がしました。

若い頃は、苦手な上司がいたり、姑と折り合いが悪かったり、「私は嫌われてるのしら」と思うことも度々ありました。

今は、心が少し自由になり、人からどう思われているか、あまり気にならなくなりましたが、それでも、後輩が言ってくれた言葉はいつも私に力をくれる宝物です。


また、中学一年生のとき、国語の先生から「現代国語の読解力であなたの右に出るものはいません」と言われたことは、そのときの職員室の風景と共に、今でもよく覚えています。

実際にそうだったかどうかは分かりませんが、少なくともその後の順風満帆ではなかった学生生活の中で、先生の言葉に励まされ支えられたことはたくさんありました。


忘れられない言葉を思い出すときはいつも、その人の声やその場の空気感が蘇り、自分は受け入れられているという想いに救われます。


死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。

しかし、「救う」といって、どちらもこの世の人間である限り、正確にはそれは「共に居る」といったふうなことなのだろう。共に居て、共に感じ、語り合う。語ることがなければ、語ることもなく、そんなふうにして通じ合ってゆくことが、言ってみれば「救い」ということなのだろう。

「あたりまえなことばかり」池田晶子著


哲学エッセイの文筆家である池田晶子氏は、腎臓がんのため46歳の若さで亡くなられました。池田氏は、人と共に居て語り合い、言葉とその裏にある沈黙を共有しながら、そうすることが、何よりも救いとなると感じていたのでしょう。


私たちは、言葉を話すことができるという幸運に恵まれていることに感謝して、言葉を大切に使いながら、お互いに救いあい、励ましあう存在でありたいものです。


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