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伝統工芸品をたどる 陶器・磁器

焼き物は面白い。
そして分かりづらい。
今回は、歴史の流れの中での陶器・磁器を歴史から追っていきたいと思う。

1.古代

コンラッド・タッドマン

コンラッド・タッドマンの本を読んで、大阪府南部に古墳時代から平安時代初頭に窯業がさかんだった地域があったことを知った。

日本三大古窯

陶邑窯跡群、猿投窯跡群、渥美窯跡群または牛頸窯跡群がある。

陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)

須恵器生産は朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、平安時代までの約500年間で600基とも1000基とも言われる数の窯が築かれた。これらの窯は『日本書記』に書かれた古い地名の「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられた。

須恵器の特徴

陶邑窯跡群で作られていたのは須恵器。
縄文土器は焚き火で焼かれ、弥生時代を経て古墳時代の土師器へと土器作りの技術は受け継がれる。須恵器のような硬く灰色をした焼きものにするには、窯が必要。須恵器は土師器と比べて丈夫で水を漏らしにくい。直接火にかけると割れてしまうため、煮炊きには土師器を使う。

猿投窯(さなげよう)

古墳時代から鎌倉時代にかけて愛知県で稼働していた古窯群。

猿投古窯の特殊性は、地元の原料を用い、朝鮮半島から5世紀半ばに伝えられた須恵器の技術をもって、大陸から舶載される美しい青磁の国産化を図るという、当時の文化・情報・技術の粋を結集したハイテク窯であり、青磁を模索する過程において、日本初の高火度施釉陶器・猿投白瓷(さなげしらし:灰釉陶器)を産み出した点である。

主たる生産品目は、祭器・仏具・香炉・各種硯・飲食器などの高級品に限られ、平城京・平安京をはじめ、寺社・官衙・豪族などの支配層に供給された。かような諸事情から勘案し、猿投窯は官窯、もしくは官の意向が強く反映された官窯的性格の窯であったとされている。

Wikipedia 猿投窯:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E6%8A%95%E7%AA%AF

牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)

福岡平野の東南部、福岡県大野城市上大利・牛頸に分布する窯跡群。6世紀中頃~9世紀中頃に操業された西日本で最大級の須恵器窯跡群。窯跡は500基以上があったと推定されている。

2.中世以降

六古窯

日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯のこと。
瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波立杭焼、備前焼がある。

瀬戸焼

愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器。
室町時代末頃まで古瀬戸と呼ばれる。古瀬戸様式の器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したとみられる。
室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。
次第に生産拠点が美濃に移る。

桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が多く焼かれる。
江戸時代になると有田焼と総称される磁器により次第に市場が奪われ衰退する。
文化年間(1804年-1818年)に有田から染付磁器の製法が伝えられ、磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる。

常滑焼

愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器(せっき)。
平安時代には仏教遺跡や、奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたこと、鎌倉時代には鎌倉でおびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていたことが判明している。

室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では壺・甕・鉢の生産に特化している。
戦国時代、織田信長が瀬戸の陶器生産を保護するために天正2年「禁窯令」を出したが、それによる常滑焼への影響は不明。

近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼は甕・壺を中心とするが、江戸後期には茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壷や火消壺、竈(かまど)、火鉢などが中心となる。江戸末期には土樋(どひ)と呼ばれる土管が赤物が登場、土管で下水道を作ろうとしている。奈良県大和郡山市の郡山城の外堀に「暗渠」と呼ばれる排水設備が設置されている事実が発見されたが、土管の材料として常滑焼が使用されている可能性が高いと指摘されている。

明治時代には、土管生産の需要が増大した。
明治末年からはタイルを中心とする建築陶器の生産が開始された。大正期にはフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルで採用されたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加した。鉄筋コンクリート建築が普及するとともに建築陶器の需要が急速に増大していく。

平成になると、他産業との融合や協業が展開され、有松・鳴海絞りの模様を施した陶磁器を焼いて注目された。

越前焼

元々須恵器を焼いていたが、平安時代末期に常滑焼の技術を導入して焼き締め陶を作り始めたのが始まりとされる。最初に窯が築かれたのは越前町小曽原だったといわれ、初期の越前焼の生産は常滑から来訪した陶工の集団が行っていたと推測される。
高温焼成で茶褐色に焼き締まった越前焼は、上薬を使わなくても水を通さない丈夫な焼き物と言う特長から、主に甕やすり鉢などの日用雑器を中心に生産されていた。室町時代後期には北前船によって北は北海道、南は鳥取県まで運ばれ、越前焼は北陸最大の窯業産地として最盛期を迎える。しかし、江戸時代中期になると瀬戸焼などに押されて越前焼は次第に衰退し、生産量も縮小する。その後、江戸時代後期には片口や徳利などの食器類を焼いたり、明治時代には信楽・瀬戸・美濃・九谷などから陶工を招き、磁器や色絵陶などを取り入れようとしたが定着せず、明治時代末期から大正時代にかけて窯元の廃業が相次ぐ。

Wikipedia 越前焼:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E7%84%BC

信楽焼

滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる陶器。

信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

信楽は、奈良、山城などの畿内と東海地方とを結ぶ交通路でもあり、茶湯の中核として発展した京、奈良に近いことから、後に茶陶信楽焼が発展した大きな要因と考えられている。また、焼き物に良好な陶土が豊富にあり、陶工たちにとっても理想郷だったといえる。
鎌倉時代後期、常滑焼の技術が伝わり[2]、窖窯(あながま)によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められ、日本独自の陶器産地としての歴史が展開してきた。

素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきたのもその所以である。

江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、幕末には陶器製灯明具の一大産地であった。将軍に献上する新茶の茶壷に使われ、大名にも重宝された。明治期には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまった。その他、神仏器や酒器などの小物陶器や壺、などの大物陶器も生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。
昭和に入り、第二次世界大戦末期には金属不足から陶器製品の需要の高まりとともに、火鉢の全国シェアの80%を占めた。1949年には約300軒の窯元により年間2億円の生産を記録した。しかし1950年代に入ると火鉢が各家庭に行き渡ったこと、さらに1970年代にかけて、高度経済成長による生活水準の向上により、電気や石油暖房器具の開発・普及が進み、生活様式の変貌にともない火鉢の需要は減退に見舞われる。しかし、「なまこ釉」を取り入れた、高級盆栽鉢や観葉鉢を生み出すなど品種転換、生産主力の変更に成功する。
信楽焼について、滋賀県工業技術総合センター信楽窯業技術試験場の川澄一司試験場長は「時代ごとに需要を見きわめ、過去の名にしがみつかない。しぶとさが強みです」と話す。
たとえば江戸時代の信楽は茶壺や神具・仏具で知られた。明治に入ると火鉢が主力に。養蚕の盛んだった時代には「糸取鍋」。駅弁の全盛期には「汽車土瓶」。戦争中は陶製の手投げ弾や地雷も製造している。
現在では、日用陶器のほか建築用タイル、陶板、タヌキやフクロウなどの置物、傘立て、庭園陶器、衛生陶器など、大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残しながら、需要に対応した技術開発が行われ、生活に根ざした陶器が今日も造られている。

Wikipedia 信楽焼:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC

丹波立杭焼(たんばたちくいやき)

兵庫県丹波篠山市今田地区付近で焼かれる陶器。平安時代末期から鎌倉時代が発祥といわれる。主に生活雑器を焼いてきた。

江戸時代には大量生産品としてのすり鉢が堅牢であり、17世紀には、中部、関東以北に急速に普及し、堺産のすり鉢が18世紀中盤以降に普及するまでは東日本で瀬戸と二分するシェアを誇った。
小堀政一(遠州)等の影響により、茶碗、茶入、水指といった茶器の分野においても数多くの銘器を生み、京都や美濃焼に影響され、釉薬を用いた陶器が誕生した。江戸時代後期には篠山藩による保護育成により、世に名を轟かせる陶芸家を輩出した。

備前焼

岡山県備前市周辺を産地とする炻器(炻器)。備前市伊部地区で盛んであることから「伊部焼(いんべやき)」との別名も持つ。

八世紀になると備前市佐山に窯が築かれ始め十二世紀になると伊部地区に窯が本格的に築かれ始め独自の発展へと進んでいった。
鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。

明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。陶陽は重要無形文化財「備前焼」の保持者(いわゆる人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。
第二次世界大戦時には、金属不足のため、備前焼による手榴弾が試作されたこともあるが、実戦投入はされなかった。

Wikipedia 備前焼:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E5%89%8D%E7%84%BC

3.豊臣秀吉の朝鮮出兵以降

有田焼

江戸時代には伊万里津を積み出し港としたことから「伊万里焼」(もしくは肥前焼)と呼ばれていた。
有田焼の祖といわれる李参平は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に肥前国の領主 鍋島直茂により日本に連行された。李参平は、1616年に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされる。1670~80年代には、高い品質の陶磁器が長崎オランダ商館を通じてヨーロッパに大量に輸出されるようになった。有田焼は、江戸時代を通じて国内・国外に広く交易され、佐賀藩の大きな収入源だった。





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