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【みこ仏教】複数の「悟り」が並立する現実を生きることが瞑想だ

 久々に仏教の話題です。

 みこちゃんは、興味の範囲が結構広いので、話があっちこっち行っているように見えるかもしれません。自分でもそう思います(爆)。でも、探究したいことは一つで、瞑想も量子力学も記憶術も全部ひとつのことを探究しているのです。

 ということで、自分でも自分の歩いて行く方向がどっち行くか見当もつかないのですが(苦笑)、記憶術の練習をしながら相変わらず仏教の本も毎日読んでたりします。

 本日は「おおこれはすごいな」と思った本をご紹介します。

 共著者でひとつのきわめて斬新な考え方を提出しています。それぞれ著者は、日本人で日本の大学の学部で西洋哲学、大学院で仏教を勉強した方(自分は研究者でも僧侶でもない、仏教徒ですらないと言い切っています)と、タイのテーラワーダ系仏教僧侶の方となります。

 まず、題名からしてすごいですよね。「悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門」。これがまさに普通の人である、普通の人として生きていきたいみこちゃんにぴったり。

 いやまて!

 悟らなくていいのなら、瞑想修行する意味がないんじゃないか、という声が出てきそうです。ですよね。ここでこの本のウルトラスペシャルすごいところです。話はここで一気に本質的なところに行くのです。

 つまり、究極の悟り、みんなが同じ真理をつかむなんてことはないんだ、という考え方です。

ブラユキ テーラワーダでも、阿羅漢(煩悩を滅尽した修行の完成者)の「悟り」と仏陀の「悟り」は同じものではありませんし。

魚川 ええ。それに、同一の宗派の中においても、修行を積んだ高名の僧侶同士が、「悟り」の内容に関して意見を異にする事態が、現実には存在します。(中略)こういう状態では、話せば話すほど混乱が深まるだけです。

上掲書P36

 瞑想を先生から習う、というのは先生の悟った真理、悟った状態に過ぎませんから、それをやってみたとしても、それが自分の悟りとして有効かどうか分からないということです。そして、しばしば普通の人たちである私たちは、それを、修行が足りないからだ、まだまだだめだ……と考えてしまいます。でも、そうじゃない、そう考えるのはむしろ間違っている。

 修行が足りないのではなく、この記事のタイトルにあるように、悟りの本当の姿とは「複数の「悟り」が並立する現実」(『悟らなくたって、いいじゃないか』P51表題から採りました)なのだとしたら、先生に教わったとおりやって、先生の悟ったように悟っても、それは、先生の悟りであって自分の悟りではない、というものすごく哲学的に深い(これこそ)真理に至らざるを得ません。

 これは、この本が異端であるのでもなく、また、みこちゃんの(お得意の)妄想でもありません。お釈迦様がパーリ語の経典で言っている言葉があります。
 ちなみに、お釈迦様は当時のインテリたちが宗教を語る時に定番で使っていたサンスクリット語(今で言えば、リベラルアーツ語る人がラテン語勉強するようなもんだね)じゃなくて、大事な話をお弟子さんたちにするときには母国語のパーリ語使ってました。
 だから、このパーリ語で書かれている「カーラーマ経」という仏典はお釈迦様の本当の声だと言えるでしょう(あえてちょと乱暴に言ってみた)。

 ラテン語使わずにフランス語で『方法序説』書いたデカルトと同じ。「カーラーマ経」は、内容的にもお釈迦様の方法序説だとみこちゃんは思います。

 カーラーマ経の中に、こんなことが書いてあります。

上掲書P229よりエクセルで作成

 ブラユキさんが分かりやすく、その意味するところを解説してくれています。

ブラユキ ブッダも『カーラーマ経』の中で、「師が言うからとて信じ込むことなかれ」「経典に書いているからとて信じ込むことなかれ」と、教えをうのみにすることを戒め、「とががないか」「不利益や苦しみを招かないかどうか」など、自らよく吟味し、理性的に判断することを促していたよね。

上掲書P57

 つまり、悟りとはその人が悟ったと思ったら、それが悟りだ、ということです。合格証書みたいな悟りはインチキで、お釈迦様はそんなことは言っていない。これが、ブラユキさんの最初の引用のこの言葉です。

ブラユキ テーラワーダでも、阿羅漢(煩悩を滅尽した修行の完成者)の「悟り」と仏陀の「悟り」は同じものではありませんし。

まとめ 「瞑想難民」にならないようにしよう

 ここから分かることとして、正しい瞑想というのを追い求めるのは一見正しそうに見えますが、それは、本当の悟りからどんどん遠ざかっていくことに他ならないということです。

 そのことがよく現れているのが、この本のP94から詳しく書かれている「瞑想することでかえって苦しむ「瞑想難民」問題」です。


動画にする予定です(YouTube用サムネでーす)

 特に日本人は、先生の言ったことが正しい、というエセ宗教で教育を受けてきた人が多いので、瞑想にも先生を過度に求めてしまう傾向があります。そうすると、先生の言ったとおりやってもできなかったので、それは自分が悪い……というところに落ち込みます。

 そして、新しい先生を探す。

 これって、いわゆる自分探しのドツボと同じですよね。

 本当の先生は自分の中にいる。だって、自分が悟る主体なわけですから、自分がオーケー出すのが最終的な解脱にほかなりません。

 でも、この考え方ができない人は残念ながらいっぱいいる。

 最終的に悟ったかどうかは自分で判断すのが正しい。だとすれば(偉い先生の言う)悟りなんて、そして釈迦の言ったことさえ、正しい悟りの合格証書ではないというのが、まさにお釈迦様の言ったことなのでした。

(私と同じようには)「悟らなくたって、いいじゃないか」

 これは、お釈迦様自身の声だと、みこちゃんは確信しています。

 だって……

「はい、そうですね」

 とみこちゃんが、心から笑顔で何の邪心もなく、お釈迦様に胸を張ってそう言えたら、おそらくそのときみこちゃんは、みこちゃんのやり方で悟ったのだと思えるし、お釈迦様も「おめでとう、みこちゃん、それが悟りだよ」とおっしゃると思うからです。

 もちろん、まだ言えません。言えるように頑張ります。これが修行だと思います。

 お釈迦様がキーワードとして要所で使った「方便」という言葉、そのやり方

 これこそが、まさに、複数の「悟り」が並立する現実だと思います。

「悟り」すらも、何かの方便なのだ、これがお釈迦様の言った究極的な真理でしょう。

 その「何か」は、ただ、自分の中にのみある。だ、己(アートマン+ブラフマン)のみがそれをる。これが、みこちゃんが最もしっくりいく考え方です。

 それは、きっと、チルチルミチルの青い鳥なんだと思います。


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