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【みこ宇宙論】「マトリックス」は胡蝶の夢のデカルト化だ

「胡蝶の夢」というのがあります。大好きな話です。あれが物心ついた頃からのみこちゃんの現実世界そのものです。胡蝶の夢の話を知る前から、なぜか世界はそのようなものだと思っていました。

あるとき、思想家の荘そう周しゅう(荘子)は、胡蝶(ちょうちょ)となった夢を見ました。花から花へと飛び回っているのが楽しく、自分が荘周だとはまったく意識していません。ところが、夢から覚めてみると、びっくりすることに荘周なのです。そこで、彼は考え込みました。はて、荘周が夢で胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢の中で荘周になっているのか。荘周と胡蝶とはもちろん別ものではあるけれど、お互いに変化し合えるものなのだなあ……。

コトバンク「胡蝶の夢」

 ちいさいみこちゃんが、この「胡蝶の夢」の世界を生きていることは、ごく親しい人にしか言っていませんでした。もし言ったら「この子は夢と現実の区別がついていない」と怒られそうだったからです。

 いえ、ほんとは違います。そう言われてもしょうがないとは思っていたのですが、そう言われた瞬間、それを言った人が、私なんかのバカな妄想(私にとっては現実だけど)のせいで、この世界の秘密の最も大切な部分を取り逃してしまうように思えて、そう言わせることはとても良くないことなんだ、と子供ながらに思っていたからです。

 長じて哲学を知るようになって、デカルトが同じことを考えていたことを知りました。『省察』で悪霊の話と一緒に読んだので、その時、何らかの直感、脳天を突き抜けるような啓示があったのですが、それが何かは分かりませんでした。でも、その後自分が何にひらめいたのか分かりました。

 それは、「胡蝶の夢」だと、「夢と現実の区別がついていない」というツッコミはあり得るけど、胡蝶の夢をデカルト化すれば、このツッコミは消えるだろうということでした。

 これは、言語化できたのは、自分自身の力ではありませんでした。永井均さんの本に書いてあったからです。このときは飛び上がりそうになりました。

 永井さんはそれを、胡蝶の夢のデカルト化とは書いていなかったのですが、それを「続き物の夢」と表現していました。この本を読んだ時「胡蝶の夢のデカルト化」ということを私は言いたかったんだと長年の課題がやっと解けました。

 かなり面白い部分なので、長めに引用してみましょう。

「それなら、もしずーっと続いている夢だったら、それは現実と同じってことになるのかい。もし、きみが眠るたびに同じ続きものの夢を見ていて、その夢の世界では、きみは翔太じゃなくて、そうだな、例えば異星人の攻撃から地球を護るための防衛軍の司令官だったとしたら、平凡な中学生の翔太の生活なんかより、夢の中のそっちの人生の方が、よっぽど強いリアリティを持ってくるんじゃないかな。だって、もしきみが失敗して負けたら、地球人のみんながひどいことになるんだから。」

「でも、それは夢の中のことでしょ?」

「いや、逆かもしれないよ。地球防衛軍司令官が毎晩眠ると、翔太という名前の中学生が朝起きるところから始まる続きものの夢を見るのかもしれない。どっちがほんとうだか区別はつかないんじゃないかなあ。ということはつまり、現実とは、要するに続き物の夢のことだ、ってことになるんじゃないのかね?」

「だとしたら、現実のぽくたちの記憶力がすごく弱くて、毎日、前の日のことをほとんど忘れてしまうんだけど、続きものの夢の中のぽくは記憶力がよくて、子どものころのことまで覚えているとしたら、夢の方が現実になってしまうっていうことになるよ。」

「そうさ。だから、自分が死ぬまでずーっとつながっている連続ドラマのことを、ぽくらは『現実』って呼んでいるだけなんだよ。」

『翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない』P15

 胡蝶の夢は、昨晩の夢の話のことだけでした。この例え話が、胡蝶の夢なんかとは比べ物にならないほど大きな哲学的問題を含んでいるのは、これが連続化すると、現実と区別がつかない、ということ。さらに、胡蝶の夢では「醒めた」という感覚がまだ痕跡として残っていたわけですが、この地球防衛軍司令官の話のように、夢に途切れがないとして、その夢の中から一回覚醒したとしても、今度は逆に、その持続的存在感の故に、ベッドに置きた自分が幻であるとしか、考えられなくなります。

 胡蝶の夢が、やはり夢なんだ、と思えるのは、それが単発だからです。もしそれが、現実以上に複雑な続き物の夢だったらどうでしょうか。

 ドラマの主人公でもない限り、私たちの日常生活なんて単純です。少し工夫された夢を見る、そしてなおかつそれが続き物の夢だったら、単純な日常生活の毎日の繰り返しの現実のほうが、逆に、ちんけな夢、であると思えるのは不思議じゃないですよね。

 夢が連続化すると、つまり、胡蝶の夢が、デカルトの「世界連続創造説」として夢が現実となってしまうわけです。

 これを映画にしたのが、皆様御存知のこれですね。

 デカルトが悩んでいたのもまさにこれでした。だから、「マトリックス」の脚本アイディアの大元は、これもやはりデカルトだと言えるでしょう。

 もしかして何らかの神が、この上なく明らかであると思われるものにおいてさえ も欺かれるような本性を私に与えることもできたはずだ、ということが私の心に浮 かんだからにほかならない。しかし、神の全能というこの先入の意見が私に生じる たびに、もし神がその気になれば、私が精神の目でこの上なく明証的に直観してい ると思うものにおいてさえも、私を誤らせることは神には容易であると認めざるを えない。

デカルト『省察』より抜粋

 このデカルトの苦悩は、まさにネオのセリフですよね。

ネオはデカルトの生まれ変わりだった(^-^)

 ということは、映画「マトリックス」をもっと100倍楽しむためには、デカルトの『省察』や、永井均さんの『猫のインサイトと翔太の夏休み』や『転校生とブラックジャック』を読んでみるというのが、良いかもしれませんね。
(^~^)

 いずれにしても、デカルトが、理性的な思考の御本尊だ、というのはどうやらそろそろやめにしたほうが良さそうです……。彼はオカルトすれすれの、そして、教科書にさらっと掲載されることが不適当なほどほんとうの意味で偉大な哲学者でした。

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