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「ひきこもる人」、『ひきこもれ』

 勤務先で「ひきこもり」についての本を出す時、複数のタイトル案があった。その中で、「ひきこもる人」というのがあった。私はそれに惹かれた。「ひきこもり」というと、当事者ではない人間が、当事者を困った存在という目でみている、という感じがする。だが「ひきこもる人」には当事者の意志が感じられた。そこにはひきこもることに大きな意味や尊厳すら立ち現れているように感じる。結局本のタイトルとしては「ひきこもり」に落ち着いたのだったが、「ひきこもる人」ということばが頭の中に残った。

 日本には2019年時点で39歳以下のひきこもりの人が54万人、40歳以上の人が61万人いるという。最近はお隣の韓国などでもひきこもりの問題が深刻だと聞くが、もともと日本で顕著な現象だという。これだけの人がひきこもる社会とはなんなのだろう。以前ひきこもりの当事者の記事が新聞に出ていた。その人は一歩も外に出られず、カーテンを閉めきったろうそくだけの灯りの部屋でひきこもっていたころを振り返って、あの豊かで濃密な時間がなければ今のじぶんはなかった、といったことを語っていた。

 「豊かな時間」。ひきこもるというのは、そういう時間なのかもしれない。最近読んだ吉本隆明の『ひきこもれ』はまずタイトルに惹かれた。これはもともと2002年に出版された本で、当時は当事者が自らひきこもりについて語ることがまだ少なく、周りがひきこもりを悪いことととみなして、なんとかそこから無理やりでも引っ張りだす、という社会背景もあった時代に書かれたようだ。もともと「気質的ひきこもり」の吉本さんはそれに反発するところもあったのだろう。「分断されないひとまとまりの時間をもて」と語りかける。自身の子育てでも、このことだけを気をつけたと述べている。特に子どもが女の子2人だったこともあり、「女の子が育っていく時に一番大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということ」をかなり意識して余計気をつけたという。女の子だけでなく女性の永遠の課題といってもいいこのテーマで別の文章が書けそうだが、それは別の機会に譲るとして、ひきこもる=誰にも時間を分断されずに自己の中に潜る、ということの価値は計り知れないものがあるといえるのではないだろうか。

 今、この社会でこれだけ多くの人がひきこもるのも、その生きていく上での欠かせない時間を、日常の生活の中で奪われているからなのだろう。加速度的に増える情報を常にキャッチしていくことが求められる。キャッチした情報をもとに空気を読んで横並びの対応が求められる。情報は命令だと言ったのはドイツの哲学者だったか。彼の時代、彼の生まれ育った場所より、今ここのほうがよほどそのことが現実味を帯びているように感じられる。

 で、ハルである。一人暮らしを始めて大学もオンラインしかなく(しかも夏休みも超長い)、ほぼひきこもりと言っていい状態だ。今はオンラインゲームとか、他者と繋がれてしまうのが残念な点だが、それでも何もない時間を彼がまるまる過ごせてよかったと心のどこかで思っている。これまで(大きな)問題もなく、日本の窮屈な公立の学校でよくがんばってきたものだし、ぽっかりと何もない時間を好き勝手に過ごせることは、たとえ昼夜逆転していようが、よいことなのではないだろうか。つれあいはハルに対して、こんなに時間があるのだから何か目標をもって、とか、バイトしたら、とか車の免許取ったら、とか、たまに言っているが、今は何の目標もなくたっていいのではないか?

 私は、といえば、『ひきこもれ』の女子の分断される時間問題にそうだそうだと思いながら、買い物の途中に30分でも時間があればドトールとかに引きこもって本を読むあの時間が肯定されたようでちょっと嬉しかったりする。無償のケアを担う多くの女性がそうであるように、私の時間も分断されているけれど、せめてその中で小さな分断されない時間を確保することは心の安定のためにも大切なことなのだ。

 今はコミュ力とかがもてはやされる世の中だけれど、ひきこもることは人と関わることと同じくらい価値がある、と思えば、当事者も周りも、つらいひきこもりになる前にもっとみんな『ひきこもれ』!

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