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読書ノート「人生の親戚」大江健三郎を読む

2016.03.13 sun.

かつてはよく読んでいた大江文学をまったく読まなくなりこれから先も読むことはないように思っていたのに、ひょんなことから(フィリピンについて話していたら)この小説を教わって、翌日いった書店の棚にたまたま見つけてしまったからには、もう読むしかない。で、読み始めたら面白くってたまらない。大学生の頃、勧められるままに(自分でも文学少女気取りで)読んでいた大江文学は、人々がいうように「読みにくく」「わかりにくく」、テーマや扱われている事象にも正直関心が薄くて読書体験としては目が紙面を撫でているだけ、だった。

今のタイミングでこれを読むのは、とても良いことのように思う。社会運動と芸術の間に出来がちな溝ーーそれは他国ではむしろ親密なケースもありそうなのに、日本の場合は。。。作家が韓国の詩人が政府から死刑判決を受けたことに対するハンガーストライキの場面から小説が始まる。活動家のビラと募金支援の呼びかけの言葉の中で、詩の美しさについて考えたり語ったりすることが個人的すぎていけないことのように感じてしまう作家である主人公。個人的なことは政治的なこと、社会的なことは個人的なこと、のはずなのに、溝がある現状。

障害のこと、戦争の記憶、広島長崎いまは福島も。人と共同して何かをやること。自分や他人の弱い部分。そんなこんなを経験してる年齢になったからこそ、こんなに面白く読めるんだなぁ〜。

2016.03.14

登場人物に共感して、その痛々しさだとか狡さを、いたたまれなく思いながら読み進む。で、語り部本人は、酷い人物像や事件を傍観している感じでずるいなぁ。。。とも思いながら。

2016.03.16

「人生の親戚」は1989年の作品。フィリピンの劇団が日本ツアーを行うところ。描写にはちょいちょい唸らされるけれど、この当時の集合写真(劇団員たちや受け入れ側の日本人、そしてヒロインetc..)の描写が、まるでfacebookを見るようだ。タグづけされた感覚。それぞれの人の間にある感情や軋みを、まるでなんともないように皆笑顔で収まるあの感じ。

2016.03.17

新興宗教が絡んでくると、突然読む速度が落ちる体感。自分の今に興味ないことなのだな、とハッキリわかるな。大江文学の中心的登場人物には、いつも雛形がある。トリックスター、虚言癖、粘着気質、経済的に不安のない甘やかされて好き勝手言ってるだけの感情的な存在。で、それらに翻弄され付き合わされながら淡々と描写している傍観者たる「わたし」の狡さが浮き彫りになる。醜さ比べといったところで、なかなかに壮観だ。それも、ほぼどの長編でも同じ雛形が繰り返されている。つまりは「物語作家」なのだ。その物語に乗れるか乗れないかは、自分の興味関心存在意識に関わるので、読む自分もまた試されてるってわけ。

2016.03.18

普段通りの子供もいるような家族の学生もいるような社会の場からすぐ性的な暗闇がはじけて、両者を「雑に」行き来するような登場人物たちが跋扈するから、読む側は体力を置いておかないといけない。不意打ちされても動じないように。なぜなら、こちらにだってその暗闇があるのだから。

同時に、大江文学で繰り返される日々のルーティーンやノルマ(村上春樹に受け継がれている)。フランス語の小説を原文で読む>1日あたり1ページ読むのがやっと、というリアリティ。語学の学習のナメクジが辞書を這うような速度のたゆまぬ感覚。それは、時折事故のように訪れる性的な誘惑に添うか躱すか、という反射力ともども、味わい深い日々の明暗だと思う。

2016.04.01

友人宅から帰る途上の車中で読了。軽さと同時に胃の腑に溜まるような重量感。決して他人事にできない、逃げることの許されない感じ。

最初に提示された悲劇があまりにも酷すぎるので、その後波状的に襲った災難が、まるで軽いもののように感じられるし、実際記述もとってつけたようで。。。でも、人生っていうのは、案外そうなのかもしれないとも思う。自分が過去にしたことに仕返しされるようなこともふくめて、身につまされ続けた読書体験。大江健三郎は旅(移動)よりも滞在(かかわり)を描く作家だと思う。

2016.06.17

で、河出書房新社の日本文学全集で読んでいるので、そのあとに「治療塔」が収録されている。なにこれっ!? 「インターステラー」と民俗芸能と維新の記憶と四国の方言が混ざり合っている。そうして政治の季節にあったリンチ。浅い死。地球の強国をフィクション化する小説の試みと、肌にべったりくっつく熱波の中の町歩きのような体感。フィリピンから帰ってきて、日本で読むのに、これ以上の小説はないな、と思う。大江健三郎のSF、やっぱただもんじゃない。ジプニー運転してたようなローロが語る、貧困と階層社会のゾっとするような解決方法の都市伝説。フィリピンよりは高緯度だから引き伸ばされた夕暮れ時に読む。圧倒。

2016.07.01 fri.

大江健三郎の物語世界には、家族が、親族がある。救いとして。友人でも恋人でもなく(そうした他者は、簡単に裏切ったり疎遠になったりする)。私には、そういう存在がないなぁ、と、青い夏空を見上げた。

2016.07.13 wed.

星間旅行から帰ってきた人々のオフィスは、まるで進駐軍だった、という描写。帝国ホテルを借り切って、朝にはヴァイオレットフィズを、夕べにはブルショット(付属のレストランから運ばれる熱々の上質のブイヨンでウォッカを割る熱いカクテル)を飲むエリートたち。ここでは、著者が体験した幼少期の四国の山奥での暮らし、戦中戦後、政治の季節、80年代、といったものがSFのしつらえでリフレインする。聞いたことのない流行歌のようで、幻惑される。ブルショット、飲もうかな。。。

2016.07.14 thu.

若い恋人たち。でも青年は宇宙を旅したことで相対性理論を体現化する。15歳も年長なのに少年のような若さ。対する女性の身体に比して子どもっぽい内面のゆらぎ。それは著者が味わった苦さをインクに託して造形してるんだろうなぁって思うと、とても迫ってくる。じれったさ、嫉妬、気を回しすぎるほどに回すこと。つまりはヒトであること。動物としての交合の甘さ。そして駅の雑踏の描写(物乞い母子が今週は排除されている)に、日本ではなく、最近行ったアジアの都市を彷彿とする。その熱気、湿度、不快感をともなう快感。勾配のきつい跨線橋の階段。。。

2016.07.26 tue.

後半、急にタイトルにある「治療塔」が登場して面食らいながら活劇を眺めているうちに読了した。終わり、は、あまり大事じゃない気がする。テレヴィ、ヴィデオ、進み行き。。。そんな大江文学お決まりの表記が新しい意匠をまとって物語をリフレインしている。歌のように。だから途中を味わうのがいい。続編もあるみたいだから、いずれ読んでみたい。


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