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20代は何かを探してばっかりだったのに、30代は、、、


「せっかく見つけたものを手放したり壊したりして、また新たに作らなくちゃいけないことばっかりだ。」



ほんと、そう。まさにそう思ってたの。

私は今アメリカのカリフォルニア州、所謂ベイエリア、つまりサンフランシスコとかシリコンバレーとか今ホットなスポットが湾を囲っている北カリフォルニアに住んでいます。テックとは何の関係もありません笑

そしてこのあたりに住み始めてかれこれ10年以上が経ってしまいました。

初めてアメリカに来たのは2005年1月、大学留学で。アメリカで大学を卒業して少ししてから日本に戻り、東京・大手町で3年と少し、某大手保険会社でお世話になりました。その後また大学院留学でこちらに戻ってきて以来、ご縁があって?この土地に住んでいます。

その間結婚は2回、離婚1回、出産1度を経験。

なんかね、ここまでやって、現在34歳で、恥ずかしながら、やっと、

初めて、スタートラインに立てた気がしてる

ここまでやって、というのは

留学(心理学部とセクシャリティスタディ修士号=2回)、国際結婚(アフリカンアメリカンと)、離婚(モラハラ)、結婚(日系人と)、出産(男児)、そしてグリーンカード(永住権)を得る、

というところまで(リスト長い)

成人してから、10何年もかけて、

やっとやっと大人になった気がする(遅い笑)。


1度目の結婚をするまで(30歳頃まで)、私はとにかく「女の業」に囚われていて、多分、とても不安定で不安だった。仕事バリバリのお金持ちになりたい、経済的に自立した女でいたい、自分のことは自分でやる女でいたい、それと同時に、自分の男からどうしようもなく愛されたい、そう思っていた。

憧れの人はSex and the Cityのサマンサと山田詠美さんと作家のLiLyさん。



女であるためには常に「男」がいなければならないような気がしてた

私は「私の中の女」「愛されたい、と叫んでいる女」に突き動かされて、結構たくさんの男と関係してきた。それは時に恋愛でもあったし、依存しあいの関係だったり、寝るだけの関係だったり。なんとなくいつも満たされていなかった。

そして私は、そんな風に「弱い」私を隠そうとしていた。強がっていた。

どんな関係であっても、寝る関係の男がいないとダメだった。そんな自分の「弱さ」をフェミニズムの先進的な形であると、たくさん男がいるけれど誰にも頼り切っていない自分は自立した女の象徴であると、文学的だと正当化して強がっていた。

「アメリカかぶれの黒人好き」である自分を外側から冷静にみられるようになったのは、10年間もくっついたり離れたりを繰り返した黒人男性と結婚して離婚して、日本人(日系人の今の夫)とお付き合いを始めてからだった。

一度は黒人男性と国際結婚ができた、ということで憑き物が取れたように楽になった。

20代の頃はTO-DOリストにチェックを入れていくことに必死だったんだ。

2005年、初めてアメリカという土地に足を踏み入れた時、私は

「アメリカ人になりたい。もう日本には帰らない。私は自由に生きる。そして、黒人男性と愛し合って家庭を築くんだ」

そう、思っていた。

あの頃はブラックカルチャーに夢中で、ヒップホップが大好きだった。見る映画は、黒人映画ばかりだった。化粧も服も派手にして、男の気を引けるようにしていた。日本人の男などアリエナイ、日本はダサい、と今ならそのアナタのアティチュードがダサいよ、と言えるのにw当時は、「アメリカっぽい自分、カッコイイ。しかも”白人社会(メインストリーム)”じゃなく、アウトローなほう(黒人社会)に行く自分、すごい」と思っていた(恥)。


人種にまつわる社会問題を扱うスパイク・リー作品が大好きだった。黒人を取り巻く社会問題に共感しては白人社会に怒ってみたりして、大学院ではブラックカルチャーや人種問題を絡めて差別や生きづらさの社会学的研究をしたのだけれど、私こそが黒人のステレオタイプに囚われたレイシスト(人種差別者)だったのかもしれないな、と振り返って思ったりする。

でも、当時は自分も黒人の男と共に生きているのだから、黒人寄りの考え方で、黒人コミュニティの一員であると真剣に思っていたのだ。

それが今では、もう黒人男性に何の興味もなく、ブラックミュージックもほとんど聴かない。流行りの音楽もわからない。聴いたとしてもたまに90年代のヒップホップR&Bくらい。今でもTupacは好きだし、ブラックミュージック好きだった頃に聴いていた曲が流れるとつい踊ってしまうけれど、今、私の日々の生活はあれだけ嫌った「日本」で溢れている。

(それこそが、「黒人」という記号で彼らを見ていた証かもしれない)

家庭内で、夫との会話は日本語、赤ちゃん(生後2か月)に話しかけるのも日本語、赤ちゃんが産まれて、妊娠を機に仕事を辞めている私、ドウシヨウ、ハヤクナカマヲツクラナケレバ、、、と情報を求め参加している地域のソーシャルグループは日本人の集まり、テレビも日本のテレビを見られる環境を整えたのでほぼ日本のものを見ている。

食事だって日本食メインだし、買い物に行くのは日系スーパーだし、アメリカに住んでいるけれど「日本」で溢れている。

20代、どうしようもなく不安で、愛されたくて「”何か”を探してばかりだった」。

自分の居場所を探してた。

永遠の愛が見つからないのは、日本人男児と私は合わないからか、居心地が悪いのは、居場所が見つからないのはここが日本だからか、窮屈なルールがあるからなのか、、、アメリカは自由なんでしょ?いいな、私も行ってみたい。ヒップホップ、反骨精神、のし上がってやる、正義の音楽か、かっこいいな。ブラックカルチャーはなんて強くてたくましい。激しくって、セクシーだ。

そして私はブラックの男たちの中に、居場所をつくろうとした。「女」の武器を使って私は、彼らの中に入り込んだ。「女」の私を、彼らはもちろん受け入れた。居させてもらった。でも、英語が話せるようになっても、そこには常に何か一線があった。

そんな風に、「黒人の男と結婚してアメリカ人になりたい」という気持ちでスタートした私の「黒人男性じゃないとダメなの」という性癖の結果結婚した黒人男との結婚は本当に散々だった。

今思えば当たり前で、ぐちゃぐちゃになったのは私のせいでもあった。私は居場所を探してた。愛を求めていた。あれは本当の愛ではなかった。私は彼を愛していなかった。彼に、私を愛せよ、と求めていただけだった。彼を自分の居場所をつくるために利用した。愛されたかったのだ。

でも私は、それを愛と勘違いしていた。そして執着し合った相手を運命のヒトだと思い込んだ。

生きづらくて居場所を探す私は当然ひとの心理に興味があり、「アメリカで心理学をやりたい」と願い、なかなか生きづらさが解消されない中でたくさんのセックスと出会い、ひとにとってセックスってなんなんだろうと興味が湧き「アメリカの大学院でセクシャリティを学び」、ブラックの男と結婚したいと願った私はその通り結婚し、自らが「経済的には男に頼らないリッチで先進的な女でいながらも、男からめちゃくちゃに愛されたい」と願っていたことも忘れて「めちゃくちゃに、クレイジーなほど私を愛してくれる(あれは執着で共依存だった)私の夫となったブラックの男を養う女」と、願った通りになった自分の状況になぜ私が男を養わねばならないのかと日々文句を言い、

どうして私はしあわせになれないんだろう、と思っていた。

振り返れば、望んだことはすべて手に入っているのに

私はしあわせではなかった。

あれだけアメリカに住みたいと思っていたのに、その夢が10数年越しで叶ったというのに、私は今、日本が恋しくてたまらない笑

20代で探していたものは、物理的には今、すべて手に入っている。それでもしあわせを感じなかったのは、本当はもとめていたものが学位でも永住権でも黒人男性でもなかったからだ。

不安定なこころがどうしようもなく求めたのは、居場所と愛だった。

それだけだった。

ここまでやってきて、私がどうしようもなく欲しかったのは

ここに居ていいんだよ、という所属感と安心感と愛だった。

私が欲しかったのは友愛・親愛、笑顔になれる愛。ほっこりする愛。お互い思いやりをもって微笑みあいながら助け合う愛。

それがどこにあって、どうやったら得られるのかわからなくって、留学したり、また学校に戻ったり、結婚してみたり離婚してみたり、アメリカに居着こうとしてみたりしたのだ。

私の20代は愛を探して海を越え、山を越え、うろうろさまよった10年だった

離婚してから、自分のことをしっかり振り返り、こころが落ち着き始めたころ、探し物はもうここにあったんだね、、、とパウロ・コエーリョのアルケミストまたはサン・テグジュペリの星の王子様のごとく、悟った笑

私が欲しかったものは、怖がらずに目を開けば、いつもそこにあったのだ

30代になり、やっと「女の業(カルマ)」から解放された。

つまり

モテなければならない、

愛されなければならない、

結婚せねばならない、

子どもを産まねばならない、

この4点。とりあえず「クリア」できた、これら「女に課されたタスク」。ひとまず「クリア」せねば楽になることができなかった私は社会のジェンダーに、ステレオタイプにとても囚われている。先進的でありたいと強く願ったのも、その分自分がかなり保守的であることを薄々感じていたからかもしれない。

だからこそ大学院まで行ってジェンダー、セクシュアリティについて2年間研究してみたけれど、やっぱり「課されたタスクをクリア」しなければ、今も「女のカルマ」にきっと囚われて「もう35歳になるのに、結婚もできない、子どもも産めないかもしれない」と焦っていたと思う。

情けないけれど、きっとそうだ。

しかし自分で設定した「夢」を「叶えた」にも関わらず、それは本当に欲しかったものではないことにも気がついている。

私が本当にやりたいことは、書くことだった。

でも、それで稼げるようになるのか、認められるようになるのか、挑戦するのが怖かったから学術に逃げてみたり、海外に逃げてみたり、全然関係ない違う仕事に就いてみたり(どれも楽しかったけど)してきた。

それでもやっぱり書きたいという気持ちが消えたことは一度も無かった。

やさしい世界をつくりたい。

ひとりの時間に読んで、ざわついたこころが落ち着くものを、

少しだけ、その時だけでも不安なこころにほっと安心を、

そうそう、そうなんだよね、と共感できるものを、

書きたいです。


「20代は”何か”を探してばかりだったのに、30代はせっかく見つけたものを手放したり壊したりして、また新たに作らなくちゃいけないことばっかりだ。」


書く仕事がしたいです。


書きたい・書けるテーマの一例:女の生き方、海外生活、アメリカ、結婚、離婚、出産、子育て、ジェンダー、セクシャリティ、心理学、モラハラ、共依存、自己愛、こころの自立、国際結婚・離婚、母娘問題、家族問題、人種、民族、文化の違い


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