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こちら側で、無力なままに

震災で、今でも忘れられないことがあります。

あの日、神谷町で地震が起こり、携帯電話もつながらず、帰宅難民となりました。

徒歩で帰宅途中に、どこからか「千葉でガスタンクの爆発が起こってこれから汚染された雨が降ってくる」という噂を話している人がいて、人生の終わりを覚悟しました。

食べるものもなく、水も消えて、外に出ると被曝するという噂も流れ、コロナすら比じゃないほどの「死の町」がそこにありました。


次の日もテレビを見ると頭がおかしくなりそうで、それでも消すことも出来ずただじっと部屋の中で過ごし、2日後の3月13日、原発がどうなるか、日本がどうなるかもわからないまま、インターンの研修のため、ソウルに旅立ちました。

計画停電で成田空港は真っ暗なのに、日本を脱出する外国人で溢れていた事を覚えています。キャビンアテンダントさんがプロとして笑顔で迎えてくれて、どれほど安心したことか。


ソウルでは新羅ホテルという最高級ホテルに泊めてもらい、明洞に行けば人でごった返していて、バーでお酒を飲んでいると、まるで何事もなかったように過ごすことが出来て。

でもテレビをつければ「外国」のニュースとして、気仙沼の火災や三陸の津波の映像が流れてくる。おかしくなりそうでした。


ソウルについて2日目のことだったと思います。朝食の席で、隣の席に座った日本人のおば様方が「良かったわね、日本にいなくて。こんなふうにゆっくりご飯も食べられないし」と言ったのを聞いてしまいました。

今でもなんであんなに腹が立ったのかわかりません。普通の感想といえば普通の感想です。でも、ものすごく腹が立った。

それはきっと、自分に腹が立っていたんです。日本がどうなるかわからなくて、なにかしようと思っても、何も出来ない。そして外国にいる。自分の無力さに腹が立っていて、だから怒るしかなかった。

それは自分に対する怒りだったのかもしれません。


だから、暗雲立ち込める(本当に、曇ってました)日本海を越えて、何が起こっているのかわからない日本に帰るときに「引き受けて、生きよう」と思って返ってきました。

「あちら側」にいれば、世界を切り離して生きることが出来る。「こちら側」では、色んなものを引き受けて、関わって生きていかなくちゃいけない。

そして、色んなものを引き受けて生きる方を選びました。


あの日、沢山の人が「こんなときだから出来ることを」と言っていました、でも、出来ることなんてなかった。

津波が飲み込んだものはあまりに大きく、我々はあまりに弱くて、ただ生きるくらいの選択肢しかなかったのです。

そうして生き残ったこの世界の中で、私はあの日の無力感みたいなものをやわらげようと必死に戦っています。


震災当時、私と同じくらいの年代だった人たちの中には、多かれ少なかれそういったぽっかり浮かんだ無力感みたいなものが、横たわっているんじゃないかな、と思っています。(「国なんて関係ねえ!」と言って生きてる人もいるけど)

震災の影みたいなものは永遠に消えないのかもしれません。きっと、いま大学生くらいの人たちからはコロナの影も消えないのでしょう。

大切な人を亡くされた、たくさんの被災者がいる。私は被災者では有りません。

でも、だからといって震災と無関係なわけではない。いったい自分に何が出来たのだろう、という問いかけと、どうせ自分に何も出来ないという無力感は、2011年3月11日からずっと私から消えることはありません。


我々は一つ一つ、そういう影を背負って生きていきます。あの日の記憶は薄れて、日が落ちても、影は消えません。

励みになります!これからも頑張ります。