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自分を檻に閉じ込めているのは、自分自身だった。

先日、会社の先輩との1on1セッションがあった。

先輩「なにがやりたいの?」
私「やりたいこと…うーん…」

うまく答えられなかった。ある気がするのだけど、それがうまく言葉で捉えられないような感覚だった。

先輩「『ないです』と言ってもいいんだよ? でも、『ない』と言えないってことは、ないことはダメなことだと思ってない?」

いや、あるんだ。あるはずだ。いまは言えないだけで。反発する言葉が思い浮かんだ。でも同時に、「ない」ことが、自分の中で不安や恐怖と一緒にある言葉なのだと気がついた。「ある」ことが素晴らしいことだ。「ある」人が輝かしい人生を歩む。「ある」ことが、普通である。だから、「ない」自分が認められない。「ない」と生きている意味がない。だから、無理やり繕うとしているのかもしれない。

でも「やりたい」ってどういうことだ。なにを聞かれているのだ。ぼくは、どういう感情や思いを「やりたい」と言う言葉に当てはまるのかを聞いた。

私「『やりたい』というのはどういう…その、やることの抽象度というか…どのレベル感で…」

うまく質問にできなかった。

先輩「例えばだけど、『カレー食べたい』も『世界を救いたい』でもいい。今はこれがしたくて、明日これをしたいでもいい。」

私「『カレーを食べたい』はなんだか、単発的というか、動物的というか…。毎日変わるのはなんだか、一貫性がない気がします。それに『世界を救いたい』のような長期的なものの方がいいというか…」

先輩「『カレー食べたい』も『世界を救いたい』も同列だ。その人のwant toだ。やりたいことを聞かれたとき、どう思われるか、"やりたい"はこうあるべき、に囚われてない?」

そうだ。ぼくは無意識のうちに「やりたいこと」を考えている過程で、いろんな縛りをもっていたことに気がついた。
「やりたい」とは他者に貢献すべきものだとか、
「やりたい」ことはずっと一貫しているべきだとか、
「やりたい」は長期的なものでないといけないとか、
「やりたい」はかっこいいと思われるものでないといけないだとか、
この場では、なにを「やりたい」というと良いのか、

そういう思考が働いていることに気がついた。

ぼくの思考の立脚点は「まわり」にあることが多い。まわりの求めるものに答えようとする。自分がどうあるべきかは、まわりの評価に依存していた。
それが、ぼくの生存戦略だった。ここまで生きてきた中で身につけた人生の攻略法だった。
だから「やりたいこと」には、周りから見てどうかとか、世の中の正解から見てどうかという縛りがあった。
だから、心の奥にあるかもしれない思いを、明確にしない方がストレスがなくて、言葉にしない方が生きやすかったのかもしれない。

自分自身を動けなくしているのは、自分自身の言葉であり、自分自身の思考だった。

対話の中で、自分自身が輪郭を帯びてきた。ぼくは「やりたい」を言葉にしたいと思った。大げさだけど、他者に依存するのではなく、自分の人生を自分で歩みたいと思った。自分が良いと思ったものを選び取りたいと思った。

先輩がアドバイスをくれた。

先輩「朝起きて直感的に思いついた『やりたい』を言葉にしてみる。なーんでもいい。これはやっぱり違うな、これはほんとうにやりたいことだ…と『やりたい』に気がついていく。
それに、行動していることは無意識に『やりたい』と思っていることだ。だから、そこに意識を向けて言語化してみると見えてくるものもある。」

やりたいことは、自分の言葉で表現してもいいものなのだ。誰に何を言われても、自分はそう思うでいいんだ。変わったって、くだらないものだって、いいんだ。ぼくがしたいことは、ぼくのものである。とやかく言われる筋合いはない。正解だってない。だから、もっと声に出して、言葉にしよう。なかったら、ないと認めて、そこからはじめよう。

先輩との話の後、この思考の過程をnoteを書きたいと思った。文章が下手くそで、笑われても、まあいいかと思えた。それに、取り繕っても、自分自身は大したものでもない。
そんなことよりも、前に進みたいと思った。外に出して、出して、書いて、書いて、もっと自分を知り、他者を知り、一歩外に踏み出して、新しい世界を見たいと思った。
だから、一気にこれを書いている。


いまは、すっきりとした気持ちだ。あしたも、がんばろう。

***

というわけで、
週に1回 #やりたいこと #できること noteを始めようと思う。
些細なことでも、大きなことでも。まずは、言葉にしていこうと思う。


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