一生懸命やってるかどうかを決めるのは自分だ。
私は昔からの悩みがある。
『一生懸命に物事に取り組んでいるのに、そう見られないこと』だ。
小さい頃からのエピソードを挙げると、
小学生の頃、先生から『あなたは一生懸命取り組んでいないから体育の評価はBにしました。またリレーの選手から外しました。』
中学生の時も、野球部の顧問から『歯をくいしばってやれ。やる気ないならノックから出て良いよ。』
高校の時、部活の先輩から『あいつは手を抜いているよな。』
大学の研究室の教授から『もっと熱中しないと結果なんて出ないよ』
といったことを散々言われてきた。
確かに私は小さい頃から、感情を表に出すのが苦手で誤解されやすい。一生懸命に見えないと言われるのも、分かる気がする。
ただ本当に手を抜いてやっているかと言えば、『決して』そうではない。その証拠になるか分からないけど、リレーの選手から外されたときも、野球でレギュラーから外されたときも、一人になったとき自然と涙がこぼれ落ちた。
適当にやっている人が、涙なんて出るのか!と思いつつも、やっぱり一人で泣いていて、人に見せているわけではない。
仕事でも同じ悩みに直面した。周囲の社員は疲れて見せるのが上手かった。上司の見えないところで、サボっては、サボってた割には、すっかり疲れたように上司と接する。一方、私はサボることが嫌いだったから、上司の見えないとこでも出来るだけ早めに仕事が完了するよう頑張った。
実際、私の仕事は比較的早く終わる。一方、サボってた社員は仕事が終わらず疲弊した顔をしている。それを見た上司が、『早く終わったんだったら、助けてあげなよー、かわいそうじゃん。』と言う。結局私は、『いつも簡単な仕事をして早く終わるのに、他人を助けてあげない楽する冷たい人』という扱いになる。
この点、本当に悩んだ。
ちゃんと見てくれている上司もいるけど、大半は忙しいとか、部下に興味が無いとかでそんなことには気付いてくれる上司は少ない。
だったら自分も、疲れたフリでもしようか!と思ったりもする。でもそれはプライドが許さない。そんなことを始めたら自分が自分のことを間違えなく嫌いになる。
話は戻るが、そもそも一生懸命やっているかどうかなんて、他人が決めることじゃないだろう。自分が一生懸命やっていれば、それは一生懸命やっているんだ。
一生懸命やってないで楽してるように見えたとしても、一生懸命やっている人だっている。
そんな主観で人を判断しないでほしい。
日々悩んでいた私だが、唯一しっくり来た言葉がある。これは大学院の時、教授から言われたことだ。
『結果を改竄することは絶対にしちゃだめ。だけど、今ある結果を良く見せるようにする努力は最大限にすべきだ。』
これは実験結果に対しての言葉だが、あらゆることに対しても言えると思う。
一生懸命やってましたと偽るのは論外だが、一生懸命やって出た成果は、頑張りましたアピールとはいかなくても、他人に良く見えるようにする努力はしないといけない。
とても私にとっては難しいことだけど、今後も、『一生懸命』魅せる努力をしていきたい。
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