「役割の仮面」の忘却――『「聴く」ことの力』

“まなざしをデザインする”とはどういうことだろうか。

ランドスケープデザイナー、俳優、大学教員などさまざまな肩書で活動しているハナムラチカヒロさんは、それを活動のテーマとしている一人である。

「まなざしのデザイン」(design of perspective)、あるいは「風景異化」(foreignization of landscape)。一冊の本と、彼のとある作品を手掛かりに、その深層の一端を探ってみたい。

見えないものをみえるようにすること

場所に対して固定化された心の状態が変化すれば、そこに人が向けるまなざし(perspective)も変わり、そこに場所と自分との新しい関係性=風景(landscape)が生まれる。そんな彼の考えは、次のような言葉に象徴されている。

見ていないものを見えるようにすること。
風景の半分は「想像力」でできているんです。

彼の代表的な試みに、「霧はれて光きたる春」と題されたインスタレーションがある。病院の病棟に取り囲まれた吹き抜け空間に、霧やシャボン玉や雪で幻想的な風景を創り出した作品だ。

クライマックスのシーンでは、吹き抜け空間で織り成される霧とシャボン玉と雪の舞を、医師や看護師、患者らが、老若男女入り混じり、ただ一緒に同じような面持ちで眺めている。印象的な光景だ。

患者として孤独でつらい入院生活を送らねばならないことや、医療従事者として日々厳しい現状と向き合わねばならない中だからこそ、それをひとときだけ忘れて役割の仮面を脱ぎ捨てる時間。

全員が仮面を外した“わたし”として何かの大きな出来事を共にして笑ったり、泣いたり、話したりする体験を持つ事は、きっと闘病生活や院内業務にとって何かの意味をもたらすはずだと信じています。

病から癒えるいうことは、決して身体を治療する事だけを指すのではないのだと思います。

(出典:READY FOR?

アート作品としてのこのインスタレーションは、医師や看護師、患者といった、病院内での「役割の仮面を脱ぎ捨てる」契機を創り出したのだ。

「役割の仮面」越しのコミュニケーション

医師や看護師、患者(とその家族)といった立場や役割が様々な現象の中に立ち現れてくる。そんな病院という空間の特殊性を明瞭に描写している文章が、臨床哲学者・鷲田清一さんの『「聴く」ことの力』(筑摩書房)の中にある。

人生の幸福と不幸がたえず裏がえる場所、そして患者の日常と治療・看護する側との日常が裏がえしになっている場所、そういう転換の起こる面が臨床の場所であるとすると、看護という職務にあたるひとはそういう場所にこそいつも立っている。日常と非日常が反転するその蝶番の場所にいつもいる。そういう場所は職業として割り切れない場所である。

 職業人になりきったら職業をまっとうできないという矛盾、顔を持ったひとりの人間としてほかの人に接する職業という、そういう深い矛盾をはらんだ仕事である。

他人の世話をするという仕事の上でのしんどさをそのまま個人生活に持ち越さずにはいない仕事である。

〈わたし〉という医師や看護師と〈わたし〉という患者という、いわば個の〈わたし〉同士で交わされることもあれば、医師や看護師としての〈わたし〉と患者としての〈わたし〉という、いわば「役割の仮面」越しで交わされることもある。それが、病院空間におけるコミュニケーションだという。

人々の生活スタイルや健康の在り方が複雑化・多様化し、それと共に病院が機能的に高度化・専門化してゆく中で、その比重は、ますます「役割の仮面」越しのコミュニケーションに傾きつつあるのかもしれない。

「役割の仮面」を脱ぎ捨てる

このような文脈において、〈わたし〉としての個の表情を皆にひとときだけ取り戻させる『霧はれて光きたる春』の意義はいったいどういう点にあるだろうか。素直に考えれば、まさしく「役割の仮面」を脱ぎ捨てさせることによって、共時的な安らぎの共有を演出することであるように思われる。

しかし、ひとつ立ち止まって考えたいことがある。(一時的に忘却することはさておき)仮に「役割の仮面」を完全に棄却するような試みがあるとしたら、果たしてそれは病院空間におけるコミュニケーションにとって有意義なことなのだろうかということだ。

医療をほどこす側の人々が置かれた環境、特に医師や看護師の勤務環境が非常にハードであることはよく知られている。古いデータだが、厚生労働省の報告(2005年)によれば、常勤医師一人1週間当たりの勤務時間の平均は66.4時間。労働基準法上の基本勤務時間(一週40時間)を考えれば、相当な時間外勤務を強いられていることになる。

また先の同書の中で鷲田さんは、こうした身体的に過酷な労働環境とは別に次のようなことも指摘している。

…看護という職務にあたるひとが疲弊しているのは、仕事がハードだということももちろんあるが、それよりも、ふつうのひとにはごくたまにしか訪れないような感情のはげしいぶれが、一日のあいだになんども訪れるからだろう。

ひとの死、ひとの誕生。入院のショックと退院の歓び。

ひとつの感情に浸っているさなかに、それとは反対の感情へと大きく揺り戻される。頭にきていたかと思うと、つぎの瞬間涙をいっぱい溜めている。

そういう「存在のぶれ」に揺さぶられているうちに、ぷつんと糸が切れてしまうのだろうとおもう。

常に個の〈わたし〉としてケアに関わり続けようとすれば、尋常ではない「感情のぶれ」に自分自身が翻弄され、疲弊せざるを得ない。これは、臨床という場に関わる人たちの宿命なのかもしれない。

鷲田さんは続けて、ケアする側の人間がそういった疲弊を免れるために取りうる姿勢を次のように指摘する。

そのような燃えつきにはまらないようにするには、どうしてもケアの対象とのあいだに距たりが必要となる。
対象と一体化するのではなく、「切るべきところは切る」という距離感覚が必要となる。

先の話と総合すれば、「対象と一体化する」とは、個の〈わたし〉としてケアに臨むことを、「距離感覚」とは、ケアの現場における「役割の仮面」越しのコミュニケーションのことを言っていると考えてよいだろう。

こうなってくると、ケアする側の人間の疲弊という問題を考えれば、「役割の仮面」は、一時的に忘却されこそすれ、完全に棄却されてはならないものだとわかる。

役割越しのコミュニケーションが完全に消失した、専ら個の〈わたし〉同士のコミュニケーション。少なくとも相当規模の病院空間について考える限り、そこに実はむしろ安らぎは見いだせない。それはすなわち、ケアする側を疲弊させるだけのものになってしまうのである。

「束の間の忘却」がもたらしたもの

このように辿ってくると、『霧はれて光きたる春』が、医師や看護師、患者らに「役割の仮面」を束の間忘却させたことの意味を、単なる安らぎの共有にとどめるのは不十分だろう。

この作品において、刹那的な「役割の仮面」の忘却とそれによる安らぎはあくまでも過程なのである。むしろ日常の中にある「役割」への意識を逆に向上させることにこそ、その着地点があるように思われる。

この作品がその場にもたらすものの真髄は、日常の役割を忘れさせ、皆が互いに個の〈わたし〉を垣間見合えるような瞬間=非日常を生み出すことそれ自体よりも、もう一歩先にある。

それまでの日常で目にすることのなかった様々な個の〈わたし〉を見た、というその非日常的な経験が記憶として定着すること。

そして、それ以降の日常における「役割」越しのコミュニケーションが、それまでよりも体温を伴ったもの―ハナムラさん自身の言葉を借りれば「日常を強化する非日常の祭り」―になることだったのではないだろうか。

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