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人間の最後を見た

どうもただの学生、夏月です。

先日、身内で不幸が起こり臨時で実家に帰省しておりました。
現在は一人暮らしをしている部屋に戻ってきており、新学期に向けてのんびりしております。

さて、この度初めてしっかりとお通夜からお葬式、そして火葬まで参加してきました。
ここまでしっかり参加するのは実に10年以上ぶりであり、新鮮ではありました。
幼きころはただ泣くことしかできず、あれよあれよとすべてが終わっていたときと比べ、微力ながらたくさん手伝いをしてきました。
最年少だから頼りにはならないけれど、最年少だからこそ機敏に動かなければと思い、ずっとうろちょろしていましたね。

あっという間に終わり、住居に戻ったところ、あまり体の調子がよろしくないことが発覚しました。
おそらくストレスでしょう。
目があまり見えないこと、そして立ち眩みがひどいこと。この2点を除けば、なんらほかの人と変わりません。ただこの2つが違うだけで、外で意識を失うリスクが格段に増えていること、それだけが不安要素であります。

これらの原因は帰省のストレスであることもわかっています。

2年近く会っていない人が亡くなった。
ただそれだけでここまで影響がでるものなのかと後になって驚いております。
もう目も開かない亡骸を最初見たとき、「ああ、これは泣いてしまう」と思いました。代わり替わり人が訪れてくれて、その人の話を聞くと泣いてしまう。そう思い、その場から逃げました。
泣くことは恥ずかしいことであると、そう感じてしまったのです。

結局涙を流したのは、最後の最後でした。
私たち兄妹にとって、おばあちゃんの存在というものはやはり大きく、
たとえどれだけ離れていようとも、それまで積み重ねてきた何かがあったのでしょう。
あの場において、名字の違う私たちは場違いでなくとも、浮いた存在でした。だからこそ、その場にいなくてもできる手伝いばかりしていました。

人が一人亡くなり、
それでも前に進まねばならず。
ただただ頭を働かせ、足を動かす。
すべてが終わった後に出た言葉は、
「始まってしまえば、終わるのだ」でした。

生まれ、死ぬ。
人の一生が始まり、終わると同時に、
残された者のあまりにも忙しい数日間が始まる。
しかしそれもいつか終わる。

そう感じていた1週間でした。


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