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わたし。中学編。

じぶんがどんな人間なのか綴ってみよう、というところから始まり、前回の幼少期編。から、すこし成長した中学編。を綴っていきます。振り返ってみると、狭い世界で生きていたな、と思ったのでした。そして、なんだか、思い出せないことが多かった。明確だった感情と、ぼやけてしかない事柄との差が凄かった。
まあまあ、とりあえず、幼少期編。から読んでやるか、というかたは、こちらからよろしくどうぞです!

※中学時代が多感すぎて、長すぎますが、よろしくお願いいたします。

前回のnoteの後半で、中学受験をし、女子校に入ったところまで綴った。
そもそも、受験はしたくなかった。小学校の途中で、不登校になりかけはしたが、6年生のときはそこそこ楽しかったし、雄大くんとか(すきだった男の子)、みんなと同じ中学に行きたかった。
でも、受験しておいてよかった。今だからそう思えるのかもしれない。いや、どうかな。良かったところとそうじゃなかったところがあるかもしれない。

ここから本当に長いので、お時間のある方はぜひ、、、

姉が同じ学校にいた。中高一貫の女子校なので、わたしが中学で、姉は高校生だった。6年間同じところに通ったのでした。小学生の頃、散々塾に通って勉強していた姉と、まったく勉強しなかったわたしが同じ学校にいることが不思議だったけれど、姉は特進クラスだった。ギャルみたいなこともやっていたのに、やはり、ポテンシャルが違った。遊んでいるように見えたのに、やるときはやっていたらしく、もしかしたら姉のお陰で入学できたのではないか、と考えたりもした。
最初の頃、登下校は一緒にしてくれていた。姉の周りのギャルみたいなひとたちが、かっこよく見えていた。気づいた頃には、別々に通学していた。

通っていた学校は入って早々に、オリエンテーション合宿があったり、新入生歓迎会での部活へのお誘いがあったり。いつの間にか、そこそこ仲の良い友人がいたりした気がするのだけれど、誰と仲が良かったのかは、残念ながら思い出せない。
思い出せることは、部活に入ったこと。
これが後々大変なことになっていく。良くも悪くも。

同じクラスに、ちょっと発達障害?っぽいこがいて、いつもいじられていた。仮名を、ぴーちゃん、としよう。
当時は発達障害のこととか、みんなとちょっと違うことをしてしまう人のことが、全然わからなかった。だから、たしか、オリエンテーション合宿のときに、ひどいことをしてしまった気がするのだけれど、何も思い出せない。思い出せない理由もわからないのだけれど、本当に、まったく。ぴーちゃん、ごめんね。

(このときの罪を中3で償うことに。)

部活は吹奏楽部。これが、本当にすごくて。何がすごいかと言うと、めちゃくちゃ厳しくて、スーパー縦社会。先生、先輩の言うことは絶対。
先輩に、無駄なものを持たせてはならない、敬語必須、手を降ってはいけない(バイバイ禁止)。
制服の着こなしも、髪型も、持ち物も、他の生徒の模範にならなければならなかったので、鞄の持ち方や、髪型も決まっていた。もちろん、学校で禁止されているので、携帯電話も持っていくことは許されていなかった。
全国大会の常連校なので、それほど厳しくて当たり前だと思っていたし、派手な人間ではないので、制服の着こなしや、髪型、身なりのことに関しては、不満はなかった。

ほぼ休みがなく毎日練習があったし、休むことが簡単ではなかった。たぶん中1のときは、怒られるのがこわくて必死だった。からだが出来上がっていないのに、重い楽器を持っていたので、ヘルニアになりかけた。ひとりで通院をしていた。痛み止めを飲みながら過ごした。 母はなんで来てくれなかったんだっけなぁ。
この頃から、薬を飲み過ぎたりしていて、顔色が悪いときもあった。
優しかった先輩がいた。その先輩のことがだいすきだった。尊敬していたけれど、周りはそうじゃなかったから、なんだか悲しかった。

夏休みの直前、テスト期間が終わってから、家族でハワイに行った。おばあちゃんも一緒だったから嬉しかった。でも、学校も、部活もお休みした。お休みするのが、ちょっとだけいやだった。どうして、このタイミングでハワイに行ったのかは今もわからない。
そのときは、パパにはもう会えなくなっていたし、いまの父親が一緒にハワイに来ていた。

当時は音楽をMDで聴いていて、CHEMISTRYにはまっていた。ハワイの夜、CHEMISTRYを聴きながら泣いた。部活を休んでいることがいやだったし、日本とハワイが遠く離れていることで、なぜかホームシックになった。あと、なんかよくわからないけれど、地球ってすごいって思うと、こわかった。

そういえば、幼稚園の頃から、夜になると、なにかわからないけれど、こわくてしかたがないときがあった。
あるときは、照明の3段階あるうちの、オレンジの電気がこわかった。それは、今でも少しある。
あるときは、地震がくることがめちゃくちゃこわかった。大きな地震にあったこともないのに、きたらどうしよう、ってずっと考えて泣いたこともあった。これ、小学生のときもずっとそうだった。
ハワイの夜も、似たようなものだった。
ハワイにきてまで、母といまの父親は喧嘩していた。すごくいやだった。母はおばあちゃんにもすぐ怒っていて、そういうのもいやだった。楽しかったっけなあ、という記憶のハワイだった。

帰国したらもう夏休みだった。部活は毎日あった。地獄だった。でも、できることが増えていって楽しかった。相変わらず先輩はこわかったけれど、それよりも充実感があった。
部活のために暮らしていた。部活のこと以外は、思い出せないくらいに、部活が命だった。
家がどんな状況だったかは、わからないけれど、いつの間にか、いまの父親は一緒に暮らしていた。
なのに、おばあちゃんと、いまの父親が不仲だった。
いまの父親は、学校への送り迎えとかもしてくれていたし、わたしたちこどもには優しかった。実の父親でもないのに、かわいがっていてくれた。

ヘルニアになりかけの腰がしんどくて、通院を繰り返していた。学校には遅刻していくことが多くなった。早めに帰る、という選択肢はなかったから、朝練は休んで、学校に遅刻してから、部活には出る、という日々を過ごしていた。私立なので、よっぽど素行が悪くない限り、そのまま進級できたので、そういうところは、受験してよかったと思った。
遅刻回数はひどいものだったけれど、吹奏楽部だというだけで、あまり何も言われなかった気がする。

(長すぎるので、ここで一旦お休みしてくださっても結構です、、、でも、またここらへんから読んでくださいね、、、
)

気づけば中2だった。優しかった高3の先輩が卒業してしまって悲しかった。嫌いな先輩も増えた。家のことも、なんかうまくいっていなかった。
気づけば、母といまの父親は、別のマンションに暮らしていた。近所だったけど。おばあちゃんとの仲が限界だったらしい。
おばあちゃんが、生活の援助をしてくれていたのに、母はひどかった。出ていってくれてせいせいもした。けれど、この頃からきっと心の中はぐちゃぐちゃだったのかもしれない。

母がいないので、おばあちゃんがお弁当を作ってくれるときもあったけれど、大半はコンビニだった。お金をもらうのも一苦労だった。
別々に暮らしているマンションにもらいにいくのだけれど、朝の母は本当に機嫌が最悪で、お弁当のお金をもらえないときもあった。
どうしてもお金がなくて、学校で姉にお弁当代をもらいにいったこともあった。悲しかった。
お金をもらえないことで、わたしが不機嫌になると、そんなことなら学校いくな!今日は家にいろ!ってキレられて、殴られたこともあった。
学校の提出物も滞ることがあった。恥ずかしかった。
部費や、楽器に関するものも、楽器じたいも、おばあちゃんにもらっていた。お夕飯も、おばあちゃんのごはんだった。

おばあちゃんはずっと仕事をしていた。だから、たぶんお金はあったし、いつも優しかった。おじいちゃんの体調がずっと悪かったから、病院に通ったり、自宅で介護をしている時期もあった。いつもニコニコしているので、おばあちゃんが本当にだいすき。なのに、お金がない不便さで、お財布からお金を盗っていた時期もあった。本当に反省している。

中2のとき、友達と夏祭りにいって、友達の彼氏の友達の男の子と遊んだりした。変な白いジャケット着てる奴だった。でも、その直後、逮捕されたりして少年院だったと聞いた。そんなに深い仲ではなかったので、よかった。

あと、リストカットもこの時期に初めてした。リストカットだけじゃなく、自分の手足にアザができるくらい、殴ったり、叩きつけたり。ストレスの解消のしかたを知らなかった。苦しいとか、つらいとか、どこに向けたら良いのかわからなかった。
部活しかなかったから、部活で絶望したときには、もうどうしようもなかった。

リストカットをしていることが先輩にばれて、よくわからない怒られかたをしたこともあった。

負けず嫌いだったから、ひたすらに練習したし、この時期に部活に出入りしていた外部の先生がすきだった。憧れていたし、夢をもつことを教えてくれた。楽器が上手で、表現することばのひとつずつが、わたしには心地よかった。レッスンに来てくれる日が待ち遠しかったから、本当にずっと練習した。

クラスに友達はいなかった。というか、吹奏楽部の子とずっと一緒にいたので、友達がいない、ということに気づいていなかった。本当に部活のためにしか生きていない日々だった。

そして中3。
修学旅行のグループ決めで、あの、ぴーちゃんが取り残されていた。


あのときの罪を償うためだったのか、そういうときに限って、へんな正義感が出てしまったので、ぴーちゃんと同じグループを組んだ。嫌われものの寄せ集めみたいなグループを組んでしまったので、部屋割りも全然仲良くない人たちと一緒だったので、修学旅行が楽しかったのか、どうだったのか全然思い出せないのであった。
昔から写真も苦手だったので、写真もないのだ。思い出す手がかりがない。

部活では、嫌いな先輩がどんどん増えた。自分が上手になっていくほど、楽器がヘタクソな先輩が許せなかった。

わたしがそこそこ上手になれたのにも理由があった。たくさんの時間を練習に使ったのもあるが、小さいときからエレクトーンをやっていたので、音程をとる能力に優れていた、耳が特殊な意味でよかった。楽譜はあまり読めなかったのだけれど、聴けば覚えられるタイプだった。あと、共感覚?みたいなものがあったので、音が色で見えていた。これは、当時はわからなかったけれど、共感覚というものが存在すると知ってから、あーなるほど、となった。

レッスンしてくれる先生への忠誠心もすごかったので、スポンジのように吸収した。このとき目標をくれたのも、外部からのこの先生だった。恋とはちがう、本当に目標の人間だった。

ヘタクソな先輩をバカにした態度をとっていたら、先生にしぬほど怒られた。誕生日だったのに。しぬほど泣いて、更に不貞腐れていた。完全になめていた。図星だった。でも、本当にヘタクソな先輩の言うことが聞けなかった。
でも、先生もそれを認めていたし、後輩も言うことを聞いてくれていた。やっぱり、威厳がないと、と思っていた。
誕生日だったのに、しぬほど怒られて、帰ってからも、祝ってもらうこともなく過ぎた、普通よりも最悪な日だった。

中学の頃はいろんなことを感じて、ただひたすら部活をして過ごした。家族バラバラになった。親は好きなように暮らしていて、わたしたちこどもはしんどかった。弟はまだ小学生だったから、かわいそうだった。かわいそうだったと思えるのも今だから。当時はそんなことも考えてあげられなかった。グレるわけだよね、弟よ。おばあちゃんも大変だった。申し訳なかった。だからこそ、今よけい大切に思えるのかもしれない。

中高一貫だったので、卒業式をしても、制服が新しくなるだけだった。

幼少期~中学時代がわたしの心を形成したものだとしたら、今の自分が弱っちくて、人間関係をうまく形成できない理由も理解できる。友達が、いなかったこともわかる。5人くらいの友達のことしか思い出せないんだもん。

こうして綴っていくと、当時の自分のきもちが手に取るようにわかる。苦しくなる。過去に戻れないことが悔やまれる。
いつまでたっても、過去に戻れないことがわかっているのに、過去にすがってしまうのは何故なのだろうか。

うまれるところから、やりなおしたい。

来てくださって、ありがとうございます。なにか感じていただけましたら、今後もなんとなく、ふらっと、見に来てやってください。