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ダイオキシン無害説は本当なのか。ゼベソ事故から考える武田邦彦氏のウソ?

セベソ事故(Seveso disaster)

1976年7月10日にイタリアのロンバルディア州、ミラノの北25キロメートル付近に位置するセベソの農薬工場で発生した爆発事故です。

20世紀最大の化学工場爆発事故の一つ

猛毒のダイオキシンが飛散

ここで代表的なダイオキシンである2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) が30 - 130キログラムの間で住宅地区を含む1,800ヘクタール(新宿区とほぼ同等)に飛散し、ダイオキシン類の暴露事故としては大規模なものとなった結果、高汚染地区には居むことができなくなり強制疎開などの措置が取られました。

その周辺の地域ではニワトリ、ウサギ、ネコ等の家畜や小動物が大量死したり、奇形出生率が高くなった事が報告されています。

TCDDの毒性は青酸ソーダの10万倍と言われている

この高圧炉はトリクロロフェノールを製造するためテトラクロロベンゼンと水酸化カリウムをエチレングリコールで反応させる反応釜で、トリクロロフェノールが摂氏200度以上になると、簡単にダイオキシンが発生するようになっていました。


ヒトの発がん性

ある時、温度の急上昇により、炉の中で2,3,7,8-四塩化ディベンゾ・ダイオキシンと、その関連物質が生成され、それにトリクロロフェノールが加わり、爆発音とともに灰色がかった白煙となって30~50㍍上空に噴き上げられたのです。

 爆発で生成され、飛散したダイオキシンの量は推定34~240㌕。 イクメサ社の工場はメダ市の南端にあり、セベソ市の境界に近く、このため多量のダイオキシンを含んだ白煙は折からの北東の風 (時速40㌔)に乗って、隣接す
る南のセベソ市北部上空に流れ、そこに漂うことに・・・

その後、白煙はさらに風下などに移動、周囲約2kmにわたって広がり、白煙の一部は移動中、地上に降下して住民、大気、土壌、動植物、建築物などを汚染します。

汚染地の総面積は一五五平方キロを超えると推定されており、高圧炉のバルブは半時間後に閉められましたが、時すでに遅くダイオキシン汚染は既に広がってしまいました。

各種疾患と流産・奇形児が激増

事故発生直後には住民も家畜も被害が出ませんでしたが、飛散したダイオキシンの影響から七月下旬にかけて、牛や豚などの家畜や犬や猫などが鼻から血を出すなどして次々に死亡が報告され、街や付近の山林の樹木も枯れ始めてきました。

さらに、病のために地面に落ちる野鳥もあり、これを恐れた政府は事故後二カ月間で飼育されている付近の家畜約六万三〇〇〇頭を人体への汚染を防ぐために殺処分してしまします。

この爆発事故で飛散したダイオキシンを体内に取り込んだ人は推定三万七〇〇〇人とも言われ、健康被害が大きく問題となりました。

そして事故後、何百もの人たちが吐き気や体の異常を訴え、十三日に一人の乳児が病院に担ぎ込まれ、さらに翌十四日から頭痛、吐き気、涙目、皮膚のかぶれ、発疹、食欲不振などの症状を持つ子どもや大人が続出、中にはクロルアクネと呼ばれる吹き出物が顔などに発症した人も少なくなかったのです。

 

市民の健康被害を受けてメダ市長が緊急事態宣言


しかし住民はこの時点でダイオキシンという毒性物質が環境を広く汚染した事実については未だ知らされておらず、このことを住民たちが知ったのは事故から十日経った二十日のこと。

 事故の二週間後、早くも死産や妊娠異常が出始め、その後、甲状腺、心臓、肝臓、腎臓、神経、免疫系などの疾患に悩まされる人が激増。

地元の開業医で、研究者でもあるパオロ・モカレリらは重大な環境災害が発生したことを知り、来院した被害者の血液を数週間、採取し続け、それを保存しています。
 このような大事故があっても当時、ダイオキシンの正確な測定方法を知っている研究者はゼロであり、汚染濃度の測定が可能になったのは十年後の一九八七年。ちなみにモカレリは今日、セベソ事故による健康被害の医学的研究者として世界的に知られています。


 https://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/tsuushin/tsuushin_00/pico_25.html

何らかの健康被害・体の異常を訴える住民は年末までに約22万人にのぼり、 汚染地の流産率は事故が発生した1976年7月10日~9月30日までに8.9%でしたが、10月1日~11月30日には15%増加しました

また奇形児の出産も、77年5月の半年間に10例を数えています
(川名英之「世界の環境問題」第2巻西欧より)

カトリックの国、イタリアでは法律で妊娠中絶を禁止しているが、セベソ事件の後、この中絶の禁止問題が論議を呼び、イタリアは妊娠中絶を禁ずる法律に例外を認め、セペソの女性に限って医師の判断で中絶できるようにしました。これにより事故発生時に妊娠していたカトリックの若い女性たちのほとんどがバスでスイスの診療所に行き、合法的に中絶手術を受ける事態となりました。

翌年4~6月の妊婦の流産率が34%と異常に高い

 異常出産を恐れて、この例外措置の適用を申請、医師の判断で公認の中絶が行なわれたケースは事件後の一年間に38例。密かに行なわれた中絶は少なくなかったと見られ、 地元関係自治体当局は「実際に行なわれた中絶は、この二倍前後」と見ていましたが、実際にはそれどころではなかったのです。

出産異常を恐れたためか、事故発生前の76年2月~4月に838あった出産数が一年後の同期には235に激減していますので、いかに皆駆け込んだのかが伺えます。

1993年、ミラノ大学の研究者、アルベルト・ベルタッツィはセベソで白血病、ホジキン病(悪性リンパ腫の一種。 原因不明)、柔組織肉腫、非ホジキン型リンパ腫の疾病率が増加していることを報告しています。

汚染の最もひどいA地区で白血病、ホジキン病、多発性骨髄腫で死亡した住民は地区外に住む住民に比べて3倍から6倍も多く、肝臓がんやリンパ腫にかかる率も最高値という結果になったほど。

ダイオキシン汚染地への対策

76年7月21日、イクメサ社の責任者が逮捕されました。同社は23日、ダイオキシン汚染地区全住民の移転を市当局に要望し、市は「移転費用に充てて欲しい」と言って、一億ドルを差し出すことに。

当局は、この一億ドルを使ってA地区一五ヘクタールに住む住民全員の強制疎開に着手し、疎開者は8月末までに2000人を越えました。
 市は汚染地区を汚染の最もひどいA地区(110ヘクタール)、汚染の程度がその次のB地区、それ以下を要注意地区にランク付けしていたが、その後の調査により、 汚染地区はセベソの北に位置するメダ市に広げられ、七月二十四日、ロンバルディア州のビットリオ・リボルダ保健局長は中央政府、州政府、地元自治体当局と相談した結果、汚染の最もひどいA地区の住民約200人に対し疎開命令を出したのです。
 A地区の中の特に高度の汚染地については住宅や農場施設などを取り壊し、廃材などをその地下に埋めて地面から50センチの深さまで汚染土壌を除去し、新しい土壌と入れ替えて、家屋の廃材などは地中に埋めて、傾斜の緩やかな「セベソ・カシの森」公園を造りました。
 この森の近くにも、 イクメサ社化学工場周辺の廃棄物を埋めた傾斜地がありますが、緑地公園は鉄製のフェンスが張り巡らされ、一般の人は日曜日以外は中に入れません。
 B地区では妊婦と子どもを移転させ、 B地区と要注意地区を合わせた地域での農作物の栽培・出荷や肉類の生産を禁止しましたが、B地区と要注意地区では汚染土壌対策は行ないませんでした。

セベソ事件と枯葉剤



セベソのイクメサ社化学工場はスイス資本系ジボダン社(本社・ジュネーブ)のイタリア工場として一九五〇年代初めに操業を開始しています。ジボダン社の親会社は、やはりスイス系資本の多国籍企業、ホフマン・ラロッシュ社です。セベソのイクメサ社化学工場では2、4、5−Tと呼ばれる除草剤や、 枯葉剤の原料である化学薬品のトリクロロフェノール (TCP)、殺菌剤のフェキサクロロフェン、化粧品・香水の原料などを製造していました。

親会社の多国籍企業は日本の中外製薬を買収しています


2、4、5−Tは枯葉剤としてよく知られており、不純物としてダイオキシンを含んでいます。ベトナム戦争で米国が森林に潜むベトナム解放勢力を殲滅させるために森林に空中散布し、多くの兵士と住民が深刻な健康被害に苦しんだ事は周知の事実です。 そして、イクメサ社化学工場の爆発によって発生した動物の死や樹木の枯死、住民の健康被害は程度の差はあれ、ベトナム戦争における枯葉剤散布による被害と共通しているのです。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/28/2/28_2_113/_pdf/-char/ja

住民の健康被害への補償


1976年セベソ事件発生から一年間に地元自治体当局が算定した被害額は当時の日本円にして約337億5000万円。この間にホフマン・ラロッシュ社が主として被害者団体に支払った損害賠償補償額は同約8億6400万円。 一方、イタリア政府は救援予算の当初額として同97億2000万円を計上、このうち16億2000万円を再汚染地区の200以上の農場、工場、作業場などに支払っています。
ホフマン・ラロッシュ社から土地、住居、家畜の被害に対しては損害賠償金が支払われましたが、健康被害に対する損害賠償金の支払いを受けたのは推定20数万人を超える被害者のうちの一部の人達だけでした。
 損害賠償や汚染土壌対策についての交渉はホフマン・ラロシュ社とロンバルディア州、あるいは同社セベツ、メダ、チェザノ、マデルノの三自治体との間で決められ、なぜか被害住民団体はこれに参加できなかったそうです。
しかも住民の健康被害に関する疫学調査も実施されなかったのです。 このため健康被害を受けた住民でつくっている「市民委員会五D」(五Dはダイオキシンに侵害された権利の擁護を意味するイタリア語の五つの単語の頭文字D) は被害者の疫学的なデータを集めて民事訴訟を提起し長い戦いが始まったのです。

女児出産の増加


1977年四月から84年12月までの7年8ヶ月間に汚染が最もひどかった地区で生まれた子どもは74人。男女別に見ると、女児が48人、男児26人。 正常な男女出生比性比という)は女100人に対して男児約106人とされている。このことから見ると、セペソの最汚染地区の場合、女児の新生児数がかなり多いことがわかります。
ダイオキシン類が原因で発生した大きな健康被害であるセベソ事件、日本のカネミ油症事件、台湾油症事件 (ユーチェン)を比べると、セベソ事件では汚染の原因物質の中心はポリ塩化ビフェニール(PCB)類とポリ塩化ジベンゾフラン (PCDF)類で、四塩化ディベンゾダイオキシンは検出されていない。
 これは、台湾油症事件とカネミ油症事件の原因物質と同じだが、この二つの事件ではセベソ事件とは異なり、出生児の性比に影響が認められていません。

有害廃棄物の越境移動の多発



保管中の汚染土壌が行方不明
地区予防衛生研究所がダイオキシンによる土壌の汚染状況を調査したところ、地下25センチの深さでもダイオキシンが検出され、汚染の最も著しいA地区の汚染土壌のダイオキシン濃度は1.0~15ppm、最高濃度は51.3ppm。B地区は10ppb以上でした。
 イタリア政府が「ECヨーロッパ衛生専門家会議」に提出した報告によると、環境を汚染したダイオキシンの総量はA地区で推定0.5~3.5キログラム、B地区で0.02キログラムです。
 イタリア政府は汚染の最も著しいA地区を1790ヘクタール、汚染の程度が比較的軽いB地区を269ヘクタールとし、汚染の程度によって住民を集団移転させた上、1980年6月からA地区を対象に地表の汚染土壌をはがし取ってドラム缶に入れ、その後を覆土する作業を始めました。そして 爆発した高圧炉は解体されました。
 ところがイクメサ社の工場に保管されていたダイオキシン汚染土壌など2.2トン入りドラム缶41個が1977年9月10日、密かに積み出されたのです。各国の警察が捜査に乗り出し、17日にフランス北部の西ドイツとの国境近くに運ばれたところまでは分かったのですが、そのあとは行方不明。ダイオキシンに汚染された土壌は「ドイツのハンブルクにある化学企業ベーリング社の産業廃棄物投棄場に持ち込まれたのではないか」という報道やダイオキシンの毒性についてのキャンペーンがドイツで騒がれ、ダイオキシンを発生させるゴミ焼却を減らす運動が起こったのです。
 汚染土壌の行方不明事件から8ヶ月たった1983年5月、北フランスの小さな村の倉庫に保管中の汚染土壌入りのドラム缶が発見されました。ドラム缶は直ちにイクメサ社の所属するスイスに運ばれ、製薬会社の焼却炉で焼却処理されました。そして ベーリング社は2、4、5−Tの生産を中止することに。
 イクメサ社の責任を問う裁判は1986年5月22日に最高裁判所の判決で、イクメサ社の責任者に対して懲役2年、イクメサ社の属していたジボダン社の技術部長に対しては1年6ヶ月の有罪判決が出されました。

OECDが有害産廃輸出の規制を検討



セベソの汚染土行方不明事件は有害廃棄物越境移動の典型的なケースとなり、 OECD(経済協力開発機構)は、この事件を機に有害廃棄物の越境移動規制策の検討を始め、これを受け「国連環境計画」は1983年6月7日に発表した83年版「世界環境情勢報告」の中で、有害廃棄物の輸出問題を取り上げ 「破廉恥な業者が国内法をくぐり抜けて有害廃棄物を特に規制の緩い国に輸出して投棄している。 有害物質の知識を持たない開発途上国は国際的な廃棄物投棄場所になる恐れがある」と指摘しており、そのうえで被害を避けるため有害廃棄物処理政策の改善、埋蔵施設の確保などを呼び掛けました。

 有害廃棄物の越境移動がヨーロッパで大きな問題となり、OECDは一九八四年二月、「有害廃棄物の越境移動に関する原則」を定めました。翌85年6月、パリで開いたOECD環境大臣会議最終日には有害廃棄物の越境移動の規制を強化する措置を盛り込んだ宣言とコミュニケが採択されました。一方、EC(欧州共同体)は1984年に「有害廃棄物の越境移動を管理するための指令「セベソ指令」が採択されました。 しかし有害廃棄物の「輸出」は越境移動を規制する条約案の検討が進められている間も続きました。
 1986年8月、ダイオキシンや砒素、水銀などの猛毒物質を含む米国の都市廃棄物と産業廃棄物の焼却灰約1万4000トン入りのコンテナ170個を積んだホンジュラス国籍の貨物船「ペリカノ号」が米国フィラデルフィア港を出港しましたが、米国環境保護庁(EPA)の調べで産廃中に有毒廃棄物を含んでいることが分かり、行く先々で荷下ろしを拒否されてしまいます。「ペリカノ号」は2年余にわたって、さまよい続けた末、1988年11月ごろ、インド洋で積み荷が消えてしまったのです。 (積んでいた焼却灰を海中に投棄した疑いが強い。)
 1987年6月、「国連環境計画」は有害廃棄物を環境保全上、適切に管理するためのガイドラインを決定し、 OECDと連絡を取りつつ有害廃棄物越境移動の適正管理に関する条約案の検討を開始。 翌88年5月、OECDは有害廃棄物の定義を決定し、一連の検討結果は「バーゼル条約」づくりの母体となりました。

多発した有害産廃の越境移動


 有害廃棄物越境移動条約作りが進められている間にも有害廃棄物の越境移動は相次ぎ、1988年5月、行く先々で入港を断られ、15月間も放浪の航海のために船員が病気になってしまいました。
 放射能汚染廃棄物(イタリアの化学会社から出た)入りドラム缶1万1000本の積載貨物船のジェノバ港入港と船員の病院収容に、 イタリア政府が同意しています。

https://megalodon.jp/2023-0517-0953-09/https://contest.japias.jp:443/tqj24/240166C/problem/


 1988年6月、今度はナイジェリア南西部の港町ココの郊外にドラム缶入りの毒性の高い危険な産廃3900トンが隠されていることが発覚し、当局によって摘発されました。 この産廃はPCBや放射性廃棄物を高濃度に含んだ悪臭のする液体入りドラム缶約8000本。イタリアのいくつかの工場が「化学品」の名目でナイジェリアへ密かに送り出し、港に陸揚げされたことが現地の新聞で報道されています。
 ナイジェリアの軍は、この事件に関係したナイジェリアの船荷取扱い業者やルフトハンザ航空の現地職員など40人を逮捕する一方、ナイジェリア政府は身柄を拘束されていた乗組員に問題の産廃を返送させることを決定し、大統領が国際機関に対し放射性廃棄物の専門家の派遣を求め、日本の科学技術庁も専門家を送ることになりました。
 ナイジェリア政府当局はココのラゴス岸壁で有毒産廃入りのコンテナ170個をドイツ船籍の貨物船「カリンB号」に積み込み、出航出向出港を命じ
ました。これを受けてイタリア政府は「カリンB号」に積載された有毒産廃をアドリア海沿いの町ラヴェンナにある備蓄施設に受け入れようとしましたが、市民がそれを知って抗議行動を起こし、 入港を阻止。
「カリンB号」はどの港からも接岸を拒否され、放浪の航海を続けることに。
 さらにこの頃、レバノンの港からも、産廃を積んだ二隻の船がイタリアに向けて出航しています。

相次ぐ有毒産廃の越境移動スキャンダルにイタリアが関与していたことが明らかになると、イタリアの世論は政府を厳しく批判し、結局政府はこの問題に本腰を入れて取り組まざるを得なくなり、主に次の対策の実施を発表しています。
(1) 国内で発生する有毒な産廃の全量を処理することができる施設を2年以内に新設すること。
(2) 有毒・有害物質を含む産廃の国外への移動を強力に規制すること。
(3) イタリアの国内外で、イタリアから出た産廃が発見された場合、特別緊急計画が発動され、その処理が進められる。

イタリアの越境移動多発の背景


 有害な産廃がなぜイタリアから外国にしばしば輸出されたのでしょうか。有害産廃の越境移動スキャンダルがイタリアで多発した裏には、①当時のイタリアは有害産廃を適正に処理する施設が不備で、有害産廃の処理能力がまだなかったこと、②処理コストがかかるうえに、有毒な産廃であっても投棄を規制する法律が整備されておらず、 有害産廃の輸出自体が禁止されていなかった、という有害産廃行政の立遅れがあり、これらのことが重なって、有害産廃の越境移動の多発を招いたというのが一般的な見方となっています。


 産廃の処理能力の面から見ると、安定した産廃は100パーセント、有害物質を含んだ産廃の35パーセント、有害産廃の25パーセントは技術的にも、また施設能力の面からも処理できるが、それ以上は不可能な状況でした。しかも いくつかの特定の危険物質については僅か一パーセントしか処理能力がなかったのです。 アルマンド・モンタナーリ・ナポリ大学教授 (イタリア国立学術会議地中海地域経済研究所長)はイタリアの工業生産活動から発生する年間3000万トンの産廃のうち1900万トンは安定した物質だが、800万トンは有害物質を含み、300万トンが有毒。有毒な物質のうち60万トン弱は何らかの危険性を持つとされています。
 有害産廃については処理能力がないだけでなく、処理の際の環境配慮に対する法的規制がなかったことを示すのが、1987年4月、イタリア政府が発表した「環境白書」です。その白書によれば、農薬、化学薬品、 重金属、シアン化合物、PCB、フェノール、硫黄酸化物などの有害物質が年間推定400万トンも国内で排出されているにもかかわらず、法律によって十分な注意を払うよう義務づけられていないために、小工場などでは毒性の強い廃棄物であっても、それを一般の産廃と一緒に捨てていたと書かれています。
 モンタナーリ教授が「公害研究』 1989年10月号で明らかにしたところによれば、イタリアでは有毒・有害産廃を海洋に投棄することは禁じられているが、海外に輸出することは、それまで禁止されていなかったのです

「バーゼル条約」とイタリア


「国連環境計画」は1987年6月、ようやく有害産廃の越境移動を禁止する条約づくりに着手し、1989年3月、有害な産廃の越境移動を禁止するために、 116カ国の参加を得てスイスのバーゼルで外交会議を開きました。その結果、「有害廃棄物の越境移動及びその処分の管理に関するバーゼル条約」(通称・バーゼル条約)が採択されることに。 この条約の対象とされた有害廃棄物はダイオキシン、アスベスト、PCB、水銀、鉛、カドミウムなど二七種。 放射線廃棄物は対象からはずされました。そしてこの 条約は1992年5月に発効されています。
 これまで見てきたとおり、1980年代、 全世界で生み出されている有害廃棄物のうち80パーセントから90パーセントは先進国で発生しており、先進国から開発途上国への有害廃棄物輸出が頻発してきました。野放図な越境移動を引き起こした主要な原因は越境移動を規制する条約がなかった為に起こったのです。
 こうした一連の事件の発端となったのがセベソの農薬工場爆発事故によるダイオキシン汚染土壌のフランスへの移動から始まり、その後イタリアの化学会社の放射性廃棄物積載貨物船の行方不明事件が起こるなどイタリアが関わった輸出が目立ち、これらの事件は有毒産廃の越境移動の悪しき見本とさ
れ、国際社会の条約による規制実施につながったのです。

これ以後、イタリアでは環境への意識が高まり、都市ゴミを管理する統合的なネットワークから始まり、やがてイタリア 「緑の運動」の歩みへと進み1964年、イタリア野鳥保護連盟、2年後の1966年には世界野性生物基金(WWF。現、世界自然保護基金)のイタリア支部が設立されていくことになりました。

さて、ここまでセベソ事故の全容を調査した結果を記載しましたが、現在日本国内ではダイオキシンに関しての意見が真っ二つに分かれている事をご存知ですか?
こんなにも恐ろしいダイオキシンが無害だと主張する人達の言い分とはどのようなものか正確にしる必要があります。
例えばダイオキシン無害説を主張する武田邦彦氏のブログに載っていた興味深い記事を御覧ください。→ウェブ魚拓セベソの60人

武田邦彦はウソをついている?


http://takedanet.com/archives/1013799267.html

ここまでセベソ事故の全容をお読みになって、武田邦彦氏のセベソ事故に関してのブログを見比べてみると、どちらかがウソをついている事は明らかですね。
ウソをついているのは私だと思いますか?それとも武田邦彦だと思いますか?
皆様はどのように思われますでしょうか・・・


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