ガンプロ独立に思ふこと

所属していたガンバレ☆プロレスがこの度、運営母体であるCyberFightから独立することになりました。
2013年の旗揚げから旗揚げメンバーとして約11年間、ガンプロにいました。

私は自分自身のデビュー期と定義が非常に曖昧でして、2008年の11月11日、BOYS新木場大会でKUDOさんとの試合をデビューとさせていただいています。当時、どこかの団体に入門すらもしていない状態でしたが、先輩選手が「今日が今成のデビューなんだから控え室で挨拶をしなさい」と言ったので「今日、デビューさせていただきます今成夢人です」と挨拶をして回りました。その後、大学を卒業して就職もしたので、レスラーとしては空白期間があります。いやプロレスラーとしての自覚もちゃんとありませんでした。今、思えばです。右も左も分からないままでした。

2013年の旗揚げからガンプロでプロレスをするようになりました。大家健が旗揚げ宣言をするための記者会見。まだ肌寒い2月、新木場1stRINGの駐車場エリアで、これから割腹自殺でもするのではないか?という風貌の大家健がいました。また何かやるのか!?とお客さんが物珍しげにちらほらと大家を囲っていました。そしてそこで記者会見を撮影していた私がそこで浪口修に襲われました。私にとって全ての始まりはここでした。

先日受けたビッグイシューのインタビューでも人生の転換期としてこの日のことを語りました。
映像を撮る側から強制的に出演する側に転換を図られた言わば儀式だったと今振り返れば思うのです。
カメラは時として暴力になると言われていますが、これはそんなカメラの加虐性とは全く逆の出来事で、カメラを回していたが故に、その暴力に巻き込まれるという事態になっていました。カメラで何かを撮っていることは決して安全圏にいることではない。
自分が何か巻き込まれ、自分が当事者になる可能性を常に孕んでいる。今でもこの瞬間というのは自分にとってのある種の映像論の原点のような出来事です。

当時の空気感は一介の映像班のインディレスラーが上がっている程度の認識だったように思えます。実際にファイトマネーのギャランティをもらえるようになったのはかなり先のことで、映像制作の仕事とプロレスの試合が給料に込み込みになっているといった状況でした。
それでもガンプロでの活動は日々忙殺される自分にとって、ガンプロ興行に参加することは生きた心地がした時間でした。足りない技量とカラダ。それを自分でも整理整頓が出来ていない感情というエンジンで動かす。今思えば沢山恥ずかしいことをしています。冷静に振り返れないくらい当時の自分は周りが見えておらず、『劇場版プロレスキャノンボール2024』にその顛末はしっかりと映像で記録されています。もう同じようなことは出来ないと思います。それくらい自分のやることに客観性がありませんでした。

そんな曖昧な期間が続き、2018年までプロレス選手名鑑やホームページには掲載してもらえず、プロレスラーとして自分のアイデンティティに苦しんだ期間もありましたが、今は私が歩んだ道こそがガンプロの歴史の中心だったと胸を張って言えます。

旗揚げ初期の頃はDDTスタッフのノブさんが手刷りのチケットを作ってくれて、それを大家健が手持ちをして、DDTの会場の隅っこで販売会をして売り歩く。そんな風景が2013年ごろからありました。DDTのお客さんに「アイツらなんかやってるぞ」と思われるために、あの手、この手で叫び散らかしました。チケットの取置きは大家健の携帯メールアドレスに直メで送るというシステム。大家健は自分の携帯電話の番号を晒して、もうなりふり構わずに生きようとしていました。
やがてノブさんが手刷りで作ってくれたチケットは今ではチケットぴあ、他各種プレイガイドで販売されるようになっていきました。

そんなガンプロが年が明けて、今年1月上旬に、突如大家代表から独立する旨が選手に告げられました。
その上で「今後ここでやりたいと思うか、その他の選択肢でやりたいと思うか」の進路を問われたのですね。
年明けにあまりに突然のことで、私はその時点では即断即決が出来ませんでした。

と言うのも、私自身が昨年9月までCyberFightの社員でしたからプロレス興行の運営において、社員・スタッフの人たちがどういった準備やパブリシティを用意してくれた上で、選手はリングで試合が出来ているのかが痛いほど分かるからです。

ガンプロ初期から中期頃まで、私自身が社有車を運転して、荷物の積み込みや積み下ろしなどもして興行の前後にある部分からガンプロ興行に参加していました。選手だけに集中させてもらえるようになったのも比較的最近で、そうした一連の作業を他の人に頼めるだけで随分と楽になるのだということを身をもって痛感しました。それも最近のことです。開設した公式Twitterも映像班の仕事の延長で僕がやっていました。2018年、今成革命と題して大家の反目に回ったときに、団体の側の仕事が疎かになっていたように見えた大家に団体Twitterのパスワードを知っているか?と問うて、大家が答えられず今成はキレ散らかしていました。ちなみにパスワードは旗揚げ日から拝借していて20130417と簡単に乗っ取られそうなパスワードでした。今では違うパスワードに変更されています。

私はガンプロだけでなく、関連団体のスタッフとしても活動していたため、リング外のことで"どんなことが起きているか"の想像が出来ました。トラックによるリング運搬、チケットの発券、会場の手配などを除くスタッフワークは沢山やりました。音響が足りなかったからユニオンプロレスの音響を急遽やったこともあります。

映像の収録だってそうです。今でこそ映像配信はプロレス興行に当たり前のようにありますが、その当たり前である映像収録のカメラ、機材設置、また配信の設備などにもコストをかけ、人員を配置すればそれだけコストがかかりますから。グループ団体で会場を昼夜レンタルし、シェアをする。運営をする上でとても大事なことだったりするはずで。それが無くなるの!?とも。それに対しての知識や、仕事の正確性を兼ね備えた優秀なスタッフさんがいなくなるの大変だよ!?とも。

サイバー入りして、SNSに散見される画像などのクオリティも飛躍的に上がりました。
Adobeのクリエイティブ講座ではサイバーファイトの及川さんがAdobe Photoshopでガンプロの宣材画像を制作する過程の動画を拝見した時はとても感動しました。
プロフェッショナルなお仕事に加えて、ガンプロの魅力、売りを端的に解釈し、それを落とし込む思考と技術を見て、とても嬉しかったんですね。

その他にも日々膨大にある情報を整理してくれる広報の人や、各種SNSの取り扱いなどにしてもそれを丁寧に取り扱える人がいたり、文章のチェック、誤字脱字、整えてくれる人がいるから"公式"として成り立っている。ちなみに大家健が勤務しているエビスコ酒場の公式Twitterは大家が書いている時と、そうでないスタッフの人が書いている時の違いが一目で分かります。

こういう興行周りのスタッフワーク、今はどれだけ手があっても足りない状態かと思います。

そんなことを想像して、大家健代表が突然「独立する」と言われても「ちょっと待て!」としかなりませんでした。

とにかく興行をする上での当たり前が一気に当たり前じゃなくなることが想像出来てしまって怖かったんです。
文脈は全く違うけど極楽とんぼの加藤浩次さんが相方山本さんの復帰に対して「当たり前じゃねえからな、この状況!」
とテレビの収録で詰めた言葉が脳裏を過ります。とにかく当たり前じゃなくなることが多すぎて。

そこで飯伏さんにふとこの話をしたところ、ならば研究所にお声がけいただきました。
大変光栄なことですし、団体としてというよりも飯伏さんの脳内にあるプロレス研究所の何かに自分が組み込まれることにも嬉しさを感じました。
大学時代はプロレス研究会に在籍していましたが、自分の日々における「プロレス研究」という名目と活動があまりにしっくりきすぎていました。

と、同時に自分にとってガンプロがなくなったらしんどいだろうなと想像が出来ました。
この数年間、他団体にも呼んでいただけるようになり、どの団体でも手応えを感じつつ、一方でそれはガンプロがあってバランスが取れているようにも感じました。
プロレスに対してはしゃげる、プロレスが好きだということを自分自身のプレーン味で表現出来るホームリングがないと自分のバランスはダメになりそうだと考えました。
何人かの選手にも残って欲しいという気持ちを伝えられたのも大きかったです。恥ずかしながら、自分の心の中だけで決められなかったけども、周りの人の言葉にも突き動かされるものはありました。

平均年齢が高いガンプロにおいて、20代の中村宗達、YuuRIが残ることは希望でしかありません。
私が経験した感覚などで彼らに分配出来る何かがあるならば、若い二人に沢山のことを残していきたい。今は心の底からそう思います。

また石井慧介、冨永真一郎という四天王、三銃士直撃世代の二人とは影響を受けた時代が重なりすぎており、一生語り合える仲間であります。
昨年9月に石井さんが歌うB'zの『LOVE PHANTOM』を歴代G1クライマックス優勝者で歌うという芸は腹を抱えて笑いましたけども、とても微笑ましく、この視線でプロレスに熱視線を注ぎ続けて、僕はプロレスを好きでいられたんだと思えました。
こうした瞬間、言わば今成がプロレスに対して真剣にはしゃげる空間がなくなると自分の心は死んでしまうだろうなとも思えました。
次第に「やっぱりガンプロにいないとな」と確信に思えていきました。

そこで自分としてベストな着地点である二団体所属という形態でいさせてもらえませんか?と大家代表、飯伏さんに訊ねたところ、お二人とも快諾していただきました。
二団体所属でも、より自由に、幅広く活動できることは間違いなく、この着地は自分としては願ったり、叶ったりだったのかもしれません。
今ではしっかり悩んだ上で決めれたので良かったなと思っています。

そしてファンの方にもガンプロは沢山愛されてきたように思います。
愛していただいたから続けてこられた。レスラーの人たちも、所属、また所属でない人たちにも沢山ガンプロに参戦していただいた。

今でも私がプロレスへの情熱が全く下がることはなく、加齢と共に失われる柔軟性と反比例して筋肥大が見られ、ますますプロレスの奥深さと面白さを身をもって体感出来ているのは、こうしたガンプロの土壌と歴史があるからの他なりません。ガンプロを今日まで続けさせてくださり、ありがとう。そんな感謝の気持ちで一杯です。
そして現在に至ります。

ここからはもう少し、僕自身の心の奥底を覗いてみます。

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