見出し画像

マルチリンガルが転んだ

(タイトルは「だるまさんが転んだ」風に読んでね)
挫折というには大げさだけど、やらかしちゃったな〜なお話。
マルチリンガルってだけで順風満帆なわけはない。
「ひとの不幸は蜜の味」な、あなたにお届け。

いつまで特別感に浸ってるの?

わたしは英語、中国語、日本語が話せる。
ものごころがつく前からバイリンガルではあったので、
小さいころから特別感を味わっていた。

「3ヶ国語ができれば、一生仕事に困らないね!」
「世界のどこでもやっていけるね!」
なんて言われて、ちやほやされてきた。
でもそんなマルチリンガルだって、無敵なわけではない。
マルチリンガルであることだけが「売り」だと
行きづまるタイミングがくる。

*マルチリンガルになった経緯は、こちらのnoteをどうぞ!↓

まわりはペラ子&ペラ男だらけ!?(高校生編)

まず最初に“転んだ”のは高校生のとき。

大本命の国際学科の都立高校に入れたのはいいものの、
そこには帰国子女や外国人がうじゃうじゃいた。
あまり使っていなかった中国語は、ネイティブにはおよばないし、
中学で得意だった英語は、TOEIC満点の帰国子女にはかなわない。

まわりは、スターのたまご並みの才能だらけ。
カリスマ性があり、成績がよく、顔がきれいな高校生を集めたみたいな学校だった。
劣等感を感じないわけがなかった。

そのなかでも目立とうと、「体育祭の幹部」、「文化祭のクラスリーダー」、「国際協力ボランティア同好会の会長」になったりした。

高2で「J8サミット(G8首脳サミットのJr.版)の日本代表」として選ばれたときは、最高にうれしかった。
当時サミットが行われていたロシアに招待されて、ほか7ヵ国の代表たちと世界を良くしていくための話し合いをした。
そのサミットのクライマックスとして、「8ヵ国の首脳たちと会って若者の視点を伝える」というものがあった。
でも、リーダーとして出しゃばりすぎたのがアダとなって、
当時首相だった小泉さんに会う代表生徒としては選ばれなかった。
にがーい思い出だ。

劣等感を感じながらも、存在感を保とうと必死になった3年間だった。
そして、自分がどれほ狭い世界にいたかに気づき、海外の大学に進学することを決めた。

簡単に洗脳されない、現状満足できない(就職編)

次の“つまずき”は、カナダで大学を出たあとの日本での就職だった。

カナダで「自分らしくていい、自由でいいんだ!」と開花したのに、
戻ってきて直面したのは、「出る杭は打たれる」社会。
みんなおにぎりのように同じリクルートスーツを着て就活。
小さな反逆として、どの面接にもピアスをつけて挑んだけど。

そんな型にハマりながら、ようやく決まったベンチャーのコンサル会社。
「海外案件があるからそこにぜひ!」と言われたのが入社の決め手だったものの、入社後それはなんと詐欺案件ということがわかった。

マルチリンガルであることは、飲み会のネタ以外ではあまり出番がなくなっていた。
クライアントの中国人と仲良くなったり、英文メールやパワポの添削には役立ったけど。
でも問題は、仕事で外国語が使えないことではなかった。

新入社員研修のときから、少し洗脳チックだった。
なぜこれはこうなの?と疑問に思うことだらけだった。
あそこでうまく洗脳されていればある意味しあわせだったかもしれない。
カナダでは年齢関係なく、フェアに活発なディスカッションができたのに、
日本に戻ってきたらじぶんを押し殺さなければいけばい場面ばかりだった。

業務内容も、「わたしでなくてもできる」
→「わたしよりこれが得意なひとがいる」
→「わたしがここにいる必要ってある?」
となり、環境を変えることにした。

その後、住む街も仕事も変えて、英語教育に携わるようになってからは毎日がとても楽しかった。
スクールのマネージメントも英語を教えることも好きだった。
だけどキャリアアップが望めない状況で、「現状満足」ができなかった。
でも実は、「このままでいいのか?」という成長意欲に見せかけた自己否定感もあった。
「英語」というツールだけを使って働くことに、やるせなさを感じていた。
武器を出しきって、丸腰のような感覚だったのだ。

オファーはもらうけど自己分析が足りていない!(転職編)

そんなときに、グローバル研修を実施する会社から仕事のオファーがあった。
英語教育の仕事は順調だったし、生徒さんたちも大好きだったから、
「すぐに来て!」と焦らされたのは不本意だった。
でも、目の前にあるチャンスをつかまなくては!と自分を説得して2度目の転職をした。
お世話になった職場をバタバタと離れることになってしまったその転職は、“大転倒”となった。

コンサル経験もあり、英語教育経験もあり、マルチリンガル。
オファーをくれた役員さんは、入社前から期待をしてくれていた。
でもいざ始めてみると、やりたいことと全然違っていた。
忙殺されながらなんとかしがみつこうとしたけど、もたなかった。
違和感にうそがつけなかった。

オファーをくれた会社は、わるい会社ではなかったと思う。
ただ、わたしがじぶん自身のことをわかっていなさすぎた。
それが致命的だった。
興味のある分野だし、おしゃれなオフィスで、給料も上がる。
そんなことに舞い上がりすぎて、
じぶんがどういうひとたちを相手にして
どう社会に関わって貢献したいか、
そしてじぶんは何をしているときにイキイキできるのか、
そんな基本的なことと向き合えていなかった。

マルチリンガルで、それを形成した経験をうまくアピールすれば、
興味を持ってくれる雇い主はたくさんいる。
だけど、じぶんが何をしていきたい人間なのかわかっていないと、
じぶんを見失って、まわりにも迷惑をかける。
そんなことを学んだ。

後悔しても前を向く

いまは、また好きなことを仕事にできているけれど、
まだ「転んで立ち上がったサクセスストーリー」を語れるほど
思いどおりの軌道修正はできていない。

でも、じぶんを責めるのはもうやめた。

「マルチリンガル」という武器だけによっかかってはいけない。
そんなことは、高校生のころからわかっていた。
「マルチリンガル」は、ほかのスキルとかけ算をすると価値がぐっと上がる要素だ。
そのかけ算できるものを伸ばすのに、時間がかかっているだけだ。
ハードスキルはまだ弱くても、
共感力やファシリテーション力といったソフトスキルはある。
ひとを楽しませたり、元気づけたり、励ましたりすることはできる。

一見かっこよさそうなラベルにしがみつくのはやめる。
まわりと比べて劣等感を感じることも
違和感にうそつけず現状満足できないことも
自己のことがわからず迷子になることも
ぜんぶわたし。

そんなじぶんを否定しないで
七転び八起きしていくだけだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?