4月、自爆、祝い酒


 春。自殺の季節。
 私は今日、満員電車で自爆する。

 自爆すると決めたのだから、駅前のコンビニでストロングゼロを買おう。出社前なのに。いや、自爆するから出社はしないのだ。解放感でいっぱいだ。ストロングゼロとファミチキを買おう。

 そう決めてレジ列の最後尾に列ぶと、ジジイが割り込んできた。

 私は愕然とした。

 その愕然は、厳密にいえば割り込んできたジジイに対してのものではない。反射的に舌打ちを抑えた自分自身に対してだった。これから自爆しようというのに、社会や体裁や面倒臭さを気にして、ジジイを割り込ませるままにして穏便に済ませようと、私は思わず舌打ちを抑えたのだ。

 その事実に気づいた時、私の指は震えながら自爆スイッチに伸びていた。何たる恥、何たる怒り、何たる増長慢。瞬間、私は義憤に駆られた。このジジイに理不尽を叩き込んでやろうと決意した。お前の悠々自適の年金生活は、ただコンビニの列に割り込んだだけで終わるのだと、思い知らせてやらなければならない。

 私がそう決心して自爆ボタンを押し込んで、今こそ爆発する数ミリ前という時、ジジイが振り向いた。丁度いい。誰が貴様を殺すのかしっかり理解させるために、私の顔を拝む猶予を数秒ほど与えた。アホみたいな顔で驚いている。これから死ぬというのに。

「なんや、兄ちゃんがおったんかいな、悪い悪い」

 そう言うとジジイは私の後ろに列び直した。

 ジジイは良いジジイだった。ジジイが横入りしたというのは私の勘違いだったのだ。増長慢もなければ、理不尽を思い知らせるべき無礼もなかった。ただただ私が舌打ちをしそびれただけの日常の風景があった。

 それだというのに、私の心の底から湧き上がる怒りは一向に収まらなかった。それどころか胸中に渦巻く怒りは、自爆ボタンを押し込めと激しく烈火の如く私を苛むのだ。

 ここで自爆すればどうなるだろうか。私はジジイに鉄槌を下すという使命を失っているので、ただ意味もなくコンビニで自爆した迷惑な男ということになる。そんなのは嫌だ。せめて死ぬなら鉄槌を下すジジイぐらいは欲しい。

 いや、違うのではないか。私が自殺を考えるまでになったのは社会が悪いのだ。だからそもそも社会に復讐するために電車で自爆すると決めたのだ。そして私が復讐すべき社会の受益者は、間違いなく後ろに並んでいるジジイや、レジを打っているピアスをバチバチに開けた若者だ。私は奴らに奪われて、欲しいものは何も得られなかった。だから自爆するのだ。

 そう思えば、今ここで自爆するのは必然のような気がしてくる。

 私は決心が揺らがないように、手に持ったストロングゼロの缶を開けて、飲んだ。それを発見したレジを打っていたピアスの若者が目をむいて叫んだ。

「え、ちょ、おっさん、マズいですって!」

 レジを中断して飛んでくる、朝の混雑時だというのに遵法意識の高いピアスだ。飲み干した缶を手渡して笑いかけると、ピアスの若者の顔が歪んだ。

「…あー、なんか、ヤバそうっすね。コレ、俺が払っとくんで…大丈夫っすよ。その、元気だしてください」

 優しい若者だった。トゲトゲしているのはピアスだけ。中身はナイーブで優しいのだ。だが若者の優しさもまた、私の怒りを宥めることはなかった。彼の優しさを形作る幸福で恵まれた人生というものは、きっと私から奪われたものだからだ。そう思えば、彼の優しさこそが、私の復讐すべき対象だと言えるだろう。

 私は自爆ボタンを押し込もうと思ったが、指が止まった。押せない。

 機械の不具合ではない。そして無論のこと、ジジイが素直だったからでも、ピアスの若者が優しかったからでもない。

 私が死にたくないと考えたからだ。ただただ単純に死にたくない。奪われて捨てられるだけではなく、なにか偉大なことをして死にたい。そんな見え透いた欲求が私の指に絡みついてボタンを押下させまいと逆らっているのだ。

 あのジジイがもし無礼なやつであったなら、義憤のままボタンを押せただろう。もしピアスの若者が舌打ちのひとつでもすれば、嘲りのままボタンを押せただろう。

 きっと、そうでなかったという事は、いまボタンを押すべきではないということなのだ。きっとそうなのだ。

 だが満員電車なら。胃が痛んで、汗が出てきて、あの吐き気があったら、きっと押せるのだ。それこそが私の偉大な自爆であり、克服の死だ。私はそう決めた。最初の計画通りに満員電車で自爆しよう。

 だが頭蓋の中で、ここで死ね、と声がした。

 なぜだ?問うてみるが答えはない。バカを言うな。ここで死ねば私は敗北するのだ。何の意味もない自爆として、なんの価値もない人間の、ただの迷惑で残虐な最期として。だが満員電車で自爆すれば、それはただの死ではなく私の偉大なる克服になるのだ。

 また、ここで死ね、と声がした。

 後ろのジジイが言ったのかと振り向いたが、ジジイはギョっとしただけだ。であれば間違いなく私の脳みその中身から、ここで死ね、と声がしているという事になる。

「あー、あの、次の方…」

 ピアスの若者が私をレジに呼ぶ。私はレジへ向かう。

「ファミチキください。あと、さっきのストゼロ、払います」

「…あ、ウッス。なんか、頑張って下さいね」

 ピアスの若者は本当に優しいやつだ。正気とは思えない奴に気遣いをするのは想像以上に恐ろしい。だから、彼にはちゃんと説明しようと思った。

「私ね、自爆しようと思って、体に爆弾を巻いてあるんだよ」

「…?」

 ピアスの若者はファミチキから目を離して私を見た。そして、はは、と愛想笑いをした。冗談だと思ったらしい。

「満員電車はね、本当に辛いんだ、毎日、行きたくもない会社にね。苦しんで行くんだよ。吐き気までしてね。最悪だろ」

「あー、そっすね」

「だから満員電車で自爆してやろうと思って。そうしたら私は満員電車に勝ったことになるだろ?」

 ピアスの若者は怪訝な顔をした。その顔に思う。確かに、満員電車で爆発しても別に勝ったことにはならないような気はする。だが勝ったような気もするのだ。それは大事だ。

「でもね」

 でもね?

「ここで自爆することにしたよ」

 私が取り出したスイッチを見て、若者の顔が驚き、笑った。私の目を見て恐怖に歪んだ。本気だと気づいたらしい。ああ、本当に申し訳ない。済まない気持ちでいっぱいになる。ピアスの若者は私に、

「なんで」

 と問いかけた。私は泣きながら笑いながら答えた。

「だって、みんな優しいから」

 私はボタンを押した。一秒、二秒。故障かな?

「…あー、これコー

 私は爆発した。

【終】

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