カミガタ・バニッシュメント-4

袖からはキラキラの高座が見える。
客は大入り。かの名人、眠屋小朝を見ようとすし詰め状態。
長かったな、と当の小朝は思った。

入門から磨きに磨いた落語の技量。それは僅か数年で頭角を現し、その時点で弟子の中で一番と言われるほどにまでに至った。むしろ、それがいけなかった。

独りよがりの落語に落ちて、目上の者に反発し続け、直の兄弟子の襲名を「年功序列」なんて蔑んだ。それでも落語に打ち込み続けた。それも、いかんかった。

じきに肉体と精神と芸のバランスが崩れはじめ、酒に逃げるようになる。そうなれば早い。高座でのトチり、離婚、破門寸前まで行った。そこでも「自分が一番上手い」なんて叫んでた。

それでも周りの皆が、師匠や兄さんや、他の色んな人が支えてくれて、ようやく高座に帰ってきた。

酒も女も博打も、そういう失敗はいくらでもやったが、今は一つも恐ろしくない。
小朝は、自分の心の修羅が一番恐ろしい。

すっと、横から誰ぞが手ぬぐいを差し出してきた。

「小朝兄さん…ほんまに…」

「金子、泣くの早いで、自分で使え」

「すんません…」

眠屋金子(ねむりやきんす)、下手くそやけど愛される男。自分にこんな愛嬌の一つでもあれば、もっと違った人生があったかも知れんななんて思う。

出囃子。

「行ってくるわ」

拍手、拍手、拍手。
高座には座布団一つ。どれだけ望んだことか。どれだけ時間がかかったことか。
アルコール中毒に落ちて、離婚して、全て失って、そこからの再起、時間以上に長く感じた。

そうや、芝浜をやろう。

「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな…」

するりと上着を脱ぐ。

芝浜のあらすじはこうや、酒好きの男が、浜で金子のぎょうさん入った財布を拾って、大喜びで大酒を飲んで家に帰って女房にも自慢する。女房は男が金子に目が眩んで、仕事も何もかもせんようになるんじゃないかと心配して、男が寝てる間に金子を隠してしまう。それで起きてきた男に、金子なんて知らぬ存ぜぬと嘘をつくのだ。

それで馬鹿な夢を見たと反省した男は、心機一転、酒を止めて一所懸命に働き出す。そうして三年の月日が経ち、男が自分の店を構えるほどになった年の大晦日、妻にしみじみ感謝する。その感謝に妻は謝罪で返す。いつかの金子が実は本当だったことを告白するのだ。

それに感謝する夫、酒を勧める妻。人情話だ。

小朝が客席を見ると、元妻が居た。幸子。ああ、見に来たんか。横には娘の真琴。

ふわり、とアルコールの香りが漂った。

そうや。回りオチにしよう。
酒を止めて成功した男が、酒の毒牙にまたかかる、それでこそオチや。

さあ、さあ、一杯だけ

小朝は、扇子に、扇子に、口を寄せて…

ぐい、と飲み干した。

「ヒィー!」

歓声にしては可笑しな声や。
小朝が顔を戻すと、全て消えていた。客も、高座も、上方演芸ホールも。
自分の周りは空き地。泣き声。左右には汚いビルの壁。前の道をぶぅーん、と車が走る。

悲鳴の出所は、袖のにおった眠屋金子。
なるほど、芝浜では金子は消えんかったからな。そんなことを小朝は思った。

「カミガタ・バニシング・ケース」

上方演芸ホール消失事件。眠屋小朝、最後の高座。
幻を破って、鮫を『見立て』た夜薙屋上手が小朝に食らいついた。

「兄さん!いや、小朝師匠!自分はあの日に目覚めたんですわ!やっぱり兄さんが一番やって!落語の技量だけが!全てやって!なぁ!」

上手の凄まじい気迫、凄まじい技量、凄まじい『見立て』。
体全部を使って、鮫の恐ろしさ、力強さを全力で『見立て』ている。

「…泣き虫がよく言いよるわ!ぐぁ!」

さしもの小朝も弾き飛ばされる。
幻の海の中へ落ちるが、陸を『見立て』てそこへ立った。

「ゲホ、何が目的や、金子。いや、夜薙屋上手」

小朝を中心に、尖ったモヒカンが旋回する。

「なんですの目的て、自分はただ、高座に上がって、お客さんに楽しんでもろて、元気に天国に旅立っていただきたいだけでっせ」

小朝は眉根を下げて笑った。

「変わらんなお前は、相変わらず狂っとる」

「兄さん譲りですわ!」

もはや、二人の間には幻では無く、本当の世界があった。
この落語の生み出す世界だけが二人にとっては本物で、それ以外の全てが偽物なのだ。

小朝は酸素ボンベを『見立て』た。

「あら!ジョーズしってますの!」

「アホか!スピルバーグぐらいしっとるわ!」

夜薙屋上手の口に、酸素ボンベが突っ込まれる。

「吹っ飛べ!」

「あはは!痛ぁ~~!」

平坦なリアクション。確かに上手の『見立て』た鮫の頭は吹っ飛んだはず。
それが増えている。三つ、四つ、いや、五つ。

「アホには困ってませんのや!鮫の噺は!」

「クソみたいな噺ばっかりしよってからに!」

天下の大妖刀が、鮫の頭を斬り落とす。
鮫のヒレも。鮫の足も。鮫のブリキの装甲も。
半透明の鮫は…斬れない!

「あはは!外れですわ!」

「十五年で鮫に何があったんや」

小朝は呆れながら扇子で潮風を送った。
透明の鮫はそれでようやく成仏する。

一時の静寂。

とぷん、と幻の海から上手が顔を出した。

「さて、兄さん、遊びはここまでにしましょ」

「アホ抜かせ、ずっと本気じゃ」

その瞬間に、小朝は「食い千切られた」。
鮫では無い、歯でも無い、顎でも無い。「食い千切り」の『見立て』。

「…夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」

裏噺 芝浜。

小朝の傷は消え去る。
だが、すかさず上手は超巨大な鮫を『見立て』る。

「逃がさへんで!」

「…で、なるほどな、こういうことか」

上手が『見立て』た鮫が、突然のこと真っ二つに「切り裂かれる」。
行いの『見立て』だ。極致の技芸を一瞥で小朝は真似てみせる。

「ほはは!さすが兄さん、朝飯前でんな!」

「アホ言うな、寝てても出来るわ」

「ほな、もう一段」

夜薙屋上手がつい、と扇子を動かすと、何かを『見立て』た。

ずるり、と眠屋小朝は、地面がなくなる感覚を味わった。
いや、足の下に地面はある。だが眠屋小朝という人間の、寄って立つ地面が無くなった。

「なん、やこれは」

「覿面ですなぁ、難しいけど、さすがに『死んだ』ことになってる人には効きますわ」

上手が『見立て』たのは、眠屋小朝の死んだ世界。
まさに絶技。事象の『見立て』だ。

眠屋小朝は、ぐらりと揺れると、そのまま倒れ込み…

「なんてな」

逆立ちし、上手の脇をすり抜けた。

裏噺 死神。

「お!ああ、冗談キツいわ!兄さん!」

上手の腹から血と臓物が漏れ出す。致命傷だ。

「古典はワシの十八番や。お前はどうや」

夜薙屋上手、凄まじき使い手であるが、その噺の全てが新作だった。
新作の破壊的な馬力は、都市一つを滅ぼすほどの災害となりうる。
だがその一方で理不尽なルールを生み出す古典の裏噺でなければ、致命傷の回避は難しい。

上手はにやりと笑う。

「バレてもうてましたか」

臓物が落ち、膝をつく。

「お前は昔から新作ばっかりやろが」

「じゃあ、最後っ屁させてもらいます」

つい、と扇子を動かす。
それだけで、小朝は崩れた。

上手が『見立て』たのは、「眠屋小朝の消滅」。
小朝にかけられた死の『見立て』は消えていない。それにさらに重ねた。

「…!」

小朝の体が震える。逆立ちを維持できずに倒れた。
死が迫っている。消滅もまた。

「兄さん、最期に…」

上手はそのまま倒れ込んだ。

小朝は震える手を見る。
自らの存在ごと消し去ろうとする『見立て』を返すには、一つしか無い。
全力の芝浜でもって、全てを消し去るのみ。

全てといっても、本当の全てでは無い。せいぜい、道頓堀メガマックスビルと、その周辺全てぐらい。小朝は扇子を開いた。

「小朝さん!」

眠屋キンコが涙を流しながら叫ぶ。小朝は、まあ仕方ない、見届け人は危険も仕事のウチや、と見捨てた。
生きなければならない。高座に上がらなければならない。絶対に。
あの高座を、もう一度、失ったものを、取り戻すのだ。

泣き声。

泣き声?

舞台の袖で悲鳴を上げる眠屋金子。ビルの壁。大通りを走る自動車。
泣き声がする。子供。子供?

「小朝さん!」

金子が泣き叫んでいる。上手の口がもごもごと動いた。

「……さあ、さあ、一杯だけ……」

高座。高座や。
そうや、取り戻す。全てを。名跡も、名誉も、全部。全部。
小朝は扇子に口をつけた。

裏噺の範囲は、「見てる人の分だけ」きっかり。

夜薙屋上手の懐から、スマートフォンが転がり出た。赤いランプ。
画面に映る【LIVE】の文字。視聴者数は…

「小朝さぁん!」

泣き声。子供。思い出す。空き地で泣いている子供。
芝浜で消えんかった、十五年生きる執念をくれた。自らの娘。

真琴、マコト。芝浜で消えない、ただ一つのもの。
面影がある。大きくなったな。兄さんが引きとってくれたんか。

さあ、さあ、一杯だけ…

アルコールの香り。ああ、我慢しがたい。
眠屋小朝は、扇子に口を付け、扇子に、口を付け、扇子を、置いた。

「…いや、よそう…また夢になったらあかん」

そのまま末期の息を吐くと、前に、蹲るように息絶えた。

【終】

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