カミガタ・バニッシュメント-3

カン、カン、カン

遙か上まで続く簡素な金属製の階段を、着物の男女が登っている。

「エレベーターはないんか…ハァ」

「屋上はこっちからしかいけへんねん」

ボヤく小朝に金子が答える。
道頓堀メガマックスビルは大阪最大のビルであり、今や上方の象徴といえる場所だ。
『消えた』上方演芸ホールの代わりに作られた、芸能の中心地。

「カゴでも『見立て』られんか、いや、お前みたいな下手くそには無理やな」

「はぁ!?」

眠屋金子は今生の愛弟子である。愛人だからでは無い。その腕前は若手でも随一と言われているのだ。それを侮辱されて黙っているわけにはいかない。

「裏噺なんかしたくもないけど、落語が下手くそ言われるんは癪です!」

「じゃあなんぞ噺の一つでもやってみぃ」

「…」

金子の空気が変わる。落語家の間合いだ。
息を吸うと、第一声。

「…もうええわ。下手くそ」

を、小朝が遮った。

「は!?」

金子は間合いを崩されてつんのめる。

「体丸めた『芝浜』なんぞ聞きたくも無いわ」

金子はゾっとする。
なぜ『芝浜』だと分かった?

「声は小さい、目線は低い、なんやそれは」

聞きもしていない落語に、的確な指摘が飛んでくる。
目の前の萎びた老人が、落語の修羅だと思い知らされる。

「それは…こういう場所やから」

「アホか、『誰か』に向けた落語なんざしよってからに」

金子にその言葉だけは聞き捨てならず、反論した。

「落語いうんは、お客さんのためにやるもんちゃうんですか」

小朝は、はは、と鼻で笑った。
ビッと扇子が金子を指した。心臓を貫かれたように、冷や汗が出る。

「ええか、落語いうんはな、『見てもらってる』んのとちゃうんや、『見さして』やっとるんや。」

傲慢、不遜、唯我独尊。そんな罵倒が金子の頭に浮かんだが、それを吐くことは無かった。
この男にとって、それは褒め言葉だから。

「一つ言うとくで、同情やら哀れみやら引くような、人情たっぷりの落語なんかな、クソや。そんなんはな、高座で股ひらいとんのと変わらんのや。」

金子は顔を赤くして反論しようとしたが、何も言えなかった。
目の当たりにした彼の裏噺、その技量。異様の『見立て』の鋭さたるや。

そして金子自身が落語という笑いの純粋性を追求する噺家の一人として、常に感じていた違和感があった。小朝の言葉はその答えの一つのような気がしたからだ。

「小朝さんにとって、笑いってのはなんですか」

金子が問うと、小朝は歯をむき出しにした。
食いしばるように、睨み付けるように、憎しみを込めるように、笑った。

裏噺 切々舞。

眼前の防火扉が天下の大妖刀によってバターのように切り裂かれ、雨と、風と、小型の鮫がビルの非常階段内に飛び込んできた。

「何を…!」

切り開かれたその先は、大バルコニー。大阪が一望できる高度と広さ。
小朝は、その広いバルコニーの真ん中に立つと、眼下の大阪を見下ろした。

「えらいことなっとんな、なぁ」

小朝は誰かに話しかける。金子は、それが自分にでは無いことを感じ取った。

小朝はずぶ濡れになりながらも着物を整えた。
そして正座すると、上着を脱ぐ。

入った。そのまま扇子を二、三開くと、唇を付ける。匂いがここまで漂ってきそうな甘露。ちゅ、と僅か飲む。口がアルコールでしびれる。はぁ、と一息つくと、煽る。ぐい、ぐいっと喉の奥まで…

裏噺 芝浜。

雲が消え去り星が見えた。風も。雨も消え去り、潮も消え去った。
鮫もまた、何かの夢だったかのように、瞬く間に。

大阪の街は小朝の一呑みで、鮫台風の破壊痕だけ残して、全くの平穏となった。

小朝は顔の雨粒を手のひらで拭い取る。

「衰えませんなぁ」

大バルコニーを見下ろす東屋の屋根の上から、小朝に誰かが声をかける。

「衰えるんは、下手くそやからや、なぁ、金子(きんす)」

屋根の上には、尖ったモヒカンの異形の噺家、夜薙屋上手。
それを小朝は金子と呼んだ。

「懐かしい名前でんな。今は、夜薙屋上手でやらせてもらってます」

「下手くそが独立なんぞして、何のつもりや」

「上手くなりましたで、ジョーズにね。」

小朝はハッと吐き捨てる。
上手も上着を脱ぐ。両者、離れているが、必殺の間合い。

「こんなんは、アホウドリも食わんような話ですが…」

枕。

裏噺。

「おうい、おうい、こりゃいかんぞ、今年は無理や」

浜の庄屋。

「どないしたんや。

あぁ、庄屋さん、みてくんさいな。

なんやこれ

庄屋が見たのは漁師がとった魚。これが見事な大きさやけど、真ん中からぷっつりと何かにへずられとる。

わかりまへんか?フカ、鮫でっせ

庄屋はヒャっと驚いた。それで表情はくるくると回る。怒り、悲しみ、憎しみ、歓び。それで一言。

わかりまへん

いや、鮫でっせ

わかりまへん

あんた…庄屋はん、わからへんではすまへんで

せやかて、わからへんのや

この庄屋、代々この浜の利権を持つ一族で、今年の海開きにケチがつくのを嫌がった。それで漁師の手から魚を奪い取ると、ぽーいと海へ投げ捨ててもうた。

これで鮫はおりまへんな

んなアホな

てな感じで、無理矢理にこぎ着けた海開き、浜は大盛況でございます。これには庄屋もニッコニコ。鮫のことなど忘れて浮かれ気分の一等賞。

庄屋はん、ほんまによかったんでっか?

ん?なにがですのん

だから、鮫…むぐぐ

ここでそんな言葉いわんでくれるか!

そんな言うたかて、さ…むぐぐ

だから!

分かったて、はぁ…「あの魚」がおる言うたのに…

おらへんおらへんそんなもん、気のせいや

気のせいて…

そのとき浜から悲鳴が上がります!

ワー!なんか、でっかい影が水の中をすぅーっと通りよった!

フカや!鮫や!

これには庄屋も大慌てです。

おい!黙れ!黙れ!

なんや黙れて!

あ、いや、ちゃいます。あの影は鮫ちゃいますねや

はぁ?鮫違ったらなんやねん

えっと、あの、イルカです!かわいいかわいいイルカチャン!

はぁ

ビーチボールを差し上げます!イルカチャンと遊べますよ!ほらどうぞ!

はぁ…

それで騒ぎは一旦収まりました。

あのー、庄屋はん、やっぱり閉めたほうがええんちゃいまっか

何いうとんのや!せやったらお前が赤字埋めてくれるんか!

それは無理でっけど…

せやたら黙っててくれるか!

へぇ…

と、まあ初日はどうにか無事で済んだんですな。といっても夏は長い。二日目が始まります。

いやぁ、今日も大盛況や、あっはっは、笑いがとまらんわ!

へぇ、大丈夫でっしゃろか

そんな顔しとると「あの魚」が寄ってきよるで!

顔は関係ありまへんやろ

いや、ある!笑え!

へぇ、へへ…

と、庄屋と漁師がこないに話してると、また浜から悲鳴が上がってきます。

キャー!背びれ!背びれが海面に!鮫や!

ちょちょちょ、黙って、黙って!

何!鮫やって!ほら!

女性が指さす先で、鮫の背びれがスゥー、と海に消えます。

ちちち、違います!アレはちゃいます!

じゃあなんなん!

あれは、クラゲです!そういう尖った種類の!なぁ!

へ?へぇ、そうです…

コイツは漁師ですから!詳しいです!なぁ!?

は、はい、そうです…

そうなん…?

はい!フランクフルト差し上げますから!ほら!

と、どうにかギリギリ騒ぎにならずに済みましたが、これで漁師はすっかり役にたたんくなってもうた。メソメソ泣き出す。

庄屋はん、もう無理や…

無理やない!やれば出来る!

堪忍してつかぁさい…こんなんは…

メソメソされると庄屋も苛立ってくる。そもそもは、この意気地無しの漁師が鮫の証拠を見つけたんがケチのつきはじめや。と、そこへまた浜からの悲鳴!

キャー!

なんやと駆けつけると、ばっくりと大きな口に噛み千切られた、人間が打ち上がったという。漁師はもう泣きながらナムアミダブツナムアミダブツと唱える。

鮫や!鮫に殺されたんや!

当然騒ぎは大きくなります。人だかりが出来上がります。庄屋はどうしたらいいもんかと考えて考えて、そしてこう言います。

皆さん、これは鮫ちゃいます

群衆はどよよ、とどよめきます。どう見ても鮫やろ。てなもんですな。

この漁師が!鮫を真似てこの人を殺したんです!私は知っています!

庄屋が叫ぶ、漁師はポカンとしとる。当然や。

この漁師は博打の借金とか女の恨みで、この男を殺そうと常々かんがえとったんです!それで海開きに合わせて鮫騒ぎを起こして、鮫に見せかけて殺人をしよったんです!本当です!皆さんにかき氷を配ります!

かき氷に釣られたのか、庄屋の鬼気迫る叫びに押されたんか、騒ぎは小さくなる。庄屋はこれ幸いと漁師を縛り上げる。

庄屋はん!あきませんてこんなんは!

何があかんのや!鮫はおらん!

ただ、そんな必死の庄屋の嘘もむなしく、浜では泳ぐ人がほとんどおらんくなった。これじゃあ明日以降の浜の営業が成り立たん。それを見て庄屋は着物を脱ぎ出します。

庄屋はん!何してますのや!

泳ぐんや!

正気でっか!

ワシが泳いだらみんな釣られて泳ぎにきよるやろ!

危ないでっせ!

うるさい!鮫なんぞおらん!

そう言って庄屋はザブンと海へ、漁師は気が気じゃない。

みなさーん、大丈夫です!海は安全ですよ-!

そこへ影。

庄屋はん!危ない!後ろ!あっ!

庄屋をがぶりと鮫が咥えます!

あぁ!あっ!みなさーん!大丈夫!これは鮫じゃありません!気のせいです!あぶぶぶ…

そう言って、庄屋は海へ沈んでいきました。

馬鹿馬鹿しい、金に目の眩んだ庄屋の噺。鮫でも『見立て』るか?
小朝は大刀を下段に構えた。

小朝の耳に、「ヒィー」という声が飛び込んできた。なんや?
空き地。泣き声。ここは道頓堀メガマックスビルではない。

あの日、あの時、消えたもの。
小朝が消し去ってしまったもの。

上方演芸ホール。

「兄さんは、何に目が眩んでます?」

夜薙屋上手は幻の向こうへ沈んだ。

【続】

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