おかえり。ただいま。

「おかえり。ママ、殺しといたよ」

 真っ黒の玄関の奥からパパの声がした。

 日差しに眩んだ目が慣れて、玄関の奥が見えるようになると、優しいパパの笑顔が見えた。その足元にはモップのように広がる髪の毛、その隙間からは、ママが好きなペディキュアと同じ色の液体。

 液体は上がり框からポタポタと垂れて、階段のタイルを這うよう流れ、タイルの目地をぬるぬると進み、私の靴に到達した。キィ、と玄関の扉が軋む音。

「そうだ、おやつが買ってあるんだ。シャディーズのケーキだよ。ママと買ってきたんだ」

 そう言うとパパは手に持っていたハンマーを無造作に床に放り投げ、家の奥へ消えていった。私は、私はどうしただろうか。思い出せない。ただパトカーが来て、隣の家のおばさんが抱きしめてくれて、私は。

 ーその父が獄中で死んだ。そう連絡が来ても、私は何も感じなかった。ただ「そうですか」とだけ答え、警察の人に礼を言い、遺体の引き取りを拒否した。私はあれから、あの忘れられない事件を忘れたように生きてきた。

 養父と養母には感謝しているし、愛情もちゃんとある。でも心配をかけることは出来なかったし、理解してくれるとも思わなかった。だから何を聞かれても、覚えていない、とだけ答えた。

 私自身が、あれを何も理解できていないのだ。裁判での父の精神鑑定の結果は正常だった。では父は、母は、あの日に何があったのか。それを知ろうとせずに、知らないことこそが、幸せだと信じて生きてきた。昨日までは。

「結婚しよう」

 私の前に座った、私を心から愛する人は、何一つ知らないまま私に結婚を申し込んだ。でも、私はそれに応えることが出来なかった。私もまた、何一つ知らないままだったから。

 後日、警察から父の遺品が届いた。家族の写真。父、母、私。

 パパの笑顔。

 赤い液体が、靴の先に付いたような気がした。

【つづく】

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