カミガタ・バニッシュメント

男。
着衣はボロボロだが、着物だとかろうじて分かる。
手には、汚れてすり切れた扇子が握られている。

噺家だ。

「おつとめご苦労さん」

その噺家の前、豪華な着物を着た、また噺家が言った。
じろり、と、ボロボロの男が睨んだ。

そして一言。

「何の用や」

通る声だ。
その声に気圧されたか、豪華な着物の噺家は、口をムッと結んでから答えた。

「兄弟子にそんな無礼な口、よう叩くな」

「それは兄さんが下手くそやからや」

二人の後ろに控えていた男が顔をゆがませた。
当然だ。この下手くそと罵倒された男こそが栄えある上方落語の顔だからだ。

(こん人は上方落語協会の理事やぞ!何様やこいつ!)

だが、その上方落語協会の理事は、不快を顔に出すことすらせず、にやりと笑った。

「変わらんな、小朝。」

ボロの男も薄く笑った。

「今生兄さんの腕はちょっとは上がりましたか?」

「かぁ-!憎い口ききよる!」

上方落語協会理事。眠屋今生。
人間国宝も視野に入るほどの名人と言われている。

ならばその対面に座る、ボロの男は誰だ?
後ろの男はその顔を見て必死に思い出そうとするが、全く分からなかった。

それをボロの男が見咎めた。あまりに鋭い目。

「なんやボウズ、ワシに用か?」

「あっ、スンマセン!」

反射的に謝るが、ジワっと汗が滲んだ。死の予感。

「ま、気にしやんな。用があるのは俺や」

そこへ、今生の明るい声が飛び込んできて、死の気配は消え去った。さすがは眠屋今生。
その今生は懐から扇子を取り出し、また声色を変えた。

「コイツを"消して"欲しい」

ボロの男は扇子を手に取り、開いた。

『噺は落語にあらず、裏噺こそ落語なり。夜薙屋上手』

扇子を閉じる。
そして噛みしめるように呟いた。

「…『裏噺』。」

「仕遂げたら、何でも願いを叶えたる。俺にできる限りは。これでも理事や。」

ボロの男はその言葉に、ふっと息を吐くと、茶を啜って、少し間を開けた。
そして二言は無いなと念を押すように睨むと、口を開いた。

「…高座に上がりたい」

今生は、また口をムっと結んでから答えた。

「決まりや。おかえり、眠屋小朝。」

眠屋小朝。

その名前に、後ろに控えていた男は今度こそ、死ぬと思った。
カミガタ・バニシング・ケースの眠屋小朝。それが。この男。

「おう、叔父の祝いや!」

今生は、また明るい声を上げると、パンパンと手を叩く。
そうすると扉を開けて、理事室に今生の弟子がわらわらと現れた。

「新しい着物と、散髪と、いや、まずシャワーやな!」

「兄さん、ちょっとまってんか」

「なんや小朝」

「こいつ誰でっか?」

小朝が扇子で指したのは、痩せた暗い赤色の着物の男だった。
今生は小朝に説明しようとした。

「あ?あーコイツは、えっと、誰やっけ?」

だが覚えがない。

暗い赤色の着物の男は、ゆらりと答えた。

「へぇ、…まあなんといいますか、バカもハサミも使いようと申しますが」

枕。

『裏噺』

「使いようによっちゃ切れるっていう話でしょうが、始末に負えない刃物ってのは切れすぎるもんでございます。ここで話をお一つ。

『切々舞』

昔々にあるところ、お殿様がおりましたんや。そのお殿様は、まつりごと、政治ですな、これはからっきし。お殿様になったのも長男だからって言うんで、嫌々なったような人やった。だけど、どんな人にも長所ちゅうのはあるもんで、このお殿様も大層な特技をもってはった、それが刀鍛冶。こう鉄をカーン、カーンと打って、刀を作る奴ですな、それの腕前がそらもう凄かった。それで、ある日、一本の刀を打つと、試し切り役を呼びつけはった。

おい、浅の助、これへ

いやぁ~へいへい、上様、ご機嫌麗しゅう

なんてもんで浅の助が駆けつけましたんや。そこへお殿様が、刀を一振り、ずるりと出しはった。

これだ

拝見いたします…これは!

これに浅の助は驚いたのなんの。お殿様の腕がいいのは知ってたけども、試し役として古今東西の名刀を見続けた浅の助でも、生まれてこのかた見たこと無いような、それは見事な刀やった。

これを試して欲しい

ははぁー!

と、言うわけで刀の切れ味を試すために、庭一杯に罪人の死体が集められたんですな。昔は刀を試すなら人間、人間なら罪人の死体、ということで、これが一般的やった。

ではこれへ

浅の助が刀を構えて、スッ、と下ろすと、何の手応えも無く死体が真っ二つになる。これはすごいと何度も何度も、場合によっては何体重ねても、何の手応えも無く綺麗に切れる。浅の助は感心して、お殿様に報告したんですな

殿、これは天下一の名刀でございます。浅の助の名にかけて、これに斬れぬものはないと保証いたします。

これにお殿様は喜んだ。そしてその刀に『切々舞』と名前を付けて、これぞ天下の名品と自慢しはったんですわ。当然、城下町にもその評判が届きます。

おう、なんでもウチの殿様がとんでもあらへん刀を打たはったらしいで

そうなんでっか

おうよ、胴をなんぼ並べてもバッサバッサと手応え無しに、まるで蒲鉾みたいに切ってしまうらしいで

はぁ~、そらすごい、誰が試しはったんですか

そら、お城の浅の助はんやろ

お殿様の刀をお殿様の家来が試すんでっか

それもそやな

そら気ぃ使ってしゃあないですわな

確かに「なんでも斬れる」いうんは、おべっか使いすぎやわ!

と、こんな話になってもうた。これに納得できひんのがお殿様や。

浅の助、試しに手心は加えまいな?

こう問い詰めるわけや、こんなん言われたら、試し役として使えてる浅の助のプライドもある。

今も昔も一切の手心は加えておりません。

とまあ当然こうなるわけや。でも口でどう言っても、噂ばっかりはどうしようもあらへんもんで、これをどうにかするには、絶対に斬れんもんをバッサリ行くしかないという話になった。

余の鎧兜をこれに

はっ

と、浅の助がピュッと『切々舞』を振ると、ずんばらり、と大名の拵えた立派な鎧兜が真っ二つ。これはまさに斬れぬ物なしと浅の助が感心していると、お殿様が言いはった。

いや、この鎧兜は当家のお抱えの名匠の作品

いかにもそうでございましょう

故に、試しのために手心を加えたと言われかねん

お殿様はすっかりと疑心暗鬼になってしまわはったみたいで、鎧兜じゃ不十分やと言い出しはった。それなら最初から斬らんでも良かったわけやけど、まあ仕方ない。もっと斬れんもんはないかと相談になる。

父上の菩提寺に鉄灯籠がある、アレを斬ってはどうか

と、お殿様がそういわはる。そうなったらもう止めるものは、おりませんので、早速寺へ行く。

まあまあ、お殿様ようきはった、墓参りですかな?

と、住職が出迎えるのもそこそこに、浅の助と一緒に鉄灯籠の前へ。そして浅の助がムンッと刀を振り下ろせば、スッパリと鉄灯籠が斬れて落ちた。

おあ、これは…!

住職が目を白黒させるのを横目にして、浅の助が刀を褒める。

まさに天下一品の切れ味。これ以上の試しは必要ないでしょう。

だけど、お殿様、まだまだ疑心暗鬼がとけへん。

思えば、この鉄灯籠も当家の職人が作ったもの、これも斬れるよう手心を加えられていたのではないか?

なんと、疑り深いお殿様やと浅の助が天を仰げば、この寺ゆかりの偉い上人さんが作らせた、でっかい鐘が釣り下がってる。で、お殿様も気づいてしまった。

お殿様、ご容赦ください、ご容赦ください

と、住職が止めるのも聞かんと、浅の助これへ、と言うと、浅の助がキェー!と一振り。まあ見事に梵鐘が真っ二つになってもうた。浅の助もがまた褒める。

まさに天下に大音声にて轟く名刀にございます。かの名高き上人の鐘を真っ二つとは。

だけどお殿様は納得せぇへん。

その上人、何年前の坊主か?

住職がようやく気を取り直して答えます。

はぁ、この寺の出来たときですから、124年前でございます

そんな古い鐘、錆びておったのではないか?

まあ、これに住職は食ってかかった。寺の宝の梵鐘を斬られた挙げ句に難癖まで付けられたんやから当然です。

この梵鐘はまさしく上人の法力で錆び一つなく今日まで至っておりますれば、その上人の法力を疑うことは、仏法への誹りでございますぞ!

と来る。これに併せて浅の助も

まさしく神通力の法力を、一切ものともしない切れ味にございますれば、これぞ天下の名刀でございます

と褒めあげる。それを聞いたお殿様ははたと気づいて、こういわはった。

あいや、120年も前の坊主の神通力などきっとたかが知れている、やはり今生きているありがたい坊主を斬ってこそ、名刀の証となろう

と言うわけで、住職を見た。それで浅の助が切りにくそうな顔をすると、お殿様はまさにしたりと言った顔をしはる。

やはり、法力、神通力のなんと斬りがたきことか!浅の助!これへ!

ご容赦を、ご容赦を!

浅の助がエイヤと刀を振り下ろすと、寺の住職は真っ二つ。浅の助がすかさず褒める。

まさに神通力をも切り捨てる、三千世界に二つと無き真の名刀にございます。

と、でもまだお殿様は暗い顔をしてはる。

どうなされましたか?

やはり、こやつも当家の菩提寺の住職。斬られるにあたって神通力を弱めて手心を加えたのではないか?

とおっしゃる。これはもうどうしようも無いと浅の助が思ったとき、お殿様が閃いた。

そうだ、浅の助、余を斬れ!

いやいやいやいや、無理にござる、無理にござる!

余ならば斬られるとき、きっと手心など加えはせん!斬れ!斬ってくれ!

浅の助は言葉では無理と土下座をして許しを請う。そうやって問答をしていると、寺に馬が駆け入ってきた。何用か、今取り込み中であると、お殿様が尋ねれば、こう答えた。

刀鍛冶にうつつを抜かすならばまだしも、菩提寺にての乱行の数々、長子なれどもはや当主の器にあらずと弟君が名乗りを上げて、今まさにご当主となられた。

と、そして続けてこういった。

乱行の責、甚だ重く、もはや蟄居や流刑の沙汰ではおさまり申さぬ故、腹を切られよ!おお、浅の助殿、丁度良きところにおられた。介錯をお頼み申す。

それを聞いた、元お殿様。

浅の助!これで斬れるな!

深夜。理事室。暗い赤色の着物の男は、つい、と扇子の鯉口を切った。

『裏噺』とは、研ぎ澄まされて異能にまで昇華された『見立て』の技だ。
噺家が、扇子を箸だと『見立て』て、蕎麦を食う仕草をすれば、まさにそこに蕎麦が見える。

さらに突き詰めると、重みが出る。香りまで。味が分かる。
ならばもう、それはそこに、蕎麦が在るのだ。

『裏噺 切々舞』

天下無双の大妖刀の噺ならば、何を『見立て』るか?一つだ。

するする、と暗い赤色の着物の男が人と人の間を通り抜ける。

「お前!」

ただならぬ存在感に、今生が叫ぶが、もう遅い。
理事室一杯の上方落語家は、何も噺さぬ、血の滴るブロック肉となって床へ落ちた。

「へい、ご紹介に預かりました、夜薙屋上手の弟子をさせていただいております、夜薙屋炭蔵でございます。」

暗い着物の男は、夜薙屋炭蔵は、扇子を、天下無双の大妖刀を、肩に担いだ。

「くそ!上手の刺客か!逃げろ小朝!」

今生が炭蔵の前に立ち塞がるが、小朝は迷惑そうな顔をした。

「逃げるっちゅうんは、この下手くそからかいな」

「お前、まだそんなこと…!」

ずい、と小朝が前に出て、名乗った。

「噺家しとります、眠屋小朝いいます」

それは、語りかけるような口調だが、ただ事実を述べるように堅く、心に入り込むというよりは壁を無理矢理壊すような、鋭い名乗りだった。

そのまま、小朝は扇子を逆手に持つと、匕首に『見立て』た。

「小朝師匠、勉強させていただきます。でも、ちょっと期待外れやわ」

炭蔵が躍りかかる。
切々舞は天下一の大刀。対して、小朝の「見立て」は銘もない匕首。

勝負にならない。と、思ったが、切り結ぶ内に、炭蔵は焦り始めた。
優位のはずの自分の攻撃が当たらない。

上方落語協会ビルの地下に長年幽閉されていたはずのロートルの小朝に、夜薙屋上手の元で磨き上げた若く逞しい自分の噺が通じない。

小朝の痩せた腕が、小朝の変形した足が、何故そんなに動くのか。

答えは単純。裏噺家の戦いは身体能力で決定されるものではないからだ。
ただただ磨き上げた話術。それだけが戦いを『見立て』、殺し合いを『見立て』、相手の死を『見立て』るのだ。だが!

「おっと」

小朝の足が、ボロになった着物の裾を踏んだ。ブランクか、老いた肉体の限界か。

(好機!)

それを見逃さず、炭蔵は大きく踏み込み、小朝の匕首をすり抜けて『切々舞』を小朝の腹に深々と突き刺した。臓物の感触に、うひ、と炭蔵の口から歓びが漏れる。

「自分の勝ちですわ!小朝師匠!」

そのとき、匕首が開いた。違う、小朝の扇子が、みっつ、よっつほど、開いた。

「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」

枕。

小朝は、その半開きの扇子を口元へ持って行くと、端を舐めた。香る。
あぁ、酒だ。甘露だ。杯だ。そのまま口を付けると、ぐぅっと一気に飲み干した。

『裏噺 芝浜』

炭蔵の手には扇子がある。違う、これは切々舞のはずだ。だが扇子だった。小朝の腹に、扇子が当たっている。血も、臓物も、刀も、消え失せた。

「え?」

炭蔵は何が起こったか分からなかった。

「ええ噺やな、もらうで」

小朝はそう言うと、杯を抜刀した。違う、大刀だ。
それは天下無双の大妖刀、『切々舞』ではないか。
事態を飲み込めず驚く炭蔵の眼の前で、踊るように名刀が翻った。

首、胸、腰。
そこから炭蔵は切り離されて、ブロック肉となって理事室の床に落ちた。

「と、まあ、こんな具合の噺でした」

小朝が大刀を鞘に、いや、開いた扇子を閉じると、そこには理事室一杯の屍があるのみだった。

「うっ」

噺の余韻が終わり、目の前に広がるばかりの凄惨な光景に、眠屋今生はえづいた。

今生も、話は聞いていた。
小朝がなぜ上方落語協会ビルの地下に幽閉されるに至ったか。
その出来事に至るまでの、小朝の来歴も。人格も。知っているはずだった。

「…小朝、大丈夫か」

今生はいま一度、小朝の人間性を確かめようと、気遣った。

「あぁ、こいつもえらい下手くそやったな。兄さん、先にメシにしましょ」

今生は、自分が何を呼び起こしたのか知り、ようやく後悔した。

夜、道頓堀。光り輝くグリコの広告が、道頓堀の汚い水面に反射する。
堀をまたぐ橋の上では、キャッチが群れの魚を追い込むように、通行人の塊をつついていた。

「あれ、お姉さん着物キレイやん」

黒く乱れたスーツのキャッチの男が、さも世間話のように女性に声をかけた。

「ありがと、待ち合わせやねん」

けんもほろろ、着物の女性は用事があると断るが、ここで引けばキャッチじゃない。

「待たせる男より、待ってる男、ウチのタコヤキホストはいつでもアッツアツでお出迎えしますで!」

女性は思わず吹き出した。

「兄さんオモロいなぁ」

「でしょ、お店来ます?」

いい雰囲気だ。が、キャッチの男の顔が突然、蒼白になった。
女の背に、小汚い老人がいたからだ。

「あぁ、自分か迎えは。で、お前はなんや」

キャッチの男は、現れた老人にひとにらみされただけで、何も言えなくなった。

その男は、丸坊主の痩身。着衣は地味な着物。すりきれた扇子を手に持っている。
噺家なのだろう。だがその人を射殺すような目は、むしろキャッチの男の店にたまに来る、反社会的勢力の人間の目を思い出させた。

「……なんでもないです…」

キャッチの男は利口にフェードアウトした。

「…で、宿はどこや」

丸坊主の噺家、眠屋小朝は着物の女に話しかけた。

「はい、ご案内します」

「えらい礼儀正しいな。今生のイロか?」

着物の女は眉をつり上げる。

「自分は、眠屋金子(ねむりやかなこ)いいます!れっきとした噺家です!」

今度は小朝が眉をつり上げた。

「なんや、兄さんは弟子に手ぇ出しとんのか」

「な…!」

さらに金子が反論しようとした時、道頓堀大型街頭モニターに黒い和服の男が映った。

『どうも、小朝師匠。絶賛逃走中の夜薙屋上手でございます』

ざわざわと、道頓堀の雑踏の聴衆がモニターを見上げる。小朝の顔が歪む。
夜薙屋上手と名乗った男の頭は、尖ったモヒカン。手には朱塗りの扇子。
異形の噺家だ。

するりと上着を脱いだ。

『ところで、ま、こいつは、アホウドリも食わんような話ですが…』

枕。

裏噺 鮫台風

『あるところに、心配性な男がおりましたんや。これがまたほんまに病的なほど心配性で、雲が見えたら雨が降る、傘を持っていこう。なんてのは序の口で、雲が見えたら雨が降る、雨が降るから大水になる、大水になるから船を持って行こう、なんて言い出すような、どこに出しても恥ずかしくないようなほんまの心配性の男やった。

もぉ、あんた。また今日も心配して仕事いかへんのか

とカカアが言うわけやけど、男も言い返す。

アホいうな、昨日は現場ででっかい柱持ち上げたんや。でも、そんなんが落ちてきたらひとたまりもあらへんから、だから親方にもっと縄をたくさん結え付けたほうがええっちゅうたんや。

ほんで?

ほんで柱にぎょうさん縄を結んだんやけど、今度は使う滑車が古い奴やったんや、それやったらそれをなおさなあかんやろ

はぁ

それでそれをなおそうっちゅうて、なおしたんや。で次に見たら、縄引く奴がひょろひょろの奴ばっかりや

へぇ

だからそいつらに飯食わせたれ言うて、飯食わせたったわけや。そんで柱持ち上げようとなったんやけど、向こう側に倒れちゃいかんと思って、柱が倒れんように囲いを作ったんや

なるほど

それで昨日は仕事終わりや

あんた!柱持ち上げてへんやないの!

そうやねん、それで親方にもう来るないわれて

あぁっ、あんた、クビになってるやないの!

しゃあないやないか

しゃあないって、アンタが心配性すぎるんや!

もう済んだことはええやないか。兎に角、明日は雨らしいから、土間に土嚢を積むから手伝ってくれんか

もう、雨が降るたびに土嚢つむんも、もう止めて欲しいわ

それと壁をまた厚くしてもらおう思ってな、今月中に工事してもらうさかいに

んまあ!仕事クビになってんのに何考えてるん!金はどうすんの!

それとこれとは別やがな。命にはかえられんやろ。

あんたな!生活にも金がかかんの!もう、我慢できへん!

なんや

アンタとは一緒におられへん!実家に帰らせてもらいます!

なんや!俺もお前が安心してすごせるようにおもてやってるのに、なんやその言い草は!

しりまへん!一人でいくらでも壁を厚くしといてくんさい!

と、まあ、こんな具合に女房は実家に帰ってもうた。それで男が分厚い壁の家で一人寝転んどると、知り合いの虎吉が駆け込んできた。

おい、おい!しっとるか!

なんやなんや。

今度の台風は凄いらしいで!

どんなすごいんや

なんでも、琉球の城が吹っ飛んだとか!

んなアホな!

まあ、虎吉もおおげさにいっとるんやろうと思いはしますが、この男は心配性。それも病気の一種と言うほどの心配性でございます。次第に心配になってきた。

どないしよう…ウチの壁でもつんやろか…いや、ウチは大丈夫や。城下町で一番丈夫なんはウチの壁やて親方も言うとった。

でも、心配は徐々に別の方向へ移ります。やはり憎み合っても夫婦は夫婦。男の心配は家を出て行った女房のことになる。

あいつ…実家言う取ったけど、あいつの実家は農家やないか。農家の壁では、台風は防げへんのやないか?

まあ、農家にも雨戸ぐらいはあります。でも雨戸ぐらいで安心する男ちゃうわけですな。

こりゃいかん。あいつだけでも助けださなあかん!

というわけで、心配性の男は、嵐がまもなく来ると言うのに家を飛び出して女房の元に走り出しました!で、場面は変わって、お城の天守閣。老中が目の前から来る真っ黒な雲を睨んでおります。

おお、これはならん、こんな台風は見たことあらへん

これに部下の男も頷くわけです

はい、こないな強い台風は初めて見ました。でもお城ならなんのことはありまっしゃらへんでしょ

いいや…見ろ

老中がすっと指さしたのは、台風で巻き上げられる海の水。その巻き上げられる水に混ざっているのは、魚。その中でも大きな大きな、鮫!鮫!鮫!鮫を大量に巻き込んだ台風が、城下町に向かって進んで来ている!

ウワー!鮫やー!

台風が上陸するやいなや、城下町は大パニック。風に巻き上げられた鮫が、空中を泳いで、人に襲いかかります!その城下町を走り抜けるのは、心配性の男!

いやぁ、やっぱりとんでもないことになっちまった!

そこへ、鮫が襲いかかる!

ええい!このやろう!

てなもんで、男は飛び来る鮫を躱して叩いて、どうにかこうにか妻の実家にたどり着いた。

おおい!居るか!

あぁ、アンタ、なにしにきたんや!

何って、助けに来たんや!

ひしっと抱き合う夫婦、しかし家の雨戸を突き破って鮫が飛び込んでくる!

うわー!コノヤロウ!よし、逃げるぞ!

えぇ、どこへ!

ウチや!こないだ壁を増築したんや!こんな鮫でも全然へっちゃらや!

アンタ!!

また壁になんて金使って!!

こんなように鮫より先に、女房に食いつかれたって話でした。

夜薙屋上手の語ったのは、町一つが台風により壊滅する噺だった。
何を『見立て』るか。それは世にも恐ろしい…

夜薙屋上手が扇子をくるくると頭の上で回すと、空気が、風が、嵐が、渦を巻いて大阪の街を包み込んだ。

道を大粒の雨が叩き、すぐにバケツをひっくり返したような雨になる。
雨に塩味がつく。暴風が街を彩るネオン看板を引きちぎり、凶器へ変える。
そして潮と混ざった嵐に、流線型の影が見え隠れする。

キャッチの男が叫んだ。鮫や。

その夜、大阪は災害に飲み込まれた。有史以来の初の、鮫台風に。

「ほんまにアホみたいな噺やな」

眠屋小朝は妖刀に『見立て』た扇子で鮫を斬り捨てながら、噺の出来に文句を言った。

「小朝さん、どうにかしてくださいよ!」

横の金子がへたりこみながら小朝に向けて叫ぶが、それを気にする様子もない。

金子は、今生から小朝が夜薙屋のような『魔人』になっていると確信したら、すぐに逃げてこいと指示を受けていた。

金子の目には、小朝は人としてあるべき何かが決定的に失われているように見える。

「どうにかすんのはちょっと後や」

睨み付ける金子を知ってか知らずか、小朝はゆるりと構える。
その先、道頓堀の橋の向こうに、真っ白の着物を着た老人が立っていた。
すわ、幽霊かと思う。否。手には扇子。噺家だ。

にっこりと名乗った。

「夜薙屋半纏いいます」

「眠屋小朝」

お互いの名乗りは短かった。
二人とも、瞬く間に致死の間合いに捉えると、何の躊躇も無く、攻撃した。
双方、まるで防御を考えていないような攻撃。血と、肉片と、漿が飛び散る。

半纏の無手の抜き手が、小朝の肺臓を抉った。
同時に、小朝の大刀が、半纏の心臓を貫いた。

相打ちか?違う。小朝が笑った。

「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」

枕。杯に口を付ける。裏噺 芝浜。

小朝の傷は全て消え去った。これで死ぬのは半纏一人。
だが半纏も笑った。

「流行廃りってのはあるもんですが」

枕。

半纏は、くるり、と逆立ちをした。

裏噺 死神。

半纏がパンパンと草鞋を合わせて音を出した。

「続きやりやしょうや」

「へぇ」

小朝は笑った。

暗闇の道頓堀、天気は嵐時々鮫。鮫は通行人を食い漁り、その血を嵐が洗い流す。
全ては道頓堀の露と消える。カーネルサンダースのように。

橋の上には笑う不死の修羅が二人のみ。

グリコが一瞬だけ瞬き、金子が叫ぶ。

「小朝さん!コイツの目的は…!」

「時間稼ぎやろ」

妖刀が疾走る。致死の煌めきが、死装束を切り裂いた。
それでも白い死神は、笑顔のまま草鞋で斬撃を捌く。
交錯。また両者が致命傷を負う。

「夢ってのは…」

「流行廃り…」

そしてまた裏噺が生死を入れ替える。
それが何度も、何度も繰り返された。

(決め手が無い…いや)

金子は小朝が何かを狙っていることに気づいた。

「千日手ですなぁ!」

逆立ちした半纏が蹴りを繰り出す。
そこへ小朝が雑な一歩を踏み込み、大上段から袈裟に斬る。

また両者致命傷。

「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」

「流行廃りがございま…」

裏噺。生死が入れ替わり…上下入れ替わった半纏が倒れた。

「これは…!」

小朝の手には、大刀では無く扇子がある。

小朝は芝浜で、自らの攻撃自体を消し去ったのだ。
それに反応できず、死神の『見立て』のために逆さになり、生死を入れ替えた半纏が死んだ。

これを、噺の戦いの中で、どんな間、どんな技量を使えば実現できるのか、見当もつかない。
ごくり、と金子はつばを飲み込んだ。

眠屋小朝という男の噺の技量は卓越というレベルを超えている。

「こいつは、まあまあ下手くそやったな、ゲホッ…」

「小朝さん!」

小朝の口から真っ赤な血が流れ出る。金子は目を見開いた。
芝浜で自分の攻撃を消したと言うことは、半纏から受けた致命傷を消していないということだ。

「カハァー、夢、ってのは、都合のええこと、ばっかり…」

扇子の杯を飲み干すと、小朝は持ち直した。
金子は小朝に駆け寄る。

「大丈夫ですか!」

「ハァー…、なんや小娘、いっちょ前に他人の心配か」

「そんなんちゃいます。鮫台風おさめる前に死なれたら困るからです」

小朝は珍しく憎らしげな顔をすると、一人で歩き出した。

「ちょっと!」

「ここじゃあ無理や。アレのぼるで」

道頓堀メガマックスビル。
大阪で最も高い場所。

「バカもおるかも知らんな、煙と一緒やさかいに」

小朝は何かを期待するように、血にぬれた口元を拭い、すり切れた扇子をパチパチと鳴らした。

カン、カン、カン

遙か上まで続く簡素な金属製の階段を、着物の男女が登っている。

「エレベーターはないんか…ハァ」

「屋上はこっちからしかいけへんねん」

ボヤく小朝に金子が答える。
道頓堀メガマックスビルは大阪最大のビルであり、今や上方の象徴といえる場所だ。
『消えた』上方演芸ホールの代わりに作られた、芸能の中心地。

「カゴでも『見立て』られんか、いや、お前みたいな下手くそには無理やな」

「はぁ!?」

眠屋金子は今生の愛弟子である。愛人という意味では無い。その腕前は若手でも随一と言われているのだ。それを侮辱されて黙っているわけにはいかない。

「血なまぐさい裏噺なんかしたくもないけど、落語が下手くそ言われるんは癪です!」

「じゃあなんぞ噺の一つでもやってみぃ」

「…」

金子の空気が変わる。落語家の間合いだ。
息を吸うと、第一声。

「…もうええわ。下手くそ」

を、小朝が遮った。

「は!?」

金子は間合いを崩されてつんのめる。

「体丸めた『芝浜』なんぞ聞きたくも無いわ」

金子はゾっとする。
なぜ『芝浜』だと分かった?

「声は小さい、目線は低い、なんやそれは」

聞きもしていない落語に、的確な指摘が飛んでくる。
目の前の萎びた老人が、落語の修羅だと思い知らされる。

「それは…こういう場所やから」

「アホか、『誰か』に向けた落語なんざしよってからに」

金子にその言葉だけは聞き捨てならず、反論した。

「落語いうんは、お客さんのために、見てくれる人のために、やるもんちゃうんですか」

小朝は、はは、と鼻で笑った。
ビッと扇子が金子を指した。心臓を貫かれたように、冷や汗が出る。

「ええか、落語いうんはな、『見てもらってる』んのとちゃうんや、『見さして』やっとるんや。」

傲慢、不遜、唯我独尊。そんな罵倒が金子の頭に浮かんだが、それを吐くことは無かった。
この男にとって、それは褒め言葉だから。

「一つ言うとくで、同情やら哀れみやら引くような、人情たっぷりの落語なんかな、クソや。そんなんはな、高座で股ひらいとんのと変わらんのや。」

金子は顔を赤くして反論しようとしたが、何も言えなかった。
目の当たりにした彼の裏噺、その技量。異様の『見立て』の鋭さたるや。

そして金子自身が落語という笑いの純粋性を追求する噺家の一人として、常に感じていた違和感があった。小朝の言葉はその答えの一つのような気がしたからだ。

「小朝さんにとって、笑いってのはなんですか」

金子が問うと、小朝は歯をむき出しにした。
食いしばるように、睨み付けるように、憎しみを込めるように、笑った。

裏噺 切々舞。

眼前の防火扉が天下の大妖刀によってバターのように切り裂かれ、雨と、風と、小型の鮫がビルの非常階段内に飛び込んできた。

「何を…!」

切り開かれたその先は、大バルコニー。大阪が一望できる高度と広さ。
小朝は、その広いバルコニーの真ん中に立つと、眼下の破滅する大阪を見下ろした。

「えらいことなっとんな、なぁ」

小朝は誰かに話しかける。金子は、それが自分にでは無いことを感じ取った。

小朝はずぶ濡れになりながらも着物を整えた。
そして正座すると、上着を脱ぐ。

入った。そのまま扇子を二、三開くと、唇を付ける。匂いがここまで漂ってきそうな甘露。ちゅ、と僅か飲む。口がアルコールでしびれる。はぁ、と一息つくと、煽る。ぐい、ぐいっと喉の奥まで…

裏噺 芝浜。

刹那、雲が消え去り星が見えた。風も。雨も消え去り、潮も消え去った。
鮫もまた、何かの夢だったかのように、霞の奥へ。

大阪の街は小朝の一呑みで、鮫台風の破壊痕だけ残して、全くの平穏となった。

小朝は顔の雨粒を手のひらで拭い取る。

「衰えませんなぁ」

大バルコニーを見下ろす東屋の屋根の上から、小朝に誰かが声をかける。

「衰えるんは、下手くそやからや、なぁ、金子(きんす)」

東屋の屋根の上には、尖ったモヒカンの異形の噺家、夜薙屋上手。
それを小朝は金子と呼んだ。

「懐かしい名前でんな。今は、夜薙屋上手でやらせてもらってます」

「下手くそが独立なんぞして、何のつもりや」

「上手くなりましたで、ジョーズにね。」

小朝はハッと吐き捨てる。
上手も上着を脱ぐ。両者、離れているが、必殺の間合い。

「こんなんは、アホウドリも食わんような話ですが…」

枕。

裏噺。

「おうい、おうい、こりゃいかんぞ、今年は無理や」

浜の庄屋。

「どないしたんや。

あぁ、庄屋さん、みてくんさいな。

なんやこれ

庄屋が見たのは漁師がとった魚。これが見事な大きさやけど、真ん中からぷっつりと何かにへずられとる。

わかりまへんか?フカ、鮫でっせ

庄屋はヒャっと驚いた。表情はくるくると回る。怒り、悲しみ、憎しみ、歓び。最後には表情が消え去った。それで一言。

わかりまへん

いや、鮫でっせ

わかりまへん

あんた…庄屋はん、わからへんではすまへんで

せやかて、わからへんのや

この庄屋、代々この浜の利権を持つ一族で、今年の海開きにケチがつくのを嫌がった。それで漁師の手から魚を奪い取ると、ぽーいと海へ投げ捨ててもうた。

これで鮫はおりまへんな

んなアホな

てな感じで、無理矢理にこぎ着けた海開き、浜は大盛況でございます。これには庄屋もニッコニコ。鮫のことなど忘れて浮かれ気分の一等賞。

庄屋はん、ほんまによかったんでっか?

ん?なにがですのん

だから、鮫…むぐぐ

ここでそんな言葉いわんでくれるか!

そんな言うたかて、さ…むぐぐ

だから!

分かったて、はぁ…「あの魚」がおる言うたのに…

おらへんおらへんそんなもん、気のせいや

気のせいて…

そのとき浜から悲鳴が上がります!

ワー!なんか、でっかい影が水の中をすぅーっと通りよった!

フカや!鮫や!

これには庄屋も大慌てです。

おい!黙れ!黙れ!

なんや黙れて!

あ、いや、ちゃいます。あの影は鮫ちゃいますねや

はぁ?鮫違ったらなんやねん

えっと、あの、イルカです!かわいいかわいいイルカチャン!

はぁ…?

ビーチボールを差し上げます!イルカチャンと遊べますよ!ほらどうぞ!

はぁ…

それで騒ぎは一旦収まりました。

あのー、庄屋はん、やっぱり閉めたほうがええんちゃいまっか

何いうとんのや!せやったらお前が赤字埋めてくれるんか!

それは無理でっけど…

せやたら黙っててくれるか!

へぇ…

と、まあ初日はどうにか無事で済んだんですな。といっても夏は長い。二日目が始まります。

いやぁ、今日も大盛況や、あっはっは、笑いがとまらんわ!

へぇ、大丈夫でっしゃろか

そんな顔しとると「あの魚」が寄ってきよるで!

顔は関係ありまへんやろ

いや、ある!笑え!

へぇ、へへ…

と、庄屋と漁師がこないに話してると、また浜から悲鳴が上がってきます。

キャー!背びれ!背びれが海面に!鮫や!

ちょちょちょ、黙って、黙って!

何!鮫やって!ほら!

女性が指さす先で、鮫の背びれがスゥー、と海に消えます。

ちちち、違います!アレはちゃいます!

じゃあなんなん!

あれは、クラゲです!そういう尖った種類の!なぁ!

へ?へぇ、そうです…

コイツは漁師ですから!詳しいです!なぁ!?

は、はい、そうです…

そうなん…?

はい!フランクフルト差し上げますから!ほら!

と、どうにかギリギリ騒ぎにならずに済みましたが、これで漁師はすっかり役にたたんくなってもうた。メソメソ泣き出す。

庄屋はん、もう無理や…

無理やない!やれば出来る!

堪忍してつかぁさい…こんなんは…

メソメソされると庄屋も苛立ってくる。そもそもは、この意気地無しの漁師が鮫の証拠を見つけたんがケチのつきはじめや。と、そこへまた浜からの悲鳴!

キャー!

なんやと駆けつけると、ばっくりと大きな口に噛み千切られた、人間が打ち上がったという。漁師はもう泣きながらナムアミダブツナムアミダブツと唱える。

鮫や!鮫に殺されたんや!

当然騒ぎは大きくなります。人だかりが出来上がります。庄屋はどうしたらいいもんかと考えて考えて、そしてこう言います。

皆さん、これは鮫ちゃいます

群衆はどよよ、とどよめきます。どう見ても鮫やろ。てなもんですな。

この漁師が!鮫を真似てこの人を殺したんです!私は知っています!

庄屋が叫ぶ、漁師も群衆もポカンとしとる。当然や。

この漁師は博打の借金とか女の恨みで、この男を殺そうと常々かんがえとったんです!それで海開きに合わせて鮫騒ぎを起こして、鮫に見せかけて殺人をしよったんです!本当です!皆さんにかき氷を配ります!

かき氷に釣られたのか、庄屋の鬼気迫る叫びに押されたんか、騒ぎは小さくなる。庄屋はこれ幸いと漁師を縛り上げる。

庄屋はん!あきませんてこんなんは!

何があかんのや!鮫はおらん!

ただ、そんな必死の庄屋の嘘もむなしく、浜では泳ぐ人がほとんどおらんくなった。これじゃあ明日以降の浜の営業が成り立たん。それを見て一肌脱ごうと、庄屋は着物を脱ぎ出します。

庄屋はん!何してますのや!

泳ぐんや!

正気でっか!

ワシが泳いだらみんな釣られて泳ぎにきよるやろ!

危ないでっせ!

うるさい!鮫なんぞおらん!

そう言って庄屋はザブンと海へ、漁師は気が気じゃない。

みなさーん、大丈夫です!海は安全ですよ-!

そこへ影。

庄屋はん!危ない!後ろ!あ、あっ!

庄屋をがぶりと鮫が咥えます!

あぁ!あっ!みなさーん!大丈夫!これは鮫じゃありません!気のせいです!あぶぶぶ…

そう言って、庄屋は海へ沈んでいきました。

馬鹿馬鹿しい、金に目の眩んだ庄屋の噺。鮫でも『見立て』るか?
小朝は大刀を下段に構えた。

小朝の耳に、「ヒィー」という声が飛び込んできた。なんや?
空き地。泣き声。ここは道頓堀メガマックスビルではない。

あの日、あの時、消えたもの。
小朝が消し去ってしまったもの。

満天の照明が自らに降り注ぐ。

上方演芸ホール。

「兄さんは、何に目が眩んでます?」

夜薙屋上手は幻の向こうへ沈んだ。

軽快な出囃子が鳴りだした。
横から見る客席では拍手が沸き起こる。

袖から見た高座は、ライトを浴びてキラキラと光っていた。
客は大入り。かの名人、眠屋小朝を見ようとすし詰め状態。
長かったな、と当の小朝は思った。

入門から磨きに磨いた落語の技量。それは僅か数年で頭角を現し、その時点で弟子の中で一番と言われるほどにまでに至った。むしろ、それがいけなかった。

独りよがりの落語に落ちて、目上の者に反発し続け、直の兄弟子の襲名を「年功序列」なんて蔑んだ。それでも愚直に技芸の落語に打ち込み続けた。それも、いかんかった。

じきに肉体と精神と芸のバランスが崩れはじめ、酒に逃げるようになる。そうなれば早い。高座でのトチり、離婚、破門寸前まで行った。そこでも「自分が一番上手い」なんて叫んでた。

それでも周りの皆が、師匠や兄さんや、他の色んな人が支えてくれて、ようやく高座に帰ってこれた。

酒も女も博打も、そういう失敗はいくらでもやったが、今は一つも恐ろしくない。
小朝は、自分の心の修羅が一番恐ろしい。

すっと、横から誰ぞが手ぬぐいを差し出してきた。

「小朝兄さん…ほんまに…」

「金子、泣くの早いで、自分で使え」

「すんません…」

弟弟子の眠屋金子(ねむりやきんす)、下手くそやけど愛される男。自分にこんな愛嬌の一つでもあれば、もっと違った人生があったかも知れんななんて思う。

出囃子は佳境。

「行ってくるわ」

さらに高まる、拍手、拍手、拍手。
高座には座布団一つ。どれだけ望んだことか。どれだけ時間がかかったことか。
アルコール中毒に落ちて、離婚して、全て失って、そこからの再起、時間以上に長く感じた。

これで全てを取り戻せる。失った全てを。

そうや、芝浜をやろう。ぴったりや。

「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな…」

するりと上着を脱ぐ。

芝浜のあらすじはこう。酒好きの男が、浜で金子のぎょうさん入った財布を拾って、大喜びで大酒を飲んで家に帰って女房にも自慢する。女房は男が金子に目が眩んで、仕事も何もかもせんようになるんじゃないかと心配して、男が寝てる間に金子を隠してしまう。それで起きてきた男に、金子なんて知らぬ存ぜぬと嘘をつくのだ。

それで馬鹿な夢を見たと反省した男は、心機一転、酒を止めて一所懸命に働き出す。そうして三年の月日が経ち、男が自分の店を構えるほどになった年の大晦日、妻にしみじみ感謝する。だが、その感謝に妻は謝罪で返す。いつかの金子が実は本当だったことを告白するのだ。

それにむしろ感謝する夫、酒を勧める妻。人情話だ。

小朝が客席を見ると、元妻が居た。幸子。ああ、見に来たんか。横には娘の真琴。

ふわり、とアルコールの香りが漂った。

そうや。回りオチにしよう。
酒を止めて成功した男が、酒の毒牙にまたかかる、それでこそオチや。

さあ、さあ、一杯だけ

小朝は、扇子に、扇子に、口を寄せて…

ぐい、と飲み干した。

「ヒィー!」

歓声にしては可笑しな声や。

小朝が顔を戻すと、全て消えていた。客も、高座も、上方演芸ホールも。
自分の周りは空き地。泣き声。左右には汚いビルの壁。前の道をぶぅーん、と車が走る。

消えた。全て。小朝の全てが消え去った。

悲鳴の出所は、袖のに居た眠屋金子だった。
なるほど、芝浜では金子は消えんかったからな。そんなことを小朝は思った。

「カミガタ・バニシング・ケース」

上方演芸ホール消失事件。眠屋小朝、最後の高座。
幻を破って、鮫を『見立て』た夜薙屋上手が小朝に食らいついた。

「兄さん!いや、小朝師匠!自分は、金子は!あの日に目覚めたんですわ!やっぱり兄さんが一番やって!落語の技量だけが!全てやって!なぁ!」

上手の凄まじい気迫、凄まじい技量、凄まじい『見立て』。
体全部を使って、鮫の恐ろしさ、力強さを全力で『見立て』ている。

「…泣き虫がよく言いよるわ!かぁっ!」

さしもの小朝も弾き飛ばされる。
幻の海の中へ落ちるが、陸を『見立て』てそこへ立った。

「ゲホ、何が目的や、金子。いや、夜薙屋上手」

小朝を中心に、尖ったモヒカンが旋回する。

「なんですの目的て、自分はただ、高座に上がって、お客さんに楽しんでもろて、元気に天国に旅立っていただきたいだけでっせ」

小朝は眉根を下げて笑った。

「変わらんなお前は、相変わらず狂っとる」

「兄さん譲りですわ!」

もはや、二人の間には幻では無く、本当の世界があった。
この落語の生み出す世界だけが二人にとっては本物で、それ以外の全てが偽物なのだ。

小朝は酸素ボンベを『見立て』た。

「あら!ジョーズしってますの!」

「アホか!スピルバーグぐらいしっとるわ!」

夜薙屋上手の口に、酸素ボンベが突っ込まれる。

「吹っ飛べ!アホ!」

「あはは!痛ぁ~~!」

平坦なリアクション。確かに上手の『見立て』た鮫の頭は吹っ飛んだはず。
それが増えている。三つ、四つ、いや、五つ。

「アホには困ってませんのや!鮫の噺は!」

「クソみたいな噺ばっかりしよってからに!」

天下の大妖刀が、鮫の頭を斬り落とす。
鮫のヒレも。鮫のタコ足も。鮫のブリキの装甲も。
半透明の鮫は…斬れない!

「あはは!外れですわ!」

「十五年で鮫に何があったんや」

小朝は呆れながら扇子で潮風を送った。
透明の鮫はそれでようやく成仏する。

静寂。上手はまた潜んだか。

とぷん、と幻の海から上手が顔を出した。

「さて、兄さん、遊びはここまでにしましょ」

「アホ抜かせ、ずっと本気じゃ」

その瞬間に、小朝は「食い千切られた」。
鮫では無い、歯でも無い、顎でも無い。「食い千切り」の『見立て』。

「…夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」

裏噺 芝浜。

小朝の傷は消え去る。
だが、すかさず上手は超巨大な鮫を『見立て』る。

「逃がさへんで!」

「…で、なるほどな、こういうことか」

上手が『見立て』た鮫が、突然のこと真っ二つに「切り裂かれる」。
小朝の行いの『見立て』だ。極致の技芸を一瞥で小朝は真似てみせた。

「ほはは!さすが兄さん、朝飯前でんな!」

「アホ言うな、寝てても出来るわ」

「ほな、もう一段」

夜薙屋上手がつい、と扇子を動かすと、何かを『見立て』た。

ずるり、と眠屋小朝は、地面がなくなる感覚を味わった。
いや、足の下に地面はある。だが眠屋小朝という人間の、寄って立つ何かが無くなった。

「なん、やこれは」

「覿面ですなぁ、難しいけど、さすがに『死んだ』ことになってる人には効きますわ」

上手が『見立て』たのは、「眠屋小朝の死」。
まさに絶技。事象の『見立て』だ。

眠屋小朝は、ぐらりと揺れると、そのまま倒れ込み…

「なんてな」

逆立ちし、上手の脇をすり抜けた。

裏噺 死神。

「お!おああ、冗談キツいわ!兄さん!」

上手の腹から血と臓物が漏れ出す。明らかな致命傷だ。

「古典はワシの十八番や。お前はどうや」

夜薙屋上手、凄まじき使い手であるが、その噺の全てが新作だった。
新作の持つ破壊的な馬力は、都市一つを滅ぼすほどの災害となりうる。
だがその一方で理不尽なルールを生み出す古典の裏噺でなければ、致命傷の回避は難しい。

上手はにやりと笑う。

「バレてもうてましたか」

上手の腹から臓物が、ずるり、落ち、膝をつく。

「お前は昔から新作ばっかりやろが」

「へへ、叶いませんな兄さんには。じゃあ、最後っ屁させてもらいます」

つい、と扇子を動かす。
それだけで、小朝は崩れた。

上手が『見立て』たのは、「眠屋小朝の消滅」。
小朝にかけられた死の『見立て』は消えていない。それにさらに重ねた。

眠屋小朝を追いかけ、全てを吸収しようとして届かなかった男の、最期の噺。
それは眠屋小朝の噺だった。

裏噺 カミガタ・バニッシュメント

「…!」

小朝の体が震える。逆立ちを維持できずに倒れた。
死が迫っている。消滅もまた。

「兄さん、サゲは…」

眠屋上手はそのまま倒れ込んだ。

小朝は震える手を見る。
自らの存在ごと消し去ろうとする『見立て』を返すには、一つしか無い。
全力の芝浜でもって、辺り一帯、全てを消し去るのみ。

全てといっても、本当の全てでは無い。今の自分の技量ならば、せいぜい、道頓堀メガマックスビルと、その周辺数キロぐらい。小朝は扇子を開いた。

「小朝さん!芝浜を!」

着物の女、眠屋金子が涙を流しながら叫ぶ。小朝は、きんすやのうて、きんこなら消えるかもな、と思った。だが仕方ない。
生きなければならない。高座に上がらなければならない。絶対に。
あの高座を、もう一度。失ったものを取り戻す。

叫び声。消えた演芸ホール。泣き声。

泣き声?

舞台の袖で情けない悲鳴を上げる弟弟子。ビルの壁。大通りを走る自動車。
泣き声がする。子供。子供?

「小朝さん!早く!」

金子が泣き叫んでいる。上手の口がもごもごと動いた。

「……さあ、さあ、一杯だけ……」

高座。高座や。
そうや、取り戻す。全てを。名跡も、名誉も、妻も。全部。全部。
小朝は扇子に口をつけた。

裏噺の範囲は、自分、そして見ている人の周囲。

夜薙屋上手の懐から、スマートフォンが転がり出た。赤いランプ。
画面に映る【LIVE】の文字。視聴者数は…

「小朝さぁん!」

金子の泣き声。泣き声。子供。

思い出した。上方演芸ホールが消え去った後、ぽっかりと空き地で泣いている子供。
芝浜で消えんかった、十五年生きる執念をくれた。自らの娘。

真琴、マコト。芝浜で消えない、ただ一つのもの。

「早く!お願いやから!」

酷い顔やけど、面影がある。大きくなったな。兄さんが引きとってくれたんか。
扇子が口につく。取り戻せ。全てを。キラキラの高座を。

さあ、さあ、一杯だけ…

声が聞こえる。甘い酒の香り。
ああ、なんと我慢しがたい。

眠屋小朝は、扇子に、口を付け、首を振って、置いた。

「…いやぁ、よそう…また夢になったらあかん」

そのまま末期の息を吐くと、前に、蹲るように息絶えた。

【終】

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