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源平船合戦

源氏と平家の最後の戦場
「壇ノ浦の戦い」です。
 
彦島に最後の陣をひいた
平家には、もう後がありません
 
源義経を総大将とする
源氏は、瀬戸内海側から
攻め入ってきます
 
その時潮流が攻める方向と逆方向なため
不利とされたのですが
潮流がその逆になるための
時間稼ぎをしたのが
下関で有名な、義経の「八艘飛び」と
されています。
これは、下関観光課にも
大パネルで義経が重い鎧をつけて
舟と舟の間をジャンプしている
ものが、宣伝用として飾られていました。
 
本当に重い鎧兜を付けて
次々と「八艘飛び」ができるものか
という野暮な考えは捨ててください
これはあくまでも「観光用資料」
なのです。
 
 
私が小学3年ごろ、父に連れられて
関門海峡でおこなわれた
「源平船合戦」は度肝を
抜かれるほどの迫力でした。
鎧兜に身をかためた武者が
源氏と平家の2派にわかれた
小舟を繰り出し
海上で対面し、実際に弓を打つのです。
弓の名手は、迫力をだすために
喫水線に打ち込んだり
頭上わずか1mを通過させます。
矢の数はかぎられているので
ほんの数分の戦いでしたが
大いに満足したものでした。
 
ところが翌年、事故が起こりました。
人出が足らず、弓の射手も名人揃い
といかなくなり、腕の悪いのも参加した
ようです。
当てるつもりがないものも
ヘボ故、矢がそれて、本当に
当ててしまったのですね。
 
そのつぎの年は安全対策として
「タンポ槍」のように矢の先端に
防護の布を巻き撃つのですが
これはだめですね。
迫力がありません!
相手の船までの半分も行かないうちに
落ちてしまうというありさま
苦情も多く源平舟合戦は中止
されました。
 
 
最近では「パレード」で
再現されているようですが
当時の面影は全くありません。



壇ノ浦の戦いで
敗れた平家は安徳天皇女官とともに
三種の神器とともに入水自殺
 
その霊を弔うために「赤間神宮」が
建立され、年に一度「先帝祭」で
盛り上がります。
(トップ画像)

 
 
日本人は、敗れたほうを味方するという
「判官びいき」があります。
 
これは、九郎判官義経から
由来しますね。
 
 
 
巌流島の闘いでも
関門海峡の真ん中に
ぽつりと小さな船の形をした
島があるのであるのですが
正式名称「船島(ふなしま)」
二刀流の宮本武蔵と
巌流佐々木小次郎が
決闘した場所であることは
小説やドラマでも有名です。
ここで説明する必要も無いでしょう
巌流佐々木小次郎が敗れた
島ということで
その後「巌流島」と呼ばれています。
これも「判官びいき」なのでしょうね。

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