最後のデート

 今日が最後のデート。「かわいいね」とあなたが言ってくれた、紫色の生地に星屑の散りばめられたワンピースに腕を通す。鏡の前に座り、化粧をする。薄い桃色のルージュはあなたのお気に入り。大人ぶって赤い口紅をつけたらその日一日あなたが無口だったのも今ではいい思い出。最後にあなたが誕生日のお祝いに買ってくれた香水をふりかけて、あなた好みの私が完成。

 渋谷駅のホームに降り、ハチ公改札へ。生ぬるさの中に寂しさが滲んだような夏の終わりの風の中、待ち合わせ場所へ向かう。すれ違う人の数だけ、あなたとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。あなたと出会って3年半。大学1年から大学4年まで。本当にたくさんの時間を一緒に過ごした。数え切れないほどデートした。初めてのデート、あなたは緊張のせいか、私の目をほとんど見てくれなかった。時々、チラッと盗み見るように私のことを見て、目が合うと慌てて視線を逸らした。口数は少ない。でも、あなたの発する言葉のひとつひとつに誠実さが滲んでいて、気が付くと私はあなたのことが好きになっていた。
 あなたはいつも先に待っている。待ち合わせ時間の10分前。あなたはやっぱりたいして興味もなさそうな顔でスマホをいじっている。私が近づくとあなたは顔を上げる。私は軽く手をあげる。あなたも手をあげる。

「待った?」
「いや、今来たとこ」
「じゃ、行こっか」
 私はあなたの腕に手を絡ませる。最初はぎこちなかったのに、腕を組むのにも慣れた。渋谷の雑踏の中、腕を組んだだけで私とあなたは無敵な戦友みたい。
 センター街を通り抜け、カフェ、アティックルームへ。何度目かのデートの時に来たカフェ。屋根裏部屋をモチーフにしたカフェで、テーブルや壁にアンティークな小物が飾られているのが可愛い。
 ランチタイムは混むお店も、平日の午後3時過ぎくらいのこんな時間は案外空いていて、店内に客は疎らだった。
「お好きな席へどうぞ」と冷たい顔をしたモデル顔の店員に言われて、奥の方にある丸テーブルのソファ席に座る。
「夜来たときとちょっと印象違うね」あなたは店内をぐるりと見回しながら言う。「やっぱりこの店は夜の方が似合うな。昼だと粗が見える」
 あなたが目線を止めた先にあるブロンズの人形の後頭部が少し禿げている。前回来たときは居酒屋で飲んだ後の二軒目だった。店内は必要以上に薄暗く、所々にあるランプや間接照明がお互いの顔を浮かび上がらせていた。私はバッグに手を入れる。
「そうそう、これ、読んだわよ」
 前日に切り取っていた雑誌の1ページを取り出し、テーブルにのせる。あなたはそれをチラリと見て、手に取る。
「ああ、買ってくれたんだ」
「当たり前じゃない。あなたの文章が初めて雑誌に載ったんだもの」
「そうだね。君と出会う前は考えられなかった。あの頃はまだ何も書いていなかった」
 都内の情報誌のカフェ特集。渋谷にある3店舗のカフェの記事をあなたは書いた。私と出会う前からカフェ好きで、休みの日はカフェ巡りをしていたあなた。都内のカフェなら大抵知っていた。あなたが良いというカフェは私も必ず気に入った。あなたは本を読んだり文章を書くのも好きだった。あなたからのメールの文章はいつも丁寧に整っていて、独特なリズム感があった。あなたの文章を単純にもっと読んでみたかったから、ブログでカフェのことを書いてみたらと勧めた。あなたはすぐにカフェ巡りのブログを立ち上げ、記事を書いた。最初は少なかった訪問数も、記事が増える度に飛躍的に伸びていった。ただカフェを紹介するだけでなく、あなたの文章には物語があった。客同士の物語。客と店員の物語。あなたと私の物語。
 あなたのブログを見た雑誌の編集者から声がかかり、あなたは初めて雑誌に記事を書くことになった。
「君のおかげだよ。ありがとう」
 淡々とした口調でそう言うけれど、その言葉の奥にたくさんの感情が秘められていることを私は知っている。口数の少ないあなた。不器用なあなた。簡単に言葉にできない分、言葉にならない思いがあなたの書く文章からはたくさん零れている。
「私は何もしていないわ。全部あなたが努力したせいよ」
「君に出会わなければ、ちゃんとした文章を書こうとも思わなかった。感謝してるよ。本当に感謝してるんだ」

 カフェを出た後、Bunkamuraミュージアムでミュシャ展を観る。日本の漫画やイラストに多大な影響を与えたというグラフィックアート作品の前に立ちながらも、私の頭の中はあなたでいっぱい。
 今日があなたとの最後のデート。あなたと過ごせる時間が1秒ごとに1秒ずつ少なくなっていく。あなたに伝え残したことはないか、最後にあなたと話しておくべきことは何なのか。答えを知りたくてあなたの横顔をそっと見つめるけれど、あなたは真剣なまなざしで作品を見つめているばかりで、その感情を窺い知ることはできない。
 別れを告げたのは私の方だった。元々別れることが初めから決まっていた2人だった。あなたと初めて出会った時、私は大学一年生で、まだ何も知らない、少女のようだった。あなたは知識豊富な人。子供のようだった私にたくさんのことを教えてくれた。小説、映画、音楽、美術、外国のこと、食べたこともない海外の料理、お酒。初めてバーに連れて行ってくれたのもあなただった。20歳の誕生日を迎えた最初のデートで、あなたは誕生祝いにと高級そうなバーに連れて行ってくれた。私の知らないことをあなたはたくさん知っていた。
 別れを告げた時、あなたは表情を変えなかった。でも、変わらない表情の奥の方であなたの中の何かが変わってしまったようにも感じた。あなたは「そう」とだけ言った。「それじゃあ、次のデートが最後だね」
 私にできることは何なのか、ずっと考えている。あなたの為にできることは何なのか。あなたと会うとき、私は私に出来ることを、誠心誠意尽くしてきたつもり。後悔はない。そのはずなのに、今日が最後となったらもっと他にできたことがあった気がする。言い忘れた言葉がある気がするし、伝えられなかった言葉がある気がする。でもそれがどんな言葉なのか分からない。私がもっと大人だったら、その言葉を見つけられるのだろうか。
 いつの間にか美術館の外に出ていた。夜にさしかかっていて、外の風はさらに秋の気配を帯びていた。
「ミュシャ展、良かったね。最後は私の好きなイラストレーターも出てきて、びっくりしたよ」
「うん……良かった」あなたは口数少なく、何を考えているのか分からない表情で前を見ている。東急百貨店前の交差点の信号が、青から赤に変わるために点滅している。あなたは立ち止まる。
「いや、ごめん、嘘だ。実は、途中からあまり頭に入っていなかった」
「え?」
「……今日は美術館の気分じゃなかったな。失敗したよ。まあ、カフェをハシゴするような気分でもなかったけど……。今日が君との最後のデートなんだな。途中からそればかり考えていた」
 たくさん見たあなたの顔。でも、見たことのない今のあなたの顔。
「そうだね、私も同じ。これが、最後なんだよね」
 あなたと会うのが最後だなんて信じられない。信じられないけれど現実。私が決めたこと。
 目の前の信号が青に変わる。あなたは動きだす。私もその横を歩く。あなたの歩幅に合わせて。いつもよりちょっと早足で。

 宇田川町の雑居ビル5階にある紫扇は、外の喧噪が嘘のように,、落ち着いた雰囲気のある居酒屋だった。こぢんまりとしていることが逆に魅力的な、カップルが愛を囁くのにはうってつけのL字のソファー個室に通される。
 あなたは隠れ家みたいな席のある居酒屋を見つけるのが得意だった。
「今回もナイスチョイスだね。渋谷にこんな落ち着ける店があること、あなたと出会うまで知らなかった」
「君とはいろんな店に行ったもんな」
 店の中央に本物の車があってそこで食事もできるダイニングバー、穴蔵のような半個室席のある創作沖縄料理屋、小学校の教室を模した席で給食のようなメニューが食べられる居酒屋、小さな看板しか出ておらずエレベーターの止まらない階にあるのに中に入るとお洒落な空間が広がっているやきとん屋。思い出話に花を咲かせる。
「デート前はネットにかじりついて食べログとかグルメサイトの情報調べまくったからな。おかげで元々悪かった視力がさらに悪くなったよ」
 冗談なのか本当なのか分からないことをあなたは言う。いつもそつがなくスマートに振る舞うあなた。でも私に見えていないところで努力してくれていたのかもしれない。
「君と出会う前はこんなお店に来ることもなかったからね。カフェは1人でも来れるけど、こういう店はなかなか1人では入れないから。君と出会えて、色々な場所に行くことができて、この3年半、本当に楽しかった。だから君には本当に感謝しているんだ」
「そんなこと……。お礼を言いたいのは私の方よ。あなたと出会えて本当に良かった。あなたにたくさんのことを教わった。あなたと出会う前、私はまだ子供みたいだった。あなたが私を大人の女性にしてくれたのよ。あなたと出会えていなければ、私はとっくに今の仕事を辞めてしまっていたかもしれない……」
 それは本当のことだ。仕事をしていると辛いこともあった。そんなとき、あなたが相談に乗ってくれた。あなたの言葉に、何度助けられたことか。
「僕の方こそ、君の言葉に本当に救われたよ。君と出会う前、仕事もプライベートも何もかもうまく行かなくて、人生どん底みたいな状態だった。君はそんな僕を励ましてくれた。応援してくれた。いつも味方でいてくれた。それがどんなに心強かったことか。君に会えるということが、日々を頑張る活力だった」
 そう、確かに初めて出会ったときと今のあなたは別人みたい。今のあなたは自信に満ち溢れ、大人の魅力に溢れている。最初はボサボサだった頭も、今では美容室で定期的にカットし綺麗に整えられている。どこか野暮ったく見えた服装も、セレクトショップで私が服を選んであげてからいつのまにか自分でも積極的にファッションの勉強をするようになり、今ではいつもセンスのあるお洒落な格好をしている。努力家のあなたは、どこの誰に見せても恥ずかしくない私の彼氏になった。
「あなたはもう大丈夫よ。もうあなたはあの頃のあなたとは違う。あなたは本当に素敵な人」
 私は、私にできる最高の微笑みをあなたに向ける。あなたには最高だった私を覚えておいて欲しいから。
「君と会えなくなるのは寂しいよ。とても寂しい……」あなたの顔が瞬間、子供のようになる。「寂しい。……でもね、寂しいけど、やっぱり君と出会えて良かった。こうなることは最初から分かっていたけど、でもやっぱり君と出会えて良かった。君で良かった。君と会えなくなるのは寂しい。本当に寂しい。でも、僕は僕なりに頑張ろうと思う。仕事を頑張る。文章を書く仕事も、もしまたもらえるなら誠心誠意頑張る。そして、君みたいな素敵な女性を見つけるよ。そんな素敵な女性は僕みたいな男のこと、眼中にないかもしれないけど、それでも精一杯アタックする。僕は君みたいな女性と3年半、数えられないほどデートしたんだ。その自信はついている。精一杯アタックして、駄目なら他の素敵な女性を探して、またアタックする。そして、いつか君みたいな素敵な女性を恋人にするよ。約束する。だから、君は何の心配もすることなんかないんだ。何の心配もする必要はない。僕は、君と別れても1人でもやっていける」
 普段あまり饒舌とは言えないあなた。そんなあなたが、途中言葉を詰まらせながら、抑えることができないように言葉を吐き出していく。その言葉の奔流を受け止めながら、私の身体も熱くなる。身体の熱が溢れるようにして私の両目から流れ出る。いつのまにか、あなたの頬も濡れている。
「ありがとう、ありがとう……。あなたに出会えてよかった。あなたで良かった。ありがとう。本当にありがとう」
 結局私の口からはそんな陳腐な言葉しか出てこない。涙は留まることを知らない。こんなシチュエーションも想定してウォータープルーフのマスカラを選んでいたけれど、きっとこんな膨大な涙には耐えられない。ありがとう、ありがとう、と私もあなたも馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返す。

 夜の十時。ハチ公改札前。あなたはいつも時間ぴったりに私を目的の場所に連れて行ってくれる。時間に正確なあなた。改札前は濁流のように人が行き来していて、立ち止まることもできない。
「じゃあ、ここで」
 あなたは改札の少し手前、通行人の邪魔にならない辺りで立ち止まる。あなたはさっきまでの涙が嘘のように爽やかな顔をしている。その表情に強がりや気負いは感じられない。初めてのデートで別れるとき、名残惜しそうに何度も何度もこちらを振り返ったあなた。今はその頼りなさそうな面影は感じられない。見違えるように成長したあなた。あなたが言う通り、あなたを送り出すことに何の心配もないよう。そのことが寂しく感じられさえする。でも、そう思えることがどんなに幸せなことか。
 私はあなたを見る。あなたも私を見る。出会ったときよりも白髪の目立つようになったあなた。あなたは幾つになったのだろうか。たぶん30代の後半だけれど、正確な年齢は知らない。年齢相応の、大人な魅力を持ったあなた。
 私は手を開き、腕を伸ばす。あなたも察したように私の手を握る。あなたの手。温かい手。繊細だけれど力強い、あなたの手。
「どうか、お元気で」
「君の方こそ、元気で」
 あなたは微笑む。
「ずっと忘れません、あなたのこと」
「僕も忘れない、君のこと」
 あなたは私の手を離すと、背中を向け、改札を通る。私は手を振る。力の限り。ありったけの思いをこめて。
 あなた、あなた。優しいあなた。あなたと出会えてよかった。あなたのこれからの人生が光り輝くものでありますように。あなたの仕事が順風満帆でありますように。あなたの文章がもっと世の中に広く認められますように。あなたに素敵な彼女ができますように。私なんかよりももっともっと可愛くて素敵な彼女ができますように。
 あなたは見えなくなる直前、階段を上る手前で振り返る。ちょっとだけ沈んでいたように見える顔が、すぐに輝く。そして、大きく手を振る。私も手を振り返す。大きく大きく。力の限り。通行人に迷惑がられても知るもんか。
 あなたは最後に少しだけ笑って、階段を上って行ってしまった。姿が見えなくなっても私は手を振り続ける。振り続ける。
 あなた、あなた。最後は握手なんかじゃなくて熱い抱擁でもしてお別れしかったね。でも、それは規約違反だからできない。ルールの範囲内であなたを精一杯愛す。それが3年半レンタル彼女という仕事に誇りを持って取り組んできた私の矜持だったから。
 今日がレンタル彼女として、最後のデート。明日からは普通の、ただの大学四年生に戻る。
 最初はちょっとした小遣い稼ぎに、興味半分ではじめた仕事だった。でも、あなたに出会い、他の彼氏様に出会い、いつのまにか私はこの仕事に夢中になっていた。仲の良い友達にも、親にも、この仕事のことは言ったことがない。言ったら反対され、軽蔑されると思ったから。これから先も、たぶん誰にも言うことはないだろう。それでも私はこのレンタル彼女という職業を誇りに思っている。私にとってこの3年間半はかけがえのない時間だった。レンタルされた時間の間は、私は本当にあなたの恋人のつもりだった。あなたのことを全力で愛した。
 あなたも、他の彼氏様も、皆本当に素敵だったよ。本当は彼氏様全員と結婚できたらよかったね。でもそんなことはできないから、あなたたち皆に素敵な恋人ができますように。本当に、本当に祈っています。どうか、どうかお元気で……。祈りをこめて、私は手を振り続ける。いつまでも。いつまでも。

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