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柱のキズ

 柱を傷つけたとき、すごく叱られた。
「あんた何してんの!」
 自分の背の高さの所で傷をつけて成長を確かめたいと思ったのだ。
「この部屋は借り家なんだから、傷を付けたら弁償しなくちゃいけないんだからね」
 書道の時間、誤って墨汁を服に垂らしてしまい、叱られた。
「もう、何でもっと注意しないの。汚れたらなかなかとれないんだから」
 ベッドの上でアイスを食べて叱られた。
「ベッドの上で食べちゃ駄目でしょ。シミになっちゃうじゃない」

 傷つけたら元に戻らないものが多い。
 僕の顔には傷がある。物心つかない子供の頃、親戚の家に預けられたときに転んでできた傷だ。それ以来、その親戚とは疎遠になった。
 小さいが、今でもその傷は消えない。同級生から「その傷どうしたの?」と聞かれることがある。覚えていないけれど「子供の頃転んでね」と適当に答える。

 傷つけたら元に戻らないものはたくさんある。
 柱、服、シーツ。傷はつけたらなくならないし、一度ついた汚れはとれないこともある。
 僕はいつのまにか傷つけられるのを恐れて自分からは何もしない子供になった。
「あの子はいつも大人しくしててえらいねえ」大人からそうほめられるような子供だ。
 そう言われるとき、いつもちょっと嬉しかった。僕は他の子供のように何も壊したり汚したりしなくて偉いんだ。

 そんな風にして僕は高校生になった。クラスの隅で休憩時間に一人本を読んでいるような子供。本を読んでいるだけなら何も傷つけることも汚すこともない。
 でも、つまらなかった。毎日がたまらなくつまらなかった。でも、どうすればいいのか分からなかった。

 僕には妹がいる。
 あるとき、妹が母親に猛烈に叱られていた。
「あんた、何やってるの。自分の耳に自分で傷つけてこの不良娘が!」
 妹が自分の耳にピアスの穴をあけていたのだ。
「自分の身体なんだから好きにしていいでしょ」
 妹はそう言って力強く自分の部屋のドアを閉めた。
 僕は母と「反抗期だね」と笑った。

 それから妹はどんどん変わっていった。派手な格好をし、夜遅くまで遊んで帰るようになった。
「まったく、あの子はもう知らないよ」と母親には呆れられていたけれど、僕はある晩、久しぶりに街で妹とすれ違ってびっくりしたことがある。そのイキイキとした顔。目が輝いていた。妹のそんな顔を見たことがなかった。そのときの耳たぶのピアスを綺麗だと思った。綺麗なピアスが頭の中に残像のように残っていた。

「ねえ、それ痛かった?」
 ある時ふと妹に聞いてみたことがある。
「え?」
「そのピアスあけた時」
「ああ、一瞬ね。でも、思った程でもないよ」

 相変わらず毎日はつまらなかった。何も傷つけず、何も汚さないでいれば誰からも怒られることもない。けれどとにかく僕はつまらなかった。どうしようもなくつまらなかった。

 あるとき、通学途中、ボクシングジムの横を通った。いつもはそうしないのに、何故か中を覗いてみた。人と人が殴り合っていた。その迫力に圧倒された。
 僕はしばらくの間ずっとその光景を眺めていた。
「何だ、坊主、興味あるのか。やってみるか」
 ボクサーらしき男が出てきた。流されるようにボクシングジムの中に入り、ミットを持った男にパンチをする。
「何だ、それがお前の全力か。もっとお前の本気見せてみろ」
3分間パンチをし続けて息が切れて、倒れるように仰向けに寝転んで見たボクシングジムの天井は輝いて見えた。その輝きは妹があの時していたピアスの輝きに似ていた。

 それから数年後、僕は大学のボクシング部に入り、毎日のように痣をつけたり、身体に傷をつけて帰宅するようになる。
「もう、そんなに顔や身体を傷つけて。ボクシングなんて野蛮なスポーツだよ。殴り合って何が楽しいんだか」
「楽しいんだよ、ホント」
 呆れたように言う母親に、そう答える。そう、本当に楽しいのだ。ボクシングを始めて、こんな楽しさがあることを初めて知った。今の僕はもう、つまらないと心の中でぼやくこともない。
 風呂に入る前、ふと鏡を見る。子供の頃できた顔の傷は、他のボクシングでできた傷にまぎれて、今では何だかもうよく分からなかった。

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