何者になれるんだろうか、なれないのか

「なんかやりたいこととかないの?」
「何者かに、なりたい」
10/19公開の『ここは退屈迎えに来て』のワンシーンだ。
何の本か忘れてしまったけれど、「何者にもなれなかった大人たちへ」という帯に目を惹かれたことを思い出した。
この「何者」という言葉になぜかとても惹かれてしまう自分がいる。

今の自分へ不満から

今の自分は何者でもないという思いがあるからなんだろう。
誰かに自分はこうだ、と端的に説明できるそんな特技だったり、
これだけならだれにも負けないほどだと思えるこだわりを持っているわけではないと思っているんだ。
そんな自分がだめだ、もっとなりたい自分があるからなんだろうなと思う。

未来への期待感から

それから心のどこかでいつか何者かになれるんじゃないかという期待があるからだ。
まだ自分が若くて未熟でもう少し大人になったら、おもしろいタイトルのついた物語の主人公になれるんだろうと誰かに希望を託しているんだろうなって思いたいんだ。

それでもいまの自分だって何者かだし、はっきりは言えなくても自分は唯一無二なはずだ。その何者かがいやであるなら、別な何者かになることだって自分次第。どうするかは結局自分次第。

ふと高杉晋作の「おもしろきこともなき世をおもしろく」という言葉を思い出した。
おもしろい自分になるのも自分次第だし、今の世の中を面白いものにするのだって自分。

上の言葉はこう続く。
「すみなすものは心なりけり」
何事も心の持ちよう次第ということ。

何も持たぬわたしですが、全力であなたのサポートを活かした「なにか」をします!いまはわたしが沢山の知識と文化とアイデアと記憶を吸収するために使います!