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きっかけとしてのハダカ 「見ること」と「話すこと」

Relight Committee2日目。
テーマは「ボディ・身体」。

とにかくたくさんの人のハダカを目にした1日だった。午前中は粘土によるヌードデッサン、午後は自らの身体を媒体にした現代アート作品の事例学習、その後皆で人形町の銭湯「世界湯」へ。様々な関係性や異なる場面で見るハダカ。「身体」というものに様々なフェーズから向き合わざるを得ないよう仕込まれたプログラムだ。

「見る」ということに関して言えば、ここのところ視覚ということについて思いを巡らす機会が多い。3日前には神宮前のDialogue in the Darkに行き、視覚を使わないコミュニケーションを体験したばかりだ。

Dialogue in the Darkでは、初対面の人同士、名前を呼んで声を掛け合ったり、手を繋いだり、肩に触れたりすることで、初めて暗闇の世界で行動できるようになる。そうこうしているうちに、自然と相手を頼り、頼られていることが感じられて、互いに妙な信頼感が生まれてくる。いつも我慢して言えないようなお願いも、ここでは素直に言えてしまう。普段いかに相手の顔色をうかがい、年齢や容姿などの目から入る情報を気にしているかを実感する機会となった。実は、視覚は率直なコミュニケーションを阻む要因になっているのではないだろうか?

そんな疑いを持ちながら臨んだヌードデッサン。Dialogue in the Darkとは反対に、視覚だけをフルに使う体験だ。最初の30分はモデルの正体は明かされず、目の前の見知らぬ裸の女性をひたすら観察。私も含め、ほとんどのメンバーが肉体そのものに注目し、豊満な肉体を強調した顔の無い彫像を作った。
デッサンの後、この女性が田代さんという名前で、菊池さんが教鞭をとられている大学の助手で、「菊とギロチン」という映画に力士役で出演されている女優さんでもあることが明かされた。私も田代さんに質問をさせていただき、田代さんがどんなことに興味を持ちここにやってきたのか多少の情報を得ることができた。
そして再度30分のデッサン。今度は3人のメンバーが顔のみの彫像、他のメンバーも彼女の内面を表現する彫像を製作した。一人の人間に対して「個体」→ 「田代さん」へと意識が変化する過程を、粘土デッサンを通じて、まざまざと見せつけられる体験だった。

たとえ人生経験や想像力が豊富であっても、対話なしに視覚だけで得られる相手への理解の範囲には限界があるのだろう。言うまでもなく、レイプや戦争は、対話の欠落から相手を単なる「個体」としか認識できていない際たる例だ。

印象的な出来事は夕方の世界湯でも続く。世界湯は昔ながらの銭湯で、女湯の洗い場は20程度。この日は私たち8名(3名は男湯)が訪れたため、女湯は満員でごった返していた。突然訪れた私たちに対し、多くの常連のおばあちゃんたちは「若い人はいいねえ」とニコニコしながら見てくれていた。私も「身体」とか難しいテーマをすっかり忘れて、みんなでの「裸の付き合い」やアツアツのお湯にいい気分になっていた。

そんな中お風呂から上がり、着替えを済ませて脱衣所をウロウロしていたら、ある1人のおばあちゃんにこっぴどくお叱りを受けた。
「ちょっとあんた、その洗面器、足で跨ぐなんてしちゃダメだよ。それ、この人のなんだよ。ちょっとどかすくらいしなさいよ。失礼だよ。」
私はとっさに「気づかなくてすみませんでした」と謝ったが、おばあちゃんの怒りの表情は変わることなく、内心なぜそんなに怒っているのか分からなかった。テーブルと壁の間の狭い床に無造作に置かれていた着替えの入った洗面器。確かに無神経ではあったが、そこまで怒ることだろうか?実際、洗面器を跨がれた当のおばあちゃんは、私たちのやり取りをきょとんとした顔で見ていた。

後から気づいたことだが、そのとき、私たちの集団は脱衣所のロッカー側の半分を占拠して話に花を咲かせていた。洗面器が通り道にもなる床に置かれていたのは、混んでいてそこしか置く場所がなかったからなのだ。おそらく、いつもの居場所を突然の来訪者に奪われたいらだちを、ちょっとした無礼を犯した「一見さんで若輩者」の私に思い切りぶつけたのだろう(もちろんこれも想像で本当のところは分からないのだけれど。)もし、私がこれからもせっせと世界湯に通い、おばあちゃん一人一人を「◯◯さん」として知り、それぞれの話を聞き、世界湯に通う顔なじみになったらどうだろう。少なくとも今回のような反応は起きないのではないか。体や顔を見れば、老いている、若い、怒っているなどの情報は得られる。でも、相手がどんな人なのか、どんな事情があって今ここにこうしているのかまでは分からないし、そこに信頼関係も生まれない。

銭湯を出た後は、InVisibleの皆さんとRCメンバーで「部活動」と称する対話の場を持った。ハダカをきっかけに、色々なエピソードが聞けた。
そういえば、午後の座学で学んだ現代アート作品も、生身のカラダを一つのきっかけにしていた。西洋的な「身体」の概念と日本における「カラダ」の意識には歴史的、風土的、宗教的諸々の背景から根本的な差異があるには違いないけれど、いずれにせよ「裸の付き合い」を経た対話の場はいいものだなぁと感じた。

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