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世界の晴れ上がり

 太鼓の音を聞いた時内臓からその振動を感じるように、ゴオーという大きな音は私の体を震わせた。地面から大きな煙が湧き上がる。白熱電球みたいにじんわりと明るくなって、数キロに渡って、あたり一面を照らすほどの強烈な光になった。
 それは、重く力強く飛び立った。

 2009年リーマンショックの不況の中、私の就活は始まった。当時これといって何かをしたいということがなく、内定をもらった地元の金融機関に就職。最初は支店配属でいわゆる”窓口のお姉さん”として働いた。半沢直樹のドラマみたいに、小さな田舎の金融機関にも、派閥とノルマと、何か失敗すると田舎の中のさらに田舎の支店に飛ばされるという人事がすべてという世界があった。
 入社時に聞いていた10年に1度のオンラインシステム更改プロジェクトに参加したくて、試験を受けて2年目の5月にシステム部へ異動。プロジェクトは運用まで含めて約3年続いた。今思えば、仕事もろくにできないような新人が生意気を言っていたなと思うけれど、なにかと「もっとこうした方がいい」などよく進言をしていて、ときには上司の逆鱗にふれ「お前は言われたことだけやってればいいんだ」と大声で注意されたこともあった。トイレで30分大泣きしたことを覚えている。
 辛いこともたくさんあったがローンチ時は達成感と感謝の気持ちでいっぱいになったし、3年はとても充実していたように思う。ただずっと違和感を感じていた。同僚に仕事は楽しいかと聞くと「辞めたい、稼ぐためにやっている」という答えばかり。自分のやりたいことをお互い話すなんてこともない、それは夢物語で現実じゃないから。私もその1人だった。仕事とはそういうものだと思っていた。
 プロジェクトが終わり転職を考えたがなにがやりたいのかわからず、自分のやりたいことを探す(+英語を学ぶ)ため学生の時からずっとしたかった留学を決めた。「今時留学してる人なんていっぱいいてなんのアドバンテージにもならない、この会社を辞めたら次の就職先なんてないぞ」そんな言葉をかけられる度、行くべきか心が揺れ動いた。

 留学中は中国、サウジアラビア、スペインなど、世界各国の留学生と一緒に英語とビジネスを学んだが、授業は日本のそれとは全く異なっていた。課題について議論をするのだけれど、いつも決まって最後に一つの正解が導びかれずに終わる。最初は歯切れが悪くて、戸惑った。しかし、だんだんこれが正しいのではと思えてきた。いろんな考えの人がいて意見を出し合い、そういう見方もあるねと議論して終わる。数学のように1つの計算の答えを出すのならまだしも、本を読んだ感想や、ビジネスに対するアプローチ、理解やそこから推察したことは、1から10までみな同じ答えである必要なんてない。日本にいる時は、大多数が認める答えを言わないと間違っているような気がして、発言するのも、議論するのも怖かった。でもこちらでは違う。間違ってもいい、人と意見が違くてもいい。自分の考えを伝える、他の人の意見にも耳を傾け、認めてあげる。それが大事。同じ感覚を覚え込ませることは、同じ知識レベルの労働者を育てるにはとても適した教育法だけど、はみ出すことを恐れるようになってしまう。私が受けてきた教育について考えさせられる毎日だった。
 留学プログラムでは、授業で発言しないと積極性に欠ける(出席していないのと同様)として出席点がもらえなかった。日本の大学では教授が教壇で話しているのをじっと聞きノートをとるだけで、特に発言しなくても出席点がもらえた。「アメリカでは、会議でも授業でも意見を言わない人はいないのと同じ。無視され、やる気がないと判断されてしまうよ。」先生が教えてくれた。会議でも何も言わず黙っている人をよくみるが、アメリカでは透明人間とみなされるらしい。
 またアメリカで活躍する日本人のお話を聞く機会があり、そこでは「人がやりたくないことを代わりにやるからお金がもらえる、という固定観念は捨てなさい。自分の好きなこと、やりたいことを仕事にすることはできる。実際にしている人がいるんだから。実現させるために行動を起こしているかの違いだ」と教えてもらった。

 半年たった頃から自分がやりたいことがぼんやりと見えてきていた。「言葉とビジュアルで伝える。それで人の心を動かせたら嬉しい!」
 留学最後の3ヶ月は、シアトルの企業でインターンシップをした。自分のやりたいことを試すためにも記事を書きたいと、日系アメリカ人向けに英語・日本語両方の記事を掲載する新聞社で働かせてもらうことになった。イベント取材がほとんどだったが、編集長に提案していた対談企画が決まり、アメリカで生まれ育った日系三世で当時シアトル市特別企画顧問をされていた方と日本人留学生の対談を記事にすることができた。「日本とアメリカの違いは?、日本のプレゼンスを世界で向上させるためには?」など、日米の文化や考え方について話してもらった。
 対談の中で印象に残っていることは、「日本では失敗したときに受けるダメージが大きい。失敗に対する恐怖が、リスクをとること、革新を起こすことへの障壁になっている。全ての革新は失敗を伴う。」だった。失敗すると小さい支店に飛ばされる、失敗したら終わりという感覚が自分の中に刷り込まれていたことに気づく。失敗おおいに結構、それを教訓に成長していくことが大事だ。

 日本に帰ってきて就職もできたし、留学したことを後悔したことはない。発言もせず、言われたことだけやればいいという人材を欲する会社は少なくなった。失敗したって終わりじゃないし、答えはひとつじゃなくていろいろあっていい。
 夢を話そう。実現できない、なんてことはない。

 宇宙は昔、光が直進できないほど大量の電子が飛び交い、靄の中みたいに不透明だった。宇宙誕生から約37万年後、宇宙の温度が下がり電子は原子核と結合「原子」となった。靄がだんだん薄くなり、光が直進できるようになる。宇宙は遠くまで見えるようになった。それを「宇宙の晴れ上がり」という。

 私は寄り道をせず、両親が望む一本道を歩んできた。その道で知っていたことは、そこでだけ通用する当たり前で、知っている価値観以外は靄がかかって見えなくて、それが世界のすべてだと思っていた。
 とても息苦しかった。
 アメリカで新しいことにたくさん出会い、靄で見えなかった先に大きな世界があることに気づいた。そしてその事実を知っているだけで、どこにいても、ほんの少し自分を救ってあげることができる。

 当たり前は真実か。
 自分がいる世界の常識が世界のすべてか。
 枠の外を想像しよう。
 靄が少し薄くなって、新しい星を見つけられるかもしれない。

2014年9月フロリダ。この日もまた私の世界が晴れ上がる。

Still good to go
15..
Watch the rocket
10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3..

それは、重く力強く飛び立った。

 目には見えない空気の階段を一歩一歩蹴り上げていくかのように、スムーズとスムーズじゃない、の間のスムーズさで、必死に上がっていく。
 雲に近づくとゴオーという音に、バリバリという音も混じって、何か壁を打ち破りながら進んでいくかのように、ただまっすぐ上だけを見て、それは私たちの世界の外側へ旅立っていった。
 強い光は夜の闇に消えた。

 周りの歓声と、震える自分の手。目がじんわり熱くなって、喉の奥が痛くなった。

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