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お金が寄ってくるおとんと寄ってこない私

「1円を笑うもんは1円に泣く」

小さい頃、おとんがよく口にしていた言葉がことわざだと知ったのは、はずかしながら大人になってからだ。おとんが発するほかの言葉の中にすんなり溶け込んでいたので、オリジナルだと思っていた。我が家は家業を営んでいたことも影響していると思うが、食卓でもドライブ中でも、とにかく、いつでもどこでもお金の話をよくした。

たとえば、その日の食事が鍋だったら。おかんが鍋をテーブルにどんっと置いてフタを開けると、こんな言葉が続く。

「おいしそう!」
「これお店で出したらなんぼかな」
「原価考えたら3000円くらいちゃう?」
「いや、人件費入れたらもうちょっともらわな」
「でも5000円越えたら売れへんやろ」

小学校高学年になると、週末は時々おとんが働く市場でバイトをした。おとんや職人さんたちが魚をさばいたり調理したりする横で、ひたすら商品にシールを貼るという単純作業は決しておもしろくはなかったけど、続けるうちにどんどんスピードが上がっていき、いつしか快感になる。
みっちり働いて、家に帰ってご飯を食べるとお風呂を浴びるまもなく寝落ちることもあった。今なら児童労働で通報されそうだけど、1日働いた手に受け取る現金は、子供ながらにものすごく重くて、充実感をともなっていた。

それ以外にも、学校で作った粘土工作を持って帰って「オトン、これなんぼで買う?」と聞いたら「10円でもいらんわ」と即答されたり、親にお小遣いを前借りしたいとお願いしたら「トイチやで」と教科書には出てこない金融用語を身につけたり、というのが我が家の日常だった。


ある日なんかのきっかけで、「よその家ではお金の話をあんまりしない」ということを知った。どうやら世間では「お金は汚いものだから、お金の話をするのは下品」といわれているらしい。

お金は、一生懸命考えて、汗水たらして働いた人が得るもの
お金は、考えない、働かない人は得られないもの
お金があると買えるものがあり、お金がないと買えないものがある

きれいとか汚いというものさしで計るものじゃない。
そう思った。



親元を離れて15年が過ぎ、「お金」は少しずつ私に見せる姿を変えてきた。

一生懸命働いても、思い通りに増えないもの
手元にないと、非常に困るもの
それなのに、すぐに消えていくもの

結婚してこのかた、帰省するたびに、おとんは必ず旦那に何かしらものを贈る。人に何かを与えるのが生きがいのようなおとんと、人から何かを与えられる宿命のような旦那は、絶妙なバランスで相性が良い。

おとんは必ず「これ、〇〇円やってんぞ。定価で買ったらもっと高いで」といくらで買ったかを発表する。私はそれが恥ずかしくてたまらない。プレゼントの値段をわざわざバラすやつ、いる?恩着せがましくない?黙ってたほうがスマートじゃない?

……と、苦々しく思っていたら、ふと気がついた。あれ、私、いつのまにか「お金=下品」という考えに染まってしまっている。しょうもない大人になっちゃったなぁ、私。

それに比べて、おとんは何年経っても全く変わらない。昔みんなで売れもしない鍋の売価を言い合ったのと同じくらい楽しそうに、婿に買ったプレゼントの値段の話をする。よくよく考えると、おとんが買ったモノの金額を口にするのは、自慢でも恩着せでもなく、「モノ」と「お金」の関係について話したいだけなのかも。

お金がうまく増えないのも、思うように残らないのも、私が「お金は汚い」と思うようになってしまったからかもしれない。だって、あの頃と変わらず、一生懸命働いて、照れも恥じらいもなくお金の話をしているおとんの元には、相変わらずお金が寄ってくるもの。

私もまた堂々とお金の話をとしてみよう。それで下品といわれたら言ってやろう。「そんなに汚いものなら私がもらってあげるよ」ってね。

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ウミヤマネコ

東京から海と山のある街、逗子へ移住。逗子での生活、日々の雑感などを。
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