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弱ったときの「情報」とのつきあい方

時代を感じる先生からの質問

「おくすりは何か必要ですか?」
薬の処方について
最近は病院の先生にこう聞かれることが多いように思います。

子ども3人と私
見事インフルエンザにかかりまして。

都合よくみんな一気にかかる訳はなく。。
順番にかかるので
その都度、病院へ足を運びました。

今回はわたしが感染した事もあったり、
子どもに心配な症状が出て緊急を要するタイミングがあったので、このインフル期間に2つの病院をいったりきたり。

その2院ともに
「お薬は何か必要ですか?」
「この症状のためのこんなお薬があります、必要ですか?」
と聞かれました。


これは近ごろの傾向なのか、たまたまなのかはわかりませんが、
先生の役割は「診察」と治療やくすりの「提案」
その選択は患者にゆだねられている。

誰しも簡単にいろんな情報を知ることができる社会で、
いろんな価値観が尊重される時代。そこに正解があるわけではない。

先生からの質問や姿勢から、そんな時代背景をあらためて感じたのでした。


重要な選択・面倒な選択になると何かに委ねたくなる


価値観が尊重されるということは、言いかえれば、自分の価値観を持っていることが大前提ということ。

ものごとの判断や選択には、その人の価値観がとてもあらわれるので、自分にとって大切なことは何かその価値を自分で理解していなければ、そこに一貫性がなくなります。
それは自分軸のない状態で、まわりまわってものごとのいろんな巡りが悪くなる要因のひとつ。

「情報に翻弄される」ということはそういうことなのかなと思います。

そんな事を頭でわかっていながらも翻弄されることはやっぱりあって。

インフルエンザといえば「タミフル」という、
その響きにあまり良いイメージを持てていないものがあります。
それは、まったく知識のないわたしが、情報のとある一面だけを知って持っている「イメージ」

タミフルの説明を受けてもなお、正直すこし困惑しました。
自分のことはさておき、
目の前で弱っているわが子を楽にしてあげるために、お薬をつかうべきなのか、でも使うリスクもあるみたいだし。。でも何にだってリスクはあるわけだし。。解熱剤だけでやり過ごせるかもしれないし。。でも心配。。

なんでもつい考えすぎてしまうわたしは、その場ですぐに判断ができず、とりあえず処方してもらうことにしました。

その後はやはりネットで調べます。

想定はしていたものの、ネット情報というのは自分が安心する為に調べているところがあるので、自分に都合のよい情報が目につきやすくなる。
いいという情報もあれば良くないという情報も当然あり、俯瞰してみる必要がある。

またその情報の伝え方や見せ方によって信憑性が高く見えるものや、この人が言ってることならという信頼に委ねてしまうものも多い。

情報に翻弄されてはいけない、
自分の価値基準で決める、
そうわかっていても、いざ子どもが弱っているのを目の前にすると、迷うし、焦るのです。

そして、ついネット検索で答えを見つけたくなる。

たまたま例に挙げたヒトコマですが、
おそらく何においても
人は弱っているとき無意識に何かに委ねてしまいたくなるんだろうなぁとおもいました。
大げさかもしれませんが、
その延長線上に「依存」ループの影も見え隠れします。

自分自身が弱っているとき
大切な人が弱っているとき
「責任」という負荷がかかるとき
自分の価値観をもって自分の頭で考える習慣がないとき

これは、要注意の状態だという認識がまず大事。

では、
そんなときでも
信じる情報を選ぶのではなく
自分で考えて判断することが、どうやったら上手くできるのでしょうか。

それを考えることはすこやかな巡りをつくっていく為のヒントでもあるように思いました。

これから大事なのは「感覚」

わたしが思うに、
感覚や直観のような、自分が感じる「感度」や「感性」そういったものを感じ取るセンサーを自分にもっておくことが重要なのではないかなと。

本能的なものもあれば
純粋に自分が感じる感覚
生まれつきの敏感さや感受性の強さなど個性としてもち合わせたものもあるだろうし、
日常の中で培われるものもたくさんあると思います。

たとえば、子どもに触れた瞬間に「ん?熱がある?」とわかる母親の直観は、本能的にそなわっている感覚と、経験値によって培われた感覚のおそらく両方がはたらいている。

たとえば、なんとなくこれはやめたほうがいい気がする、と理由はわからないけど感じることは危機を察知する敏感さと経験値からの危機管理意識による感覚。

こっちを想像するとワクワクするけどこっちはなんかモヤっとするなど、自分が心地よさや不快を感じる純粋な感覚。

正解のないものを選択するとき
「感覚」はわりと大切な基準になるような気がするのです。

自分の感覚に応じた選択や判断は、
まわりまわって自分にも周りにも心地よく作用しやすいのではないかな。

現代の落とし穴

しかしながら現代は、
そういった、人が生きる為に備わっている大切な「感覚」が衰退しやすい便利社会。
そして情報量は人間の飽和値を越えたといわれています。

本来は豊かさに通じるはずの感受性が
環境や社会との折り合いの中でネガティブにはたらいてしまう、もしくはその感覚に蓋をしてしまうことがとても多くあるようにおもいます。

もうひとつ、
わたしは1984年生まれですが、わたしたちの親世代や私たち世代はまだ、「正解」をつめこむ教育を受けてきた世代です。
自分の感覚に意識をむけて自分の頭で考えることや自分の意見をもつという習慣が無いまま大人になり、急に「多様性」が尊重される時代に突入しました。そこで「自分らしさ」がわからず迷子になる人も多いとおもいます。

意識して自分の感覚にアンテナを向けていかなければ、自分がわからなくなってしまう、情報に翻弄されてしまう、そして色んなことが悪循環してしまう、そんなことが往々にしてある環境だということを知っておく必要があります。

感覚に意識をむける習慣をもつ

そんな環境の中で意識していったらよいと思うこと、わたしも日々の習慣にしていることがあります。
これは心理学的な方法のひとつですが
まずは自分のありのままの感覚を受け止めること。

そこに対して比較や評価はせず、
ただただ、感じることを

ほう、そうなのかぁ〜
なんでそう感じるんだろう
そっか、わたしはここが嫌だったんだな
そうかそうか、こういう状況にワクワクするんだなわたしは、などなど

そんなふうに深掘りしながら

意識して感じること。
答えがすぐ出なくても感じ続けること。

これは私の場合ですが、
ネガティブな感覚を深掘りしていくことは意外に自分のことがわかって、結果ポジティブに移行していくこともけっこうあります。

そういった事から、内側にある「感覚」が解放されていくのではないかなとおもいます。

自分の感覚にアンテナを向けよう

情報のアンテナを立てることは大事だけれど、
同時に
自分の感覚にアンテナを向けることがこれからものすごい重要になってくるのではないかな。

自分の感覚や
自分の価値観がわかってくると

情報との関わり方もきっとコツがわかってくるはず。
ピン!とくる感覚がわかったり
自分の中から開花できるものもきっと生まれる。

ものごとのめぐりも
きっときっと、よくなっていくはず。

インフルエンザで弱りながらも
そんな事を考えたのでした。

春分の日を堺に
わたしも子どもたちも
完全復活です!






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