仕事のこと1(はじめましてシリーズ)

noteを始めたものの、まだ私のことを知らない方もたくさんいらっしゃると思うので、しばらく「はじめましてシリーズ」のポストもちょいちょい書いていこうと思います。自分は「ライター」という肩書を使っていますが、これまでいろんな仕事をしてきましたし、今も、何が本当の仕事なのかわからないくらいいろいろな仕事をしています。

どうやってここまで来たのか、こうなったのかを振り返ってみました。

そもそも、私が「書く」という行為を始めたのは、たいていの人と同じように、最初は、学校で作文や日記を書かされたことでした。自分の意思で最初に書いたのは、紙工場で仕事をしていたおじさんからどさっとわら半紙をもらったからです。せっかく手に入れた紙を使って、最初は、かるたを作ったり、絵を書いたりしていましたが、そのうち、自分の「音楽誌」を作るようになりました。自分の好きな洋楽のことを、イラストと文章で書いたりしていたのです(今、思い出すと顔から火が出そう)。個人が作るリトルプレスのことを指すzineというものがあると知るずっと前のことです。

学校が嫌いで図書館や本屋に逃避するうちに、大量の本を読んでいたので、文章というものは、読むのも書くのもの大好きでした。ただ、学校で文章を書かされることには納得がいきませんでした。なんで先生たちと、自分の感情を共有しなければならないのか、合点がいかなかったのです。

大学のゼミで卒論集を出すときに、自由に使っていい1ページをもらったので、自分の大学時代を振り返る自虐的なエッセイを書きました。「書け」と言われると「嫌だ」と条件反射するクソガキでしたが、「自由にやっていい」と言われると、俄然燃えるのでした。大学1年めは、一生懸命勉強して行った大学のチャラい文化に失望して軽い鬱になり、「ファイナル・ファンタジー」に支配された人生を送り、大好きな夜遊びにもほとんど出かけなかったこと、大学2年のときに、短期留学プログラムでスタンフォード大学に行って、それからはアメリカに行くことしか考えられず、厳しかったゼミと興味のある授業以外の時間は、バイトやパチンコに明け暮れたことなどを、皮肉なトーンで書いたのです。

この自虐エッセイは、我ながらよく書けたと思ったので、ツテを頼って留学雑誌に原稿を持ち込み、その当時ではずいぶん早かったインターネットのウェブページで、大学院留学日記を連載させてもらえることになりました。それが文章を書くことで初めてお金をもらえる経験になりました。

当時は研究者になりたいなどと甘い考えを持っていましたが、大学院で根拠なく持っていた自信を完膚なきまでに破壊され、進路の方向を変えました。自分は調べ物や社会・時事問題が好きなので報道の世界に行きたいと思いました。夏のインターンを東京の報道局でやりたいと思ったので、各社に履歴書を送りました。BBC放送の東京支局にフォローアップの電話をすると「来てもいいわよ」とあっさり言われ、一夏、ジュリエット・ヒンデルさんという特派員のもとでインターンをし、報道のイロハを学びました。私が報道の手法について知ることの4割くらいは、あの夏、ジュリエットさんに教えてもらったものです。

その夏が終わってからすぐに就職活動を始めました。絶対、ニューヨークで暮らすんだという意気込みと「どうせダメ元」という考えが功を奏したのか、某新聞社のニューヨーク支局で記者助手ととして働かせてもらえることになりました、就職してからも、フリーライターとして、ちょこちょこ原稿を書かせてもらうチャンスをいつもさぐりました。会社でも、署名原稿は書かせてもらえませんでしたが、現地ページにニュースを書いたりといった訓練を受けました。この頃、「中学2年生にわからない文章はクソだ」という大きな教訓のひとつを学びました。

その後、アメリカの小さな出版社で、日本関係のプロジェクトの書誌を作る仕事を何年かしました。そのあとは、これまた大学院在学中に出していた履歴書がもとで、某通信社に務めました。その最中に、911の同時多発テロが起きて、世の中がひっくり返り、報道の仕事を続けていきたくないことを知りました。自分は、即効性のあるニュースを追いかけることよりも、もうちょっと長期的に世の中を見つめる仕事のほうが向いている、と思ったのです。

社会人1日目に「辞めたい」と思ってからの6年の間に、自分はいかに会社員に向いてなかったかをつくづく思い知りました。毎日、同じ時間に同じ場所に行くことも、忙しさの度合いにかかわらず給料が一定なのも、自分の性分には向いてなかった。おじさんたちの争いに巻き込まれるのにもうんざりしていました。

社会人になってからも、常にフリーで物を書くチャンスは狙っていたので、ちょくちょく仕事が入ってくるようになっていました。会社員をやりながら、女性誌の連載を持ったりもしていました。いつかフリーライターとして稼ぐお金が給料より増えたら、仕事を辞めようと思っていましたが、給料も少しずつ上がっていくし、有給休暇や夜間をフルに使ってフリーライターの仕事をするにいたっても、給料以上に稼ぐことはできなかったので、そのときはこないのだと悟り、仕事を辞めるチャンスを探りました。911のテロが起きて以降、会社の景気がだんだん悪くなり、自分の所属するデスクがオーストラリアに移されることになったのを機に、何ヶ月か分の給料を退職金としてもらって辞めました。

ライターとして独立したのは、16年前、2003年1月です。「ライター」とはいえ、会社を辞めてすぐは、来る仕事はなんでもやりました。立ち番(誰か、たとえば、政府高官などが言ってくれるかもしれない一言のコメントを録るために、ひたすら待つ仕事)もやりましたし、テレビのバラエティ番組のリサーチで、釈放された殺人犯のその後を探る仕事もしました(本人が電話に出てびっくりしました)。一番やりたかったのは、雑誌でしたが、仕事を選ぶ余裕はありませんでした。

一番やりたかったのは男性誌でした。会社を辞めた年に、マガジンハウスにいる妹が、BRUTUSのニューヨーク特集の仕事に紹介してくれました。それを機に、BRUTUSの仕事をさせてもらえるようになりました。海外で雑誌の仕事をするうちに、「コーディネーター」とも呼ばれるようになりました。海外での撮影や取材の手伝いをする仕事をするようになったからです。

(続く)

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