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次の10年はポジティブにいこう

あけましておめでとうございます。

新しい年が開けただけでなく、ひとつの時代が終わって、20年代が幕開けたかと思うと感慨深い。なぜなら、10年代とともにおさらばしたいことが世の中に溢れているからだ。

年末、友達に誘われて、サウンドバスに行った。サウンドバスとは、音を使ってリラクゼーションをもたらすウェルネスの手法だが、人間の体内の水分が音の波動に作用することで、肉体や精神をリラックスさせ、体内のストレスを洗い流す効果がある。

その日のサウンドバスのセッションは、インストラクターの「2019年はラフな年でした」という一言で始まった。は〜あ、そうだった。やっぱり2019年は、ラフな年だったのだ。

日々、アメリカとメキシコとの国境で不法移民の家族と子供たちが引き離されたり、催涙弾を撃たれる姿、いつまで立ってもやまない銃乱射事件、台風や山火事といった大規模な自然災害、シリアやベネズエラの大惨事、香港のデモの弾圧、目を覆いたくなるようなニュースが続いた。これまではNGだったはずの差別的言動が堂々と口に出されるようになり、いまだに多くの女性たちが性犯罪や性差別に晒され、司法に裏切られ、セカンドレイプに晒されている。表現の自由が脅かされ、声を上げる若者たちを一上がりの大人たちが冷笑する。きりがないのでこのへんでやめておくが、よっぽど世の中で起きていることに興味がない人でないかぎり、2019年は世の中的にラフな一年だったことは間違いない。モラル・ハザードが加速して止まらないこの世の中、一体どうすればいいのだ。

一方で、2019年は、クリエイティビティが爆発した1年でもあった。アンチトランプのコメディ前線は、これまで見たことのないエクストリームな切れ味を見せた。ひとつ、芸術品をここに貼っておきます。


 女子サッカーの躍進がトップニュースを飾り、フェミニズムを取り入れた映画が大ヒットし、女性監督の名前をクレジットで見ることが増えた。ヒップホップからロックまで、音楽の世界ではすべてのジャンルで、女性たちによる新しい表現が爆発的に溢れ出た。そういえば、つい近年まで、音楽業界で女性が占めるパイが小さいのは女性たちの能力が足りないからだとまことしやかにいう人がいたが、今の状況が、ただフェアなチャンスを与えられていなかったのだということを証明している。

 14歳のグレタ・トゥーンベリさんが、環境危機に手をこまねいている大人たちの目の前に現れ、危機的な状況にどう落とし前をつけようとしているのか、答えを迫ったところ、世の中にまだまだ原始的なミソジニーとセクシズムが存在することが露呈された。

 スポーツ選手や有名人が政治的な発言をすると、「ファン当惑」などとゲスなメディアがある。彼らは滅びるまでこういうコンテンツを作り続けるのだろうけれど、ピエール瀧さんのコカイン使用をいつまでもジャッジし続けるテレビと同じだけの視聴者を、ドミューンの電気グルーヴ特番が達成できる時代なのだ。ネガティビティは無視して、声を上げる人たちを盛り上げていきたい。

 政治の世界で、オンラインの言論界で、おかしいことはおかしいとはっきり言える若い論客たちがどんどん生まれる。ミソジニストやレイシストといったヘイターたちをバッサバッサと斬っていく。

 旧時代の膿はどんどん出てしまえばいいと思う。醜悪な感情、ネガティビティを見るのは嫌だけど、表に出てしまうのは良いことなのだと思う。膿が出た後の未来が楽しみでしかない。

 私はネット耐性が弱い。クソリプが飛んでくると、ストレスで胃酸が出ることを体が感知して、逃げ出したくなる。だから、惚れ惚れするようなシャープな言論を横からRTでそっとアシストするくらいで、自分の精神を守るためにソーシャルとのコミットメントを制限してきた。けれどそんなことでストレス溜めている場合ではないのだ、という気持ちになってきた。それくらい、この世の中にはおかしなことばかりが進行しているのだ。

 ミソジニーやセクシズム、レイシズムには断固としてノーを言わなければならない。ところが、気がついたのは、ファイティングポーズで向かっているととても疲れるのである。バサッといってスッキリはするが、かといってコミュニケーションという見地からは何も達成していないと敗北感を覚えるばかりだ。そしてファイティングポーズだと、だいたいの場合、相手の考えを変えるどころか、むしろ相手の考えを強固にしてしまう。

 マリファナというテーマを手掛けたことで、大きな学びがあった。自分の本には、マリファナが、厚生労働省が描くものとはまったく違うものであるのだということが書いてある。つまり、多くの人がこれまで信じてきたことを否定しているわけだ。そういうことをすると、当たり前ながら、ときどき攻撃的な反応を引き起こすことがある。そして自分も、攻撃的な反応をしてしまいそうになるときがある。けれどそれをやったら、自分が伝えようとすることにはまったく逆効果なのである。 

 ゴールは、「そういう考え方もありますね」と思ってもらうことなのだと思う。そしてそれを達成する唯一の方法は、ネガティビティを露わにせずに、「これまで『ダメ、ゼッタイ』を信じてきました」という人の立場に立ってみなければならない。エンパシーとポジティビティが必要なのだ。

 私自身も、エンパシーとポジティビティを欲している。渇望しているといってもいい。この世の中のネガティビティと、それが与えるストレスにはうんざりしているし、人としての痛みや感情を理解されたい。だったら、まずは自分がそれを実践しなければない。

 こういうことを言うと、私が大層善良な人間のように聞こえてしまいそうであるが、自分は本来、ずいぶんと自分勝手な人間である。ただこれだけ酷い世の中になると、自分がせめて良い人間であることを努めないと気が狂ってしまうのではないかという恐怖感がある。こんな時代である、ということが、自分を前より良い人間にしたということは確実に言えると思う。

 2018年に、私が見たものの中で、強い印象を残したサラ・シルバーマンと、トロールのやり取りがある。

今後のやり取りを詳しく書いてある記事があるが、要は、いきなり自分に対して、「カント」という性差別の罵り言葉の中でも一番ヒドいやつを飛ばしてきた人間のタイムラインをわざわざたどり、エンパシーで返したのである。彼女はこの日、少なくともヘイターを一人減らしたことになる。エンパシーというのは、こういうことだ。これはかなりレベルの高い例だといえど。 

 というわけで、この世の中の不正義とヘイトに、愛とエンパシーとユーモアで立ち向かえる力をつける。2020年の目標はこれである。

 トークで社会問題や選挙、フェミニズム、マリファナ問題などの話をしたあとに、会場から「僕に/私に何ができますか」という質問をいただくことがある。最近は、「自分の意見を声に出したり、運動をしている人を応援しましょう」と答えてきたが、これからは、「ポジティビティ運動を一緒にしましょう」と答えようと思う。

 声に出して挨拶をする、困っている人を助ける、頑張っている人、戦っている人を応援する、喜びや癒やしや笑いをシェアする、他人の靴を履いてみようと心がける、人種・女性・LGBTQ差別には「私はそうは思わない」と反対する、ベビーカーに舌打ちする人がいたら、赤ちゃんを愛でるーーこういうことは、絶対に自分たちの精神にもいいはずである。そして、エンパシーは、確実に自分の人生を改善してくれる。

 エンパシーの兄弟のように存在するインクルージョンという言葉がある。これまた日本語にしづらいコンセプトだが、社会に属する全員を社会に迎え入れるという、雇用の世界の最前線で説かれる考え方だ。つまりこれは、これまで社会に含まれなかった人たちがいるということだ。


同時に思うのは、社会の一員としてすでにインクルードされた存在でありながら、社会にエンゲージしていない人の衝撃的な多さである。私たちは、巨大なシステムの中に生きている。そして、一人ひとりがエンゲージすれば、システムは変えられるはずなのである。

 それを教えてくれたメーガン・ラピノーのスピーチで、この書き初めは終わりにしようと思う。新年に見るには最高のスピーチだと思うので、ぜひ見てください。これからの10年がたくさんのポジティビティで埋まりますように。






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