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試し読み:ホピの踊り、沖縄の秘祭

A面:ホピの踊り

 2017年のある日、友達のジョニーが厳かに言った。 「来年、ビーン・ダンスに来たらいいと思うんだ」
 ジョニーとはその2年ほど前に知り合った。近所に暮らすフォトグラファーのミケルが、弟分 の よ う に か わ い が っ て い た 。ニ ュ ー メ キ シ コ 出 身 の ナ ヴ ァ ホ の ラ グ の コ レ ク タ ー で 、某 大 手 ブ ラ ンドの店舗の内装の仕事をしていた。ダークヘアでオリーブ色の肌の色をしていたが、ネイティ ブアメリカンとは関係がなく、父親がポルトガル人だということだった。
 ミケルがカリフォルニアに引っ越してしまったあとも、私とジョニーの友情は続き、一緒に旅 をしたり、彼の里帰りに合わせてニューメキシコを訪ねたりした。もうずいぶん長いことアルバ カーキで暮らしているジョニーの母親とも仲良くなった。
 ジョニーが私の人生に登場するずっと前から、ニューメキシコという場所には、2006年頃 から、平均すると1年に2度くらいの頻度で訪れていた。縁があると思っていたが、単にストー リーの宝庫だった、ということもある。旅をする、というテーマだったときもあれば、ニューメキ シコを終の棲家に選んだジョージア・オキーフ絡みの取材のこともあった。ネイティブ・アメリ カンのジュエリーやラグ、スパニッシュの末裔が作るチマヨ織りの作り手を訪ねたこともあった。
 ビーン・ダンスに来たらいい、と言われたのは、そういう過程を経てのことだった。
 ビーン・ダンスというのは英語の名称で、正式にはポヤムヤといった。数あるネイティブ・ア メリカンの中でもストイックな部族と知られるホピたちが、アリゾナ州にある居留区で1年に 一度行う儀式である。先祖が神格化したカチーナと呼ばれるスピリットたち(に扮したホピの 人々)が、ホピのメサと呼ばれる村落を訪れ、住民たちと一緒に次の収穫シーズンに向けて豊作 を祈り、また若い世代をカチーナとしてイニシエーションする。ということは、カチーナの本を読んで知っていた。 ホピともまた無縁ではなかった。ネイティブ・アメリカン関係の本やアメリカの歴史の知識から、ホピ族のことはなんとなく知っていたが、2006年に BRUTUS のファッション特集で初 め て 訪 れ た 。ア リ ゾ ナ か ら ニ ュ ー メ キ シ コ 、コ ロ ラ ド に 広 が る プ エ ブ ロ 族 の 一 派 で あ る ホ ピ 族 の 居留区は、政治力があってアメリカ政府との交渉に成功し、広大な土地を手に入れた隣のナヴァ ホ族の居留区に囲まれるようにひっそりと存在していた。ホピ、とはホピの言葉で「平和の人」 という意味を持つ。ホピは狩猟はしたが、歴史上はスペイン人やナヴァホ族が攻めてきて、必要 に迫られて武器を取ったこともなくもないが、争いを好まないホピは、アメリカと戦わない道を 選 ん だ 、そ の 結 果 、不 平 等 に 小 さ な 土 地 を あ て が わ れ た 、と 説 明 を 読 ん だ こ と が あ っ た 。か つ て ホピたちが持っていた土地が、法的な区画ではナヴァホ領の一部になっていて、今も法的な争い が続いている。
 ホピの居留区に入るとすぐに、「写真禁止」という立て看板が現れる。同じような立て看板が 村落のいたるところに置いてある。外部の人間はホピの人間の同行なしにウロウロしてはいけ な い 。案 内 し て く れ た ホ ピ の 女 性 に「 写 真 禁 止 」の こ と を 聞 く と 、か つ て 白 人 の 写 真 家 た ち の 商 業活動に使われたから、外部の人間は勝手に写真を撮らないように禁止しているのだ、という 答えが返ってきた。
2006年の訪問の際には、初めてだというのに、運良く出会った案内の女性のはからいで、 メサと呼ばれる高台の村落の麓に住む陶器作家の女性の家に招き入れられた。父親らしき人が 居間で旧式のテレビを見る横目に、陶器を作る様子を見せてもらった。恐縮する私たちに、女性 は「いいのよ、人は物がどうやって作られるかを考えたりしないでしょう?」と言ったけれど、横では、小学生くらいの息子が駆け回り、家の中は、アメリカの消費文化を象徴する粗悪な大量生 産のガラクタで溢れかえっていた。人間たちが作ったシステムの大いなる矛盾が、自分の目の前 に広がっていた。彼女が言った言葉、そしてそこに広がっていた状況は、自分の物の見方に多大 なる影響を及ぼした。

(続く)

B面:沖縄の秘祭

 5月に沖縄に行った。沖縄に行くとき、いつもホストしてくれるのは、宮里小書店という小さ な本屋を首里の栄町市場で営む宮里千里さん、娘の綾羽さんを中心とする宮里家の面々だ。選 挙運動から市場のイベントまで、コミュニティ活動に積極的な宮里家のおかげで、沖縄の人脈 がずいぶん広がり、いろんな人たちに出会った。
 千里さんは採音家だ。祭りの音を録音するというライフワークがある。 年代から沖縄の各 地で行われる祭りの音を録音していて、これまで録音してきた数多くの祭りの中には、その後 行われなくなってしまったものも多々あり、千里さんのアーカイブは貴重な歴史的資料として そこに存在している。
中でも、600年以上にわたり久高島で 年に一回行われてきた、既婚女性が神女となるた め の 就 任 儀 礼 イ ザ イ ホ ー は 、新 た に 巫 女 に な る「 ナ ン チ ュ 」の 不 在 に よ り 、1 9 7 8 年 以 降 は 一 度も執り行われていないのだが、千里さんの録音により最後のイザイホーの音は、CDで聴くこ とができる。
 そしてそんな千里さんが、もうずいぶん長い間、通い続けているのが豊年祭という行事であ る。五穀豊穣を祈願する行事で、石垣島の四ヵ字(しかあざ)(石垣・大川・新川・登野城)で行 わ れ る も の が も っ と も 有 名 だ が 、も っ と 小 さ な 祭 り も た く さ ん あ る 。千 里 さ ん は 、い く つ も の 地 域で行われるこの儀式の音を長年録音してきた。ライフワーク、と呼ぶのは冗談ではない。同時 期にいろいろな場所で行われる祭りの音をすべて収録するには、それなりに時間がかかる。千里 さんは少しずつ何年もかけて、少しずつ多くの地域の祭りの音を集めてきたのだった。
「去年は台風でダメだったから、今年もまた行こうと思ってね」 と口にするのを聞いていたので、おそるおそる「それ、同行してもいいですかね?」とたずねてみると、あっけないほど簡単に快諾してくれた。 千里さんとは石垣島で合流した。飛行機を降りて、言われたように空港からタクシーに乗っ
て海岸沿いを北上した。すでに千里さんは、最初の祭りで録音を始めているのだった。伊原間の 公民館で、祭りがすでに始まっていた。歌の後、男たちが掛け声に合わせて背の高いのぼりを、 代わる代わる胸の上に乗せてまわしていた。観光客らしき人たちはちらほらと見えるだけだっ たほとんどの人たちが、地元の人や里帰り風の若者たちだった。千里さんはトレードマークの ポール式マイクを祭りの頭上に掲げていた。
 祭りが終わるとバスが終わっていた。千里さんは「市内に帰るマスコミがいるみたいだから乗 せてもらえるかもしれない」と言っていたが、結局、豊年祭を見学に来ていた研究者の女性とタ クシーを同乗して石垣市に帰ることになった。歳は私と同じぐらいだろうか。頭の良さそうな上 品な彼女は、話しかければ答えがポツリポツリと返ってくるような無口な人だったけれど、文化 人類学的な見地から、豊年祭を見に、単身わざわざ豊年祭に来ているのだった。
 豊年祭の時期、石垣島の宿が混む。私はその夜、千里さんのはからいで、Yさんという千里さ んの知り合いが前から確保していた二人用のアパートの一室を使わせてもらうことになってい た。市内に戻ってYさんに連絡すると、いるスナックで、合流することになった。ステージの付い たスナックでは次から次へとお客さんたちがステージに上がって歌や楽器を披露した。Yさん も笛を吹いていた。沖縄に来るといつも芸のできない自分を恥じる。私は知り合ったばかりのY さんについて市街地から徒歩で 分ほどのアパートに身を寄せた。千里さんが共通の知り合い、 というだけで、自分の部屋に私を迎え入れてくれたYさんは、沖縄、特に八重山と言われるこの あたりの文化に魅せられてもう長いこと通いながら師匠について伝統芸能を学んでいた。

(続く)

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