エースをねらえ

「エースをねらえ!」By Myself

京都の田舎で、蝉におしっこを引っかけられながら育った。
崖登りを最大のアトラクションとするような幼少期だった。

退屈と窮屈が苦手で、学校の授業は苦行に近かった。
小学生の頃の唯一の希望は「飛び級」。

『エースをねらえ!』を観て、うらやましく思ったのは、岡ひろみ。
(わたしの名前はオカノユミ。惜しい。)
あんな風に、まっすぐに努力ができる人をまぶしく感じた。

親は、単に成績がまぁまぁの子どもだと思っていたと思う。
わたしは大してお金をかけてもらえる状況でもなかったので、
地元の中学、高校に進んだ。

当時、知りたかったのは、「センスの偏差値」。
ありとあらゆることに存在するであろうセンス!その全国偏差値!
測りようのないものだけど、ある人には確かにあるし、
ない人には明らかになさそうなそれ!

岡ひろみにはテニスのセンスがあったのでやんす。
それを見出してくれたコーチもいたのでごわす。
じゃあ、わたしには?

わからん。
わからんが、しかし。
「センスの有無」を知るにも、
まずは自分で見当をつけなくてはならないだろう?

何のセンスならありそうなのか?ファッション?音楽?
「必要なのは環境か?きっかけか?」と問うのは、ナンセンス。
自分で用意できるものでもなかろうもん。

なるべく好きなことで、なるべく上手にできそうなことをやってみる。
それ以外にはなかろうて。

はい。
で、どうだったか?あれから何年?何十年?

なるべく好きなことで、なるべく上手にできそうなことをやってみた。
その中で、きらめくラッキーや華やかな舞台の隅に立つことが、
わたしにもあった。(ような気はする。)
もちろん玉砕もあった。(これは間違いない。)

されど、「センスの有無」は結果論的なところがあるし、
他人のジャッジは自己評価とはまた違うし。
何より、「ハッピーかどうか」とは関係がない。

となると、「せっかくだから、まずは好きな場所で、好きな曲で、
好きなように踊ってみよう!」だ。
それが「自分で選んだ競技で、練習と試合を繰り返すこと」に
なっていくのだろう。(試合は大事。練習ばかりではつまらないからね。)

自分を見出してくれるコーチがいてもいなくても、
特別なセンスがあってもなくても、「満足?少なくとも納得」。
そう思えたら、よしとする。そこに至った。

今、暫定的決心による結審を述べるなら、
やってみて、ここぞというときには「エースをねらえ!」。
それは、自分で言うべし。自分に言うべし。

そして、渾身の一振りだ。
自分に「ナイス・ファイト!」と言えるように。

うまくはまれば、退屈と窮屈から逃れられる、かもしれない。

健闘を祈る。
By Myself.

(あなたにも。)


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