天文学を知らない人でもわかる天動説から地動説になるまでの出来事まとめ

地球は回転してて太陽の周りをまわっているということが当たり前なのは、人類の歴史から見たらまだ最近の考え方で、ある時期までは、地球は固定していて、太陽含む他の星が地球の周りを回っているって考えられていた。

今は当たり前の地動説が世の中に受け入れられるようになるまでは、ざっくり以下のような感じ。

1、天動説の始まり

天動説は、2世紀にギリシャのプトレマイオスが提唱したものである。これは、あくまでも裸眼による目視観測であり、とっても雑な観測から成り立っている。

天動説は目に見える感覚的な発想なため非常に解り易く、天文学的知識の無い宗教の考え方のパーツとして採用された。つまり、天動説は、宗教教義と一体の考え方だったってこと。「万能の唯一神がこの世を(大地も天も太陽も月も星も)お創りになった。天体の運行は全て神の指示で動いている。その神の姿を写したとされる人間が住むこの地球こそが、宇宙の中心である。地球が宇宙の中心なんだから、天体がその周りを回るのは当然なのだ。」こういった考え方と一体になった理論体系だった。

実は、紀元前の古代ギリシアの学者にはアリスタルコスのように、地球が宇宙の中心ではなく、太陽のまわりを回っている1つの天体であるだろうという鋭い洞察をしてた人もいたらしいのだが、天文学者であるプトレマイオスは膨大な研究結果をもとにそれを否定して、天動説の考え方を提唱して、結果的に天動説が普及していったみたい。

2、天動説のほころび

天動説の理論体系のさまざまなほころびが明確化するのは,15世紀半ばに始まる大航海時代からになる。それまでの航海は沿岸航海、つまり,陸地の見える場所しか船を運航しなかったらしい。何も目印のない大海原では,行き先が分からず,航海もできないから当然だと思う。しかし,羅針盤(方位磁石)が航海術を大きく変えた。磁石と正確な星表があれば,遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったため、どこまでも海の先へ行っても自分がどこにいるか、どこへ戻れば良いかがわかるようになった。しかし,当時の天動説をもとにした星表には問題がかなりあったらしく、特に惑星の位置は誤差が常にあったよう。もうこの時期にはコロンブスがアメリカに初上陸したりするころなので、誤差があるのは大問題だったと思う。

さらにもう1つの問題が生じていたらしい。本当の1年の長さは,当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かくって、紀元前からユリウス暦を長年使い続けてきた結果,暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じちゃっていたらしい。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になってたから,10日もずれちゃった状態になってたのは大問題だったと思う。この問題はイギリスの哲学者であるロジャー・ベーコンによって13世紀にすでに提起されていたんだけど,1年の正確な長さが分からずじまいで、問題はその後、300年間も放置されちゃっていた。

3、地動説の提唱


16世紀になると、ポーランドのコペルニクスが、地動説の考え方をもとにして、1年が365.2425日であることを発見した。「コペルニクス的転回」は今までとは全く別の見方をする言葉として使われる言い回しで、コペルニクスはそういう逆のことをじゃんじゃん主張する人だったかというと、実際は、もっと大変で、コペルニクスは迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらったらしい。発表をしたのは、コペルニクスの死の直前の1543年。

コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分がカトリック司祭であったこともあり、カトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためらしい。ガリレオがその後どうなったかってことを考えればこう恐れるのも無理のない話かもしれない。

そして、コペルニクスの後、地動説を提唱する人はなかなかあらわれなかった。1582年には地動説をもとに計算したコペルニクスの365.2425日が1年の長さとして採用され、それまでのユリウス暦からグレゴリオ暦に変更になるものの、世の中がコペルニクスの説を受け入れるわけはなく...(というか理解できなかったと思う)。

天動説の学者であるデンマークのプラーエは、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するというすごい折衷案を考え出し提唱した。太陽は特別な星だから、その周りを惑星が回るのは問題なく観測どおりであるが、地球を含む惑星には太陽のような力はないので、月は地球の周りを回っていられない(太陽の周りを回る)だろうと考えた。ニュートンの万有引力はまだ提唱されていないので、天体を動かしているのは、神秘的な神様の力が働いてると考えられていたらしい。

4、ガリレオが提唱した地動説

イタリアのガリレオ・ガリレイは、地動説を最初に提唱したわけではなく、あくまで地動説に有利な証拠を多く見つけたのが功績。代表的なものは木星の衛星で,この発見は、もし地球が動くなら月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にする画期的な発見だった。また,ガリレオは金星の満ち欠けも観測した。これは,地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測し、太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて,地動説に有利な証拠となった。

しかし発明されたての望遠鏡で木星の衛星の軌道観測までできず、天動説の学者たちの反論を受けてしまい、認められることがないばかりでなく、1616年と1633年の2度,ローマの異端審問所に呼び出され,もう二度と地動説を唱えないことを誓わせられちゃった。1633年の裁判の判決では、地動説を捨てることを宣誓させられたガリレオが、宣誓の言葉に続いて「それでも地球は回っている!」と叫んだらしい...だけど、今では、当時の裁判制度からしてありえないって意見が主流になっている。本当のことはわからないけどね。判決は無期刑で、その後軟禁に減刑されたんだけど、監視付きの家に住んで、散歩のほかは外に出ることを禁じられて、自宅に帰ることもできなくて一生を終わったらしい。すべての役職は判決と同時に剥奪されたというなんとも大変なことになってしまって...ひどい話だよね。

5、そして地動説へ

だけど、たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力はもう事実上なかったみたい。その証拠にドイツではケプラーが、惑星軌道の根本であるケプラー第一法則と第二法則をガリレオの望遠鏡を使った観察の前に発表し、第三法則もその10年後(ガリレオの「それでも地球は回っている」の前のほうの裁判の直後)に発表して、惑星軌道モデルを実質完成させてしまった。ケプラーの完成させたモデルを基にした地動説の星表は、それ以前の星表の30倍の精度を持っていたらしく、そのおかげで地動説の星表は爆発的大ヒットになって急速に世の中に普及し、天動説の星表は実質的に誰も見向きもしない代物になってしまったようだよ。(なお、ケプラーは、若い頃にプラーエの助手をしていたという繋がりがある!)

しかし,ケプラーもガリレオも,まだ,鳥が何故取り残されないのか,地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままで、これを完成させるのは、イギリスのアイザック・ニュートン(りんごが落ちるところを見て引力があることに気づいた人)の登場を待たなきゃいけなかった。ニュートンが17世紀後半に慣性を定式化することにより,地動説はすべての疑問に答え,かつ,惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となってった。

5.最後に

というように15世紀から17世紀の300年もの時間をかけて地動説がその地位を築いていき、20世紀になってやっとロケットで宇宙に行けるようになって地動説が事実であることを目の当たりにしていったって感じ。


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